2.しゅんちゃんとモンシロチョウ
俊平は一人っ子だったのもあって、教育熱心な母親からの庇護を受けて立派に育った。大学も就職先も東京で、実家には年に一度、帰れば良い方だった。
俊平は優秀な人間に成れた事実を日々噛み締めながら生活している。合コンでも、名刺交換でも、社内の人間関係においても、俊平は概ね優等生的扱いだった。それらは俊平自身もずっと望んできた事だったし、自分を取り巻く環境の全てに満足していた。
「広告代理店に勤めている」と言ったところで、果たして誰が業務内容を理解するだろうか。しかし響きは良いらしく、それだけで靡く人間は大勢いる。
先日の合コンでも、かなりの手応えを感じたが、それよりも今となっては、あのハンカチの方を気にしていた。勿論「ツモリのハンカチ」を持った女性がタイプだった訳ではなく、問題はハンカチにある。少女染みた、白い刺繍の「てふてふ」と言い表わすのが一番しっくり来る、一羽の蝶の柄。それで昨夜から真剣に脳内の抽斗を開けっぴろげ、中身をひっくり返し、入念に検閲している次第だ。
昼食後、漸く思い出した。あれはなんだったのか。そうか、確か同級生の女の子に何か騙されたのではなかったか、どうせ騙されたに違いない。俊平は自分の記憶力の良さについて感心するのと、社食のチキンカレーの感想を同時に考える事が出来る。
ああそうか、蝶々だ!モンシロチョウ!懐かしいな、ああ、誰だったかな、名前は。
一度蘇って仕舞えば、そんな言葉が次々と浮かんでくる。久しぶりに笑っているかもしれないが、にやけた顔で社内をうろつく訳にもいかず、唯トイレを目指して歩く。無論、とても優等生的に。
家の隣には、まぁちゃんが住んでいる。まぁちゃんからはしゅんちゃんと呼ばれている。「しゅんちゃんは頭が良くて優しい」らしい。僕はゲームをたくさん持っていて、誰が遊びに来たとしても、必ずジュースとスナック菓子を出すように努めている。ママがそうしなさいって言うから。
よその家より随分大きな家には、立派で頑丈な玄関扉がある。両開きになる仕掛けで、砂つぶひとつ入れない様にびっちり閉まる。僕みたいな、ふくふくした手のひらで開けるとなれば随分と苦労する。それでたまにママやパパをこき使ってみたりもする。反抗心がバレないように、こっそり上手く。
まぁちゃんはその扉を開ける時、毎回毛が生えているのを入念に観察する。扉同士が接触する部分にある、びっちり閉まるための仕掛けなのだと思う。その黒いゴムの部分と、黒い毛の部分を真剣に見入る。入念に観察するのはまぁちゃんの特技だと思うけれど、毛の方ばかり見ている理由は分からない。
まぁちゃんとはゲームをしたり、図鑑を眺めあったり、お庭で昆虫を捕まえたりして遊ぶ。まぁちゃんには本を三冊と、お気に入りのゲームソフトを貸してあげた。通信交換をして遊びたかったのに、まぁちゃんは持っていなくて、でも僕はまぁちゃんと通信交換をしたかったから。だから予め、サンタさんにはゲームソフトを二つ頼んでおいた。まぁちゃんに告げた時は、あっけらかんとしていたけれど、でもゲームについては真面目に取り組んでくれていると思う。「この事は二人だけの秘密だよ」って言ったら、「うん」って言ってくれたのだから。
ゆうすけくんにも、かずなりくんにも秘密だ!と思った途端、僕は少し恥ずかしい気持ちがしたけれど、何となく、あっけらかんなフリをした。
俊平はトイレに篭ってから記憶を整理する。
あの子は麻実ちゃんで、僕は麻実ちゃんから蝶に関して何かしら傷付けられた様な気がする。どうせ遊びで蝶を死なせてしまったとか、そういった類の些細な事だろう。僕は昔から真面目で優等生だったのだから、思い出してしまうのも無理は無い。結局、母親にひどく叱られて終わったのかもしれないが、果たしてモンシロチョウはどうやって死んだのか。それにしても子供は残酷な遊びをするものだ。モンシロチョウを平気で殺すだなんて。
記憶に靄がかかっていく。酸素が薄くなっていく。
「あ、ゲームソフト。」
麻実ちゃんは、まだあの家に住んでいるのだろうか、かつての実家の隣に。裕福な家庭に生まれた俊平には、もう時間切れだった。これからミーティングが入っているし、今日は何となく残業になりそうだった。
例えどんなに遅く帰ろうとも、翌朝にはあっけらかんと出社しなければならない。だから今はモンシロチョウとゲームソフトを諦めて、眼前の現実に取り組む事にした。