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不完全変態  作者: 半導体
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6.晴天に敗れる


 俊平が小学校高学年の頃、最も遊んだ友達の一人が麻実だった。隣に住んではいたものの、子供特有の諸事情(一所に留まってはいられない快活さ等であるが、かつてそれは誰もが容易にやり抜いていた)で大体は自転車を必要とした。

俊平のはマウンテンバイクで、いつか父から買ってもらったものだった。男の子はみんなマウンテンバイクに憧れたり、実際に乗りこなしていたから、俊平もこのマウンテンバイクが随分と誇らしかった。


俊平は自分の家庭環境、特に金銭面に於いては、とにかく豊かで、何不自由無い物資の潤沢さを心苦しい程に感じていた。例えば、同じクラスの隣の席の机上には、香り付きの練り消しゴムやロケット鉛筆が見当たらないし、筆箱もおさがりの様子だった。その上、口金は疾うにバカになっていて、掃除の時間は必ず机の中から撒き散らす仕掛けと化していた。

他人の筆箱と散らばった中身を触る事に些かの抵抗を感じつつ、他所の家庭の貧しさに遣る瀬の無い怒りが湧いた。しかし、消しかすを集めて作り上げた贋物の練り消しゴムを捨てる事も出来なかった。

俊平はそれを拾い上げて弄ぶと、燻っていた火種が鎮火していくのが分かり、ゆっくり安堵していった。


当時、爆発的に流行している携帯ゲームがあった。放課後の俊平は、携帯ゲーム機と幾つかのソフト、通信ケーブル、単四電池、ACアダプタ、Jリーグのポテトチップス、ジュース、ついでにマジックテープ式の財布まで持ち歩かなければならない。だから黒いナイロン製の袋に詰めて(ナイロン製のそれにもきちんとJリーグのマスコットキャラがプリントされていて、所々掠れてはいたが利便性は高く、俊平は決まってそれしか使わなかった)マウンテンバイクのささやかなカゴに入れてあるいた。

これは俊平だけの特別な装備でも何でもなく、世の中の小学生は皆平等に携行し、友人達と唯其れのみを真剣に遊んでいる事を、やはり切に願ってもいた。


僕は様々な場所を漕いで行ったと思う。外でも室内でもメンツはさして変わらない、いつもの友達と、いつもの遊び道具一式と、いつもの麻実。その日の麻実はゲームの気分ではなく、最近捕まえて観察しているシジミチョウとモンシロチョウを見ようと提案してくれた。

一度目に捕獲した時は何羽かのシジミチョウだけで、麻実は喉が乾くだろうと思い、虫取りかごに水をわんさか入れてやったらしい。それを母親に見つかって叱られたと言っていた。


「確かに今になって考えてみれば、あれは溺れて死んでしまうよね。その時は全然分からなかったんだけど、今思うとよく分かる。私、悪いことしちゃったよ。」


「それで、まぁちゃんまた捕まえたの?」


「うん。しかもね、モンシロチョウもゲットした。これはいいよ、実はモンキチョウも居たんだけどね、黄色くて可愛いし数が少ないからやめといた。見て、模様がね、よく見ると真っ黒じゃないんだよ。あ、持つ?気を付けてね、羽が破れないように。口もシジミのよりでかいよ、くるくる巻いているのがよく分かる。」


太陽にかざしながらモンシロチョウを観察すると、地球上に存在するものが僕らだけだった事をじりじりと感じた。このまま世界が終わってしまうのを防いだ方が良いと俗っぽく考え、僕はお得意の勉強で得た、蝶に関する知識を慌てて披露した。


「蝶々は芋虫から蛹になるでしょ?蛹のあとは蝶々になるでしょ?でね、蛹の中身がどうなってるかを研究した人が居るんだ。」


途端に麻実の眼球が真球に変わろうとしている。


「それでね、蝶々ってのは完全変態ってやつらしくて。蛹になったら、その中身は一度どろどろに溶けて、それから蝶々になるらしいんだよ。それでね、こう、切ってね、ぎりぎりまで。それでね、羽化させるんだよ、分かるかなぁ、本当だよ。」


「しゅんちゃんなら、できるじゃん。やってみせてよ、だってほら、羽をこんなに優しく持ててるんだもん。私てっきり羽を捥いじゃうかと心配してたけど、やっぱりしゅんちゃんは上手だね。」


記憶の中の陽射しは柔らかく、朗らかで優しく儚い、うららかな午後だった。庭の花々はどっさり咲いていて、まぁちゃんが僕を真っ直ぐに信じてくれていた。後日、純真な期待に添えない実験結果を基に僕がやった事は、「優秀なしゅんちゃんを愛する母親」へのアリバイ工作だった。


実家にあったマウンテンバイクは中学進学と共にさっさと棄ててしまった。筆箱もゲームも棄ててしまった。虫取り網も図鑑も麻実の笑顔も全部全部棄ててしまった。記憶を焼き焦がし改竄し異形の思い出として粗末に片付けてしまった。誰の為でもない、つまらない僕の為に。蝶々を殺した犯人は傲慢でプライドが高く頭が良いふりをした僕自身だった。でも「秀才で優等生の僕」は麻実より全方位からの信頼があった。だから嘘をついた。特別裕福でも成績優秀でもない普通の女の子に、特大の濡れ衣をざっぷり着せた。

どうしよう、さっき淹れたばかりのコーヒーが部屋中を彷徨っている、息が出来ない、酸素が見当たらない、溺れてしまう、このままだと苦しくて死んでしまう、頼むからわんさか入れないでくれ!


窓を開けると雨が降っていた。サッシには頬が張り付いていた。


新しい酸素がようやく部屋をかき混ぜる。ゆっくり優しく、くるりと一回。随分長い間止まっていた鼓動が再び動き始めた。

僕は十数年ぶりに新鮮な酸素を吸った。

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