3.麻実とお酒
所謂「雑居ビル」と人々が呼ぶ様な、何色なのかよく分からない建物の二階で「お開き」という流れになったようだった。
察するに元々はもう少し無機質で、衛生的な色味の建物だったと思うが、今日見た限りでは、夜だろうが昼だろうが、何色でもない街中にだらりと溶け込んでしまった色だった。おまけに階段は人の足を慎重にさせる高さで、大抵の人はそれで一斉に俯く。いくつかの手がコートの袖、肩、二の腕を触り合い、補助しながら縺れ歩く女と男の汚らわしさを、一体全体どう表現すべきか。これは悲しい事に麻実が会社員になってから後悔する光景の一つだった。
「あんよがじょうず、あんよがじょうず」
麻実は前方の猫背共に向かって秘密裏に音頭をとる。恐る恐る降りていく、つまらない背中(どれだって構わないが、今夜は目の前のベージュのコートに照準を合わせる)を押したい衝動に駆られながら。
飲み会はいつも突然終わる。手拍子みたいなものを一つ、ばちん!と全員で同時に行う。するとまるで催眠術が解けたかのように(あるいは本当に解けてしまったから)、各々が鞄を拾い探し、上着を壁から引き剥がし、行方知れずの靴を命懸けで奪い合う。麻実は毎回、唐突に終わる酒席に戸惑いながら、あたかも催眠術の儀式の一員であるかの様に振る舞う。麻実は俗っぽい事もやってのけるし、帰りしなには蒸気した顔に、いちいち気の利いた言葉を掛ける事だってある。そんな自分が可笑しくて、玄関の鍵を開ける頃には、耐えきれずにくつくつと肩を震わせるのだけれど。
帰り道はだらしない雨が降っていた。じめじめとか、蒸し蒸しとか、そんな簡単な言葉を優に超えて、首筋や足の裏、顔も手も頭皮にまで、じっとりべったりへばり付く雨だった。そうすると、もしかしたらこれは雨ではなく、違う何かだったかもしれない。私はひとときの妙な高揚感をあっさり消し去った後、すぐさま部屋に入る。半ば慌てながら身につけていた全てを捨て、爽やかなカーディガンと木綿のパンツに成ってからベッドに飛び込む。嫌な雨、季節外れのぬるい雨。しかしそれらから守られている穏やかな空間。自分で稼いだお金で借り住むアパートの、なんと住み心地の良い事か。脱ぎ散らかしても入浴せずとも、そして床が濡れていようとも、心地良さと温かさで瞼と二の腕がとろりと溶け始めた。
ああ、世界中の人がみんな、こんな風に過ごせたらいいのに。誰も分かってはくれないけれど、帰りの猫背共にはそんなことも伝えておいた。慈愛溢れる自分を今夜も誇らしく思い、健やかに眠りはじめる。ふと蘇る昔々の記憶が突如、私の心地良いひとときを邪魔し始めた。
蒸し暑い雨なのに母から着せられた浴衣と背中に刺した団扇、焼きイカには目もくれず、お小遣いで買った甘ったるくて固くて美味い、べたべたのりんご飴。
自転車で下校途中、タイヤと路面の段差で水溜りごとひっくり返り、それでもセーラー服ごと洗い晒して再び漕いだ。帰り着いて自転車を停めた時、やっと雨水がばたばたと落ちてきたのは、伸び始めた黒い前髪からだった。
やはり今日の雨はいつもと違う何かだった。よりによってこんな時に、ざらざらした記憶が静寂な水底から澱のように、しかし色鮮やかに舞い上がる。
私だって馬鹿みたいに幾度となく濡れてきて、それでも今尚無事に帰る場所がある。いくつもの雨達に打たれて混ざり合ってしまった、最早判別不能な記憶と感覚、ついでに膝元で半分に折り畳んでおいた羽毛布団と毛布を、全部まとめて夢の中まで引っ張った。
布団の中はすでに麻実のもので充満し、今夜も柔らかい寝床になっている。首まで引き上げた毛布達だけが、只唯一の完璧な味方なのかもしれない。
「お酒なんてまっぴら御免だね」
おやすみの代わりに、それだけ声に出してみた。