推理紀行〜豊後の火石〜
かって存在した投稿サイト「e-ペンギン」に投稿した文章に現状の話を追記しました。
目賀見勝利の推理紀行『豊後の火石』
〜推理小説「豊後の火石」に寄せて〜
『風かをる 越の白嶺を 国の華 翁』
という俳句は、松尾芭蕉が「奥の細道」の途上7月下旬から8月上旬、北陸の山中温泉で芭蕉門下の句会で発表した句であると思われる。山中温泉から見える白山を望んで詠んだものであろうか。加賀金沢の門人、鶴屋句空が白山比口羊神社に奉納した句集〈柞原集〉の巻頭に記載した句である。翁とは、門人が芭蕉を呼ぶ時の呼称である。
柞とはコナラ(小楢)、クヌギなどの落葉性高木樹を意味する言葉であるらしい。楢とは、「風に鳴る葉」の意味を含んでいるらしい。柞原集のほかに、鶴屋句空は〈卯辰集〉を奥の細道の3年後に出版するなど、金沢の俳人の能力向上を願っていろいろと努力をした人であるらしい。卯辰集の出版に際して、奥の細道時代の句を掲載する事に関し、三年前に詠んだ句が古いので芭蕉は嫌がったらしい。このころ、芭蕉は『軽みの境地』に到達しており、過去からの脱却を志向していた模様である。結局、何作かの掲載を了承している。
この句の「越の白嶺を」の部分を「越の白嶺に」とした場合の句の持つ意味と比較すると、この句の面白さが見えてくる。「を」とした方が「に」とするよりも意味(情景)に拡がり(二つの意味)がでてくる。「国の華」とは白山比口羊大神のことで、白山の嶺を足下に踏んで、上空に大きく立ち上がっている大神の姿を霊視した情景と、白山を越国の華、あるいは日本国の華と呼びたいと云う思いを表現した句になっている。
ところで、金井南龍という修験霊能者が昭和35年8月9日の台風の日に白山山頂の奥宮で霊的封印を解く神業を行い、根の根の底に閉じ込められていた八幡大神(10合目の八幡神)を開放したらしい。この時、八幡神が世界の白山神界に属する存在である事が判ったらしい。世界の白山神界の神様に混じって、宇佐八幡神の比売神三女神もこの時、挨拶に来たらしい。ちなみに、白山神界の姫神の乗り物は《お尻に剣マークを持った金蜘蛛》であったらしい。凡人の私には、真偽の程は判らないが、そんな事があると思っておく方が人生楽しくなるので、読者諸氏にご紹介しておきます。崇神天皇が白山の遥拝所を一宮町の安久怒ヶ淵に設けたのも、八幡大神に対し、安らかに、いく久しく、怒りを押さえてほしいいと願ったからであろうか?
ところで、白山比口羊神社の境内に末社・荒御前神社がある。祭神は荒御前大神、住吉大神、日吉大神、高日大神の4柱である。荒御前大神は神功皇后が三韓遠征の時に天照皇大神が遣わした航海の守護神で、軍船の舳先に祭られたようである。日本武尊または住吉大神の荒御魂とも謂われている。
神功皇后は大和国に凱旋の折、茅沼の海(今の大阪湾)を通過中に神託があり、天照皇大神の荒御霊を武庫(現在の西宮市、芦屋市、神戸市東灘区あたり一帯)の広田神社に鎮座させた経緯がある。当時の広田神社は現在の西宮神社と甲山を結ぶ線上にある名次神社のあたりではなかったかと言う人もいる。ちなみに、現在の名次神社は広田神社の境外摂社である。神功皇后は甲山に武具などを納めたと謂われている。武庫と云う文字は六甲と変字して用いる場合があるのはこの故事によるのだろうか。
名次神社から1キロほど離れたところに越木岩神社がある。この越木岩神社の境内には甑岩と呼ばれる巨大花崗岩があり、この前に宇佐八幡宮の祭神である比売神三女神の1柱である市杵嶋比売命が祭られた摂社がある。この神様は安産の神様とされており、参拝者が絶えないようである。この摂社の横には六甲山菊理媛の遥拝所がある。菊理媛は白山比口羊大神のことである。日本酒を醸造する時に使用する米を蒸す容器の甑に似た形をしているのでこの名が付いたようである。この巨大岩にちなんで、俳諧の祖と謂われる山崎宗鑑が俳句を残している。
