第3話 トクベツな人
黒瀬の特訓もなんとか初日が終了した。そんな帰り際の御木に、黒瀬があることを問うた。
そして、家に着くと幼馴染の新槙英子とばったり出くわす。
「あーあ、折角満点狙えたのに……」
「だが結構頑張った方だとは思うぞ。数1Aの図形しか出来なかったけどな」
「てことは?」
「明日以降も特訓に決まってるだろ」
「だよねー……」
黒瀬があからさまに溜息をついた。
「元々教えてくれって言ったのはお前だろうが」
「まぁそうだけどさぁ」
テンションの変動が激しい黒瀬と、終始ボーカーフェイスの御木の会話だが、一見噛み合わなさそうだが、ふたを開けるとかなりマッチしていた。対極の人間であろうと、いやだからこそ会話が上手いこと噛み合うのかどうかなど、二人は考えすらしていなかったが。
「今からもやると言いたいところだったが、もう時間が時間だからな」
そう言って黒瀬に携帯のロック画面の時刻を見せた。待受けのデフォルトの画像が妙に似合っている。そんな携帯が示している時刻は午後9時半だった。見せ終えると身支度をし始める。手を動かしながらこう続けた。
「もう少しで補導対象時間になってしまうからな。今回はここでお暇させて貰う」
「いやいや、マメすぎでしょ」
黒瀬は驚き呆れた。いくら御木の傍にいると言え、流石にここまで徹底してるとは思いもしなかった。そんなツッコミをもろともせずに片づけを進めている様子に、黒瀬は謎の焦りを感じ始める。
「俺何か怒らせた?」
様子をそっと伺う様に恐る恐る黒瀬が訪ねた。
「何がだよ」
手の動きを止める事無くこう返事をする。
「いや、言い過ぎちゃったかなーみたいな……」
すると今度は手の動きが止まった。そして黒瀬の方へ振り返ってこう告げた。
「そこまで俺は間抜けではないぞ。だから安心しな」
「お、おう……」
そうやってまた片付けし始めた。その手つきは実に素早いものだった。
「じゃあな。きいつけて帰れよ」
「お前に言われるなんて意外だな」
「そらぁ心配するよ。なんせ俺優しいし!」
「そうかい」
軽くあしらった。玄関前、御木が帰るのを見送るつもりでここにいる黒瀬だったが、相も変わらず話題が逸れる予兆があった。
「あっそうだ!」
会話も区切りがついたので、ドアを握り、家から出てこうとしていた御木を黒瀬がふと止めた。
「どうしたんだ」
御木は機嫌を損ねる事無くドアから手を放し、黒瀬の方へ振り返る。
「実は最後に1つだけ聞きたい事があるんだよな……!」
「おう、何だ」
「お前さ、好きな人でもいるの?」
普通の男子高校生なら大抵は頬を赤くし、『い、いねーよ』みたいな反応をするはずなのであろうが、やっぱりそれは違った。
「……いると思うか?」
御木は若干呆れ気味だった。数時間越しの唐突の恋バナに、そう反応せざるを得なかった。それもついさっき告白を蹴った人に対してだ。
「やっぱりそうだよなぁ~……」
「一体、何を期待してるんだよ」
「じゃあさ、何かこう心を開けれるというか、『御木的特別な人』みたいなのは無いの?」
黒瀬が、間髪入れることなく御木の質問をガン無視して詰め寄った。
「……特別信頼できる人っていう事か?」
「まぁ、そんな感じ!」
黒瀬がうんうんと首を縦に振った。
「まぁ、家族含めて10人行かない程度って所かな」
「なるほどねぇ。ちなみに俺は?」
「グレーゾーン」
「そんなぁ……! 良いじゃんシロ判定で!」
「大体お前はな……」
「よっと」
自転車を段差のある庭の所まで引き上げる。黒瀬の家とは打って変わって、山の斜面上の住宅地にある御木家は、坂道を自転車で駆け上がるだけでも一苦労だ。その分、坂の上から見える夜景に関しては文句無しと言・える代物だった。中流家庭の住宅が集中している、ただそれだけだと言われればそうだが、それらがまた一つの夜景として成立しているのであれば、それもまた趣深いでは無いか。と、御木は心の中で自問自答をしていたりした。
そんな御木だったが、ふと時間を確認すると、すでに10時を回っていた。やはり玄関前で喋り過ぎたと痛感した。
すると、坂の下の方から、足音と共に人影が迫って来るのに気が付いた。
「おっ、ヨシじゃん!」
その人影はやがて御木に話しかけて来た。ヨシというのは、どうやら御木のニックネームの様だ。誰が使用しているかは分からないが。
「なーんだ、英子か」
英子という人物が御木の方へとペースを落としながらやって来た。
「こんな時間にランニングか、相変わらずだな」
「何か走ってないと気が済まなくてさ!」
息が少し荒かったが、そんなのをもろともせず、この新槙 英子何だか活気があった。特に運動なんかしている時はなおさらそうである事を御木は知っていた。
「お疲れさんだな」
「ヨシはどうしたのさ? いつもより結構遅かったよね」
「実は黒瀬の面倒見ててな。それも数学の」
「あー、黒瀬くんって確か数学超苦手で有名なあの……」
「つまり、そういう事だよ」
「それはそれはご苦労さんだねぇ」
「ああ、こりゃどうも」
少し笑いながら会釈をする。普段の学校においては笑顔などほとんど見せない御木だが、ここではそうでも無い様だった。
「最近どう? クラスも違うし、なかなかこうして喋れないしさ」
「そうだなぁ、ひとまずは上手いことやれてるとは思うが、それよりも今は中間テストに体育祭が近いし、そっちの方に手いっぱいだな」
「あっ……。完全に忘れてた」
「おいおい大丈夫か? 世界史でトップ狙うとか張り切ってたじゃないか」
「いやぁー完全に忘れてた……。それじゃ、今からでも勉強してくる!」
笑顔で彼女は自宅へと入っていった。やはり、心を開けれる人との話は随分と安心感があって良い、つくづくそう思っていた。実際、御木の声のトーンもいつもよりやや上だった。そんな儚い余韻に浸りながら、再び坂の下の方を覗いてみる。そうしていると、またしてもふと芭蕉の句が思い浮かんで来た。つい近年に形成されたばかりの住宅地も、自分達が生きてきたという未来への証もまた、平泉の様にやがて消え去ってしまうのだろうか。ただただぼんやりと立ち尽くしていた。そんな暖かく、またちょっぴり風が冷たい午後10時の出来事。