8.誰かに発信するメッセージ
故郷を思う時がある。
それは今のところ、贔屓のサッカーチームの試合がある前後数日や、それ以外の海外チームの試合を観戦している時にだ。地元のサッカーチームはJ2になったりJ1になったりを幾度か繰り返し、最近ようやくJ1に「返り咲いた」のだ。監督の変更や主力選手の移籍や、そんな困難を乗り越えた昇格には感動して笑いながら泣いてしまった。僕の贔屓はどうしたって地元の、ブルーに靡くユニフォームを着ている選手たちになってしまう。あのスパイクが芝を蹴り上げ、足指で大地を掴まんと踏みしめ、乱暴な秩序の元に駆け抜ける。その青春の瞬きにも感じる眩さは、他所のチームにないと断言できる。
僕もあのチームに入りたかった、本当は僕も。
大学でもフットサルのサークルに入っていた。僕は未だにOBの奴らと定期的に連絡を取り合い、「いつものスポーツバーでライブストリーミング」と仮託けては飲み会を企画している。
律儀に連絡を取り合う場合、しかし毎回SNSで呟く程度に留めている。わざわざ友人まがいの御立派な大人達に対し、メールでは直接的過ぎるし、ましてや電話なんて以ての外だ。さっさといい大人になってしまった僕らは皆、都合良く平等に忙殺されている。
それに、そもそも彼等に会いたいかと言われればそうでもない。目的は「スポーツバーで高揚感を共有する」為なのだから、顔見知りだろうが旧知の仲だろうが、あるいは初めて出会う何処の何奴か、とにかく同類項であれば良くて、カテゴライズされた中の人なら誰だって構わない。だから不特定多数のアカウントに宛てて呟く。誰宛でもない、誰かに宛てて。
ついさっきまでの僕なら何のためらいもなく、それがさっさと送信出来ていた。けれどたった今の僕は生身の人間だ。本当は傷付きたくないし、人付き合いも面倒だし、何よりバレるのが空恐ろしい。仮初の化けの皮の鎧のハリボテで稚拙に武装し、肩で風を切り刻んで生きてきた、そんなちっぽけな生身の僕に気付いた。
あれ以来、あのしくじり以来、僕は一心不乱に学問へのめり込み、いい会社に勤めて、いい身なりをして、「高学歴高収入」の称号を手に入れた。ハイセンス且つ多彩な趣味でお山のてっぺんに胡座をかいて、頬杖をついては下の方をぼんやり眺めていた。
でも今なら分かる。それは僕が這いつくばって泥を喰いながら必死に作り上げた、僕だけのための虚像だった。ガラクタみたいな鎧を身に纏うそんな僕の事をつまらない人間だと見抜かれた時、もう東京では生きていけやしない。
生きていけない筈は勿論無く、けれどたった今の僕には死ぬ事よりも恐ろしい。何より恐ろしい事実は、そうしてぶるぶると怯える僕の心にやっと気付いてしまった事だ。
だけど今更。
今更どうしろっていうんだ。貧弱な丸腰の僕をこれから一体全体どう扱えばいいんだ。丸腰どころの騒ぎじゃない、永遠に蛹のまま死ぬと決め込んだ哀れなふりをしているだけの、弱虫毛虫のこの僕を。時には被害者ヅラをして、不幸ぶって、心を閉ざしているふりまでしていたんだ。なんて浅ましく愚かな行為だ。今まではそれを善しとしてきたし、他の人間より優れていて、無限の可能性を秘めた選ばれしエリートだと信じて疑わなかったのに。
僕は何のために勉強して、いい大学を出て、いい会社に就職したんだろう。このまま虫取りかごの中、飲み込まれて溺れてしまいそうになる。僕は喉が乾いて仕方ないのに。
「これね、水入れたらね、怒られたんだけど、羽根って濡れないんだね!しゅんちゃんは知ってるかもしれないけどさ、でも羽根に付いてる粉を洗ったら濡れちゃったの。すごくない?」
「まぁちゃん、それは鱗粉だよ。雨の日でも濡れないように付いてるんだよ、それがあるとね、水を弾くの。だめだよ、そんな風に殺しちゃあ、羽根がダメになって飛べなくなるんだから、死んじゃうでしょ。」
「なんで?どうして死ぬの?」
「花の蜜を吸うじゃん、どうやって羽根無しで吸うんだよ。」
「歩いちゃだめなの?」
歩いて良い筈だ。いや、飛べなければ歩いていくしか無い。僕はSNSのアカウントを慌てて削除して、それから履き潰したスニーカーを突っ掛けた。時刻は午後三時を少し過ぎていたが、天気予報が夜まで的中しそうな雨脚だ。僕の体表を漏れ無く覆っている、僅かに残った鱗粉を丹念に洗った。髪を搔き、腕を擦り、胸元の白い木綿を四方八方へ引っ張り、揉みくちゃにした。
アスファルトには灰色の雨水がずるずると流れ、重なり合い、あっさり側溝へ帰って行く。万が一にも逆流して来ない事を確かめ、暫く見送ってから、ずぶ濡れで玄関戸を開けた。施錠もせずに飛び出した事に気付いた僕は、くつくつと肩を震わせた。