『照る日かな 蒸すほど暑き 甑岩』
真夏にこの神社を訪問すると、この句の意味がよくわかる。
ところで、越木岩神社の鳥居をくぐると、その直ぐ左にラグビー球の大きさの丸い石が以前には飾られていた。昔、村の若者が力比べで持ち上げたらしい。小説の中で、「この石が神功皇后の三韓外征時に応神天皇の出産を遅らせるために利用したものであるのでは?」と曽我三郎教授に想像させている。今となっては証拠がないが、宇佐八幡宮、越木岩神社、広田神社、白山比?神社を結ぶラインには神功皇后の姿が見え隠れしている点を考慮すると、面白い発想であると思っている。菊理姫の坐す(います)六甲山山頂付近に石宝殿を造り、応神の出産を遅らせるために腹帯で腰に巻いていた石を、ククリヒメに感謝を込めて返納した。金井南龍氏曰く「菊理媛の神働きは、魂と肉体をくくり付けておく事である」らしい。石を介して、ククリ媛のご加護で応神天皇の魂と肉体のククリを遅らせることが出来た神業に感謝したのであろう。後年、雨乞い神事の為に石宝殿に来た甑岩村の若者が、この石を越木岩神社に持ち帰ったのではないだろうか。甑岩の奥には、雨乞いを司る龍神を祭る祠がある。時が経過して腰巻石「こしまきいわ」の間「ま」が取れて、甑岩「こし きいわ」となった?
※昨年(2008年)久しぶりに越木岩神社に参拝した時にこの力石を再度拝見したが、私が以前に見た花崗岩の石より一回り大きくなり、形も丸みが無くなった石に換わっていた。色も白っぽさが無くなり茶色が強くなっていた。知人の話によると、かって力石は3個あったらしい。あとの2個のうち、1個は某寺社が所有、もう一つは不明であるとの事であった。私には誰かが取り換えたとしか思えないが、記憶違いであったのだろうか?昨年見た石には「力石」と刻印されていたが、以前のものには刻印がなかったと記憶しているのだが。
また、六甲山菊理媛の遥拝所祠の奥に、式神(前鬼、後鬼)を左右に従え、意味ありげなウィンクをしている不動明王が祀られている。かっては、不動明王ではなく、役行者の石像が、二人(?)の式神を左右に従えて鎮座していた。しかし、ある時、役行者の石像だけが盗難(?)にあったらしく、無くなっていた。役小角は式神を残して何処へ行ってしまったのだろうか?そして、あの力石も?(2009年5月追記)
更に、龍神の祠の奥には、祭祀用の磐座があり、稚日女尊が祭られている。この磐座は阪神大震災以前には忘れ去られていた存在であったが、磐座研究家の某大学の女性教授が発見したようである。発見された時は地震のためか、3個で出来ていた岩組は崩れていたようである。神功皇后の三韓外征の帰途、難波津に向かうとき、活田(生田)の地に住みたいと託宣した神様が稚日女尊であり、神戸三宮にある生田神社の祭神でもある。天照大神の妹神として和歌山県紀ノ川流域かつらぎ町の丹生都比売神社にも祭られている。神功皇后は稚日女尊の託宣に従って、兵士の衣服や船、武具を朱色に塗ることで三韓外征に勝利したとされている。現在の宇佐八幡神社の建物が朱色に塗られているのも、この故事によるものと考えられる。
神功皇后の存在した年代は2世紀か4世紀と謂われている。
神功皇后、興味の尽きない伝説の人物である。
2006年12月24日(日) 目賀見 勝利 (記)
2006年12月29日(金) (追記)
2009年5月23日(土) (追記)