晦冥
初投稿です
霧谷涼は、夜の街を歩いていた。彼は仕事帰りに知人と飲んだ後、電車に乗るのが面倒になったのだ。彼はどことなく夜が好きだった。いや、彼は昼が嫌いだったのかも知れない。人と関わることが苦手な彼は、人の多い昼を嫌っていたのだろう。夜は、昼間の喧騒や煩わしさから解放される時間だった。夜は、自分の心の中にあるものを見つめる時間だった。
ビルやネオンの猥雑な光が影を落とす道を進む。車や人の流れは、昼間よりも少ないが、まだどこかに活気を抱いていた。夜になっても営みを続ける人間に彼はうんざりしていた。夜でなくてはできない仕事の一体どれほどが後ろめたいことなのだろうか。彼にとって神聖な時間である夜に明るいシミを作られたことに彼は怒りを覚え、そして戸惑った。何故僕は夜を自分のものだと思っているのだろうか、と。キリのない思考を押しやり、頭を空にしようと試みて諦める。人の波に浮かび流されるように移ろいながら、自分のことを考えた。僕は、仕事に満足しているのだろうか。昨日の夜、別れ際に彼女が放った言葉が、彼の胸にある暗い空間を主張する。「貴方は本当に私が好きなの?」。「好き」という言葉の意味を考える。僕は、自分の人生に意味や目的を見出しているのだろうか。人間は好きな相手同士でないと付き合ってはいけないのだろうか。仮に結婚したとして、お互いがお互いを好きでいる状態を維持するのはとても難しい。自分にとっても彼女にとっても、別れて正解だったかな、と少し感じた。
気がつくと、路地に入っていた。人の流れは消え去り、ビルの間を飛んでゆく風が、彼の背中を押す。室外機の熱に交じる饐えた匂いに顔を顰める。コートの襟を立て、風を借りて足早に路地を滑り抜けた。
橋を渡る。太陽が見落とした宇宙を河が纏う。星の光が水面を跳ね、月は眼窩に歪んで揺らぐ。彼にはそれが大きなゴミ箱に見えた。光から見放された行き場のないものの溜り場。彼を捨てようとする冷たい風に押されながらも、ゆっくりと渡りきった。
「好き」という言葉の意味を、彼は見出だせなかった。彼は、自分の人生について深く考えることを避けてきた。自分の人生について感じることを忘れてきた。彼は、自分の人生について何も言えなかった。自分の人生が嫌いだったわけではない。彼には人生が退屈なものにしか思えなかったのだ。大抵の人間は何も残せずに生涯を終える。言ってしまえば「意味のない」人生に必死になることが、彼にはどうしようもなく無駄に見えたのだ。
道を曲がって、公園に入る。公園は、住宅地の中にある小さな緑のオアシスだった。夜風が吹き抜けて、木々や花々が揺れる。公園では、虫や梟の音が、夜に背景を描いた。星や月の輝きは、大地が落とした大きな影にスポットライトを当てた。
ベンチに座って、空を見上げた。彼は、星や月に惹かれた。星や月は、昼間の光や影に隠れているものを照らし出す力があった。夜空は、自分の心の中にあるものを映し出す鏡だったのだろうか。
彼は、鏡に映った自分の心に目を向けた。彼は、自分の心にあるものを見つけた。心から言葉が滲み出て、ポツリと地面に落ちる。
「僕は・・・」
彼は言葉を探した。言葉を見つけて、拾い上げた。
「僕は・・・夜が好きだ」
彼はそう言って笑った。そして泣いた。
心の穴を塞ぐ気はない。それが夜だと気づいたから。
心から夜を好いた彼は夜に、宇宙に、星に手を伸ばし、
そして彼は夜になった。




