10.日の出、セレナーデ
鞭打ちの刑に遭った様に寒い。突拍子も無く家を飛び出しては雨に打たれるという、奇怪な行動をとってしまった。バスタブにお湯を張ろうと湯沸かし器のスイッチを押す。ずぶずぶの衣をやっと脱ぎ、丸ごと洗濯機へ放り込むと、べちゃりと音が飛び散った。
風呂が沸くまでの間、丸裸でベッドに腰掛けた。太腿に腕を乗せたまま、レンズに浮かぶ僕を静かに見据える。ベッド脇に設えた小さなサイドテーブルには、黒縁で少しガタがきた、度の強い眼鏡を一つ置いてある。
この眼鏡は大学受験より少し前から使っている遺物だった。僕は長い間ずっと机に向かってきたから、すっかり目が見えなくなってしまって、だから今となってはコンタクトレンズという便利なものを仕事で用いる。しかし鮮明に見えても或いは不明瞭でも、全てが正しい事だったのかもしれない。
ふと顔を上げると、清く正しい孤高の国の少女が確かに居た。裸眼の僕の前で仁王立ちしている。
冷や汗なのか、それとも雨なのか、頭皮の全毛穴からは水滴がじわじわと滲み出てくる。湿った両手を素早く伸ばすと、そのまま眼鏡を弄び、観察に没頭した。この生き方がこれで善かったのか、悪かったのか、その辺の難しい事に関する情報がどこかに隠れてやしないか、ビス一つネジ山一つとして見落とさず、丹念に。麻実の様にはいかないけれど、それでも眼前の少女が恐ろしくて真摯に取り組む。
往生際の悪い僕に、赦しを請うたった今の僕に、それでも頑なに微笑む姿は強く美しく、やはり目を逸らしてはならないと思い直す。今生の醜い抗いをこれでお終いにして、僕は正しく眼鏡を置いた。
「しゅんちゃんの嘘つき!」
嗚呼これはなんだっけ、顔面にばちばち当たっている。僕に純白の米をフルスイングで投げつけ、また握り、また投げつける。腹を抱えて笑っている。足元にはサッカーボールを携えている。米は虫取りかごに入れてきたらしい、肩を震わせながら僕に堂々と見せびらかす。
風呂が沸いたようだ。明日も雨だろうが最早何の問題も無かった。僕は死ぬまで此の東京で生きていくのだから、百足の様に連なる電車やバスに乗って働きに出れば良いし、乗れないなら歩けば良い。
また月曜日が始まる。
僕はたった今、漸く洗礼を受けた。