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不完全変態  作者: 半導体
5/10

5.曇天を仰ぎて


「おお」


瞼の内側にも綿密に張り巡らされた血管が実は未だにあって、子供の時分によく見入った事を思い出す。それを矯めつ眇めつ血潮をなぞってから、じわりと睫毛を持ち上げる。

まだ若い証拠がこの毛量分の重さであり、その確たる証拠を麻実はまたひとつ、大発見した。やはり大いなる気付きのときにはつい口を突いて音が漏れる。おそらくたとえ幾つになっても。


今朝の天気予報では「全国的に雨となるでしょう」という、どちらとも取れる誰にも優しい回答をしている。麻実はそれだけ観るや否や素早く液晶画面を消した。しかし電気もなしにぼんやり眩しく感じるのは、よくよく窓を見ると降っていないに等しく、見た目ほど重たくなさそうな雲が、もぞもぞと重なり合って空を占拠していた。


「ああ、いい天気」


高校へ進学すると私の制服はセーラーからブレザーへ変わった。最近はスカート丈の短いものが流行りらしい。おまけに暑さも加わって、私も夏に一度お直しを済ませてある。勿論短すぎると邪だけれど、長過ぎてもブレザーとしてはアンバランスに感じたから、ひざ小僧より少し上の位置で補正してもらったのは、我ながらとても良い選択だった。


通学用のローファが少しずつ傷み始めてきた。しかし、これでやっと自分の足を丁度良く納めて包み込み、これからの私には本当の自由が始まる。


帰り道はいつも、特にへたってきた、つま先から甲にかけての履き具合と風合いが嬉しくて、この良さを分かってくれる誰か(今のところ私の周りにはそんな類の、気骨有る人は居ない。とても残念だけれど、どうしたって居ないものは居ない)に自慢したい気持ちには当然抗わず、どんぐりの木から、或いはもっと上の何処か遠い所から、無尽蔵に落ちては出来る枯葉の小山や溜まりを、私は勇敢に摺り足で掘り進めて歩く。


どんぐりはまんまるのやつと、長細いやつが落ちていて、長細いやつの方がつやつやしている。まんまるのやつは帽子を被っていて、でもイガイガして硬いから、ヘルメットという可能性もある。根元には律儀に「コナラ」「クヌギ」と書かれてある。

私は散々蹴散らした後、平和と豊かさを足裏からじんわり感じて姿勢を正す。束の間の仁王立ちをやめ、かわりに乾いた空気で深呼吸をする。

来年の今頃には就職活動をしているだろうと考えてみれば、やっぱりたった今が一番平和で豊かな時間に思う。


先輩達は日々教室に届く「新卒求人一覧」を熱心に見て、まだまだ良い就職先は難しいとか、これは受けたいけど先生からの推薦が要るらしいとか、ああでもないこうでもないと静かにやり取りしていた。


紙を捲っては話し合うその横顔から、胸が痛むほどに敬虔な社会人の片鱗がみえた。もうとっくに腹積もりをし覚悟を決めている、大人になる事を受け入れた上で人生の算段をする、それそのものだった。

まだあんなに楽しそうなのに、本当は短大に行きたいのかもしれないのに、世情や経済なんてどうだっていいはずなのに。

歯をくいしばる先輩達と数枚しかない藁半紙を、それでも私はきちんと見届ける事がたった唯一の正しい行いだと思って、じっと廊下に立っていた。


急に風が冷たくなってきた。

バイトに遅れてしまうのはまずい。


数枚の求人に挙って頭を突っ込み、寄って集って談義するものだから、あの藁半紙はさっさと疲れ果てていた。

私も来年は、潔く社会のルールを守りながら履歴書を何度も何度も繰り返し書いて、考えるより先に体が動くまで明朗快活な面接の練習をやり抜き、やがて朗らかで残酷な春を迎える。


同級生の進学校へ進んだ人達は、朝から晩まで勉強漬けという話を聞いた。多分、俊平くんも大変なんだと思う。


「おお」


驚いた、実に二年ぶりに思い出す、かつて喜怒哀楽を一々共有した幼なじみのともだちを。

驚いた、彼はこれから先も学生になろうとしていて、秀才だと思っていた人が更に勉学を必要としている事を。

驚いた、しかしずっと小さい頃から、本当は勉強よりもサッカー選手になるのが夢で、サッカーボールを磨いてばかりいたのに。


これが木枯らしかと言わんばかりになってきた、いよいよ行かなきゃならない。私はバイト先の店長に怒られるかもしれないけれど、本当は嫌じゃない。本当は勉強が嫌な俊平くんと違って。


「嘘つきめ、嘘つき!」


私は俊平くんの代わりに、一番立派な枯葉の小山を一度だけ思いっきり蹴り上げて、真摯に言い捨ててあげた。彼はもう二度と、こんな馬鹿みたいな言動を許されないのだろうから。せめてもの餞別とエールとを気の毒な君へ、華麗なるスーパーシュートをお見舞いした。


麻実は雨だろうが何だろうが、午後からはスーパーやドラッグストアに行くつもりだった。慎ましやかな生活は曇天によく似合う。別に燦々と晴れなくたっていいし、ずぶ濡れで雨に打たれなくたっていい。本当にそれで良い。

一度きちんと身体を起こしたものの、渋滞した雲をじっくり観察すべく、改めてまだ温かい布団に入り直した。

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