第2話 チャラ黒瀬は数学が出来ない!
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ラーメン屋の列に並んでいる最中、黒瀬は己の数弱を嘆いていた。しかし、そんな姿を放っておける訳が無かった真面目人間御木は改めて勉強会の開催の意思を固める。
そうして伊勢の外れで、かつて港町として栄えた大湊の黒瀬宅にて黒瀬の特訓会が始まろうとしていた。
「ところで、今日は何教えて欲しいだ?」
「うーんとな、空間ベクトルに漸化式に三角関数にぃ」
「お前、どんだけ数学苦手何だよ」
「しゃーないだろ! 文系がちゃんと数学に立ち向かってるだけありがたく思え!」
「俺だって文系だぞ」
「うっさーい!」
黒瀬の悲鳴混じりの叫びが周囲に響き渡る。月が本格的に御木達の頭上で輝き始めた午後6時頃、学校の近所にある人気のラーメン屋に来ていた。開店前ながら、そこには長蛇の列が形成されていた。そんな最中に御木は黒瀬の数弱っぷりに苦戦することになる。
「そうだなぁ……。三角関数でつまづいているなら、下手すれば数Ⅰまで戻らないと行けないかもしれないな」
「えっ、数Ⅰですかぁ?」
「まぁまぁそう涙目になるなよ。大丈夫、今日は時間とれるしちゃんと面倒見てやるから」
「ありがとうございますううううううううう」
黒瀬が大泣きしながら御木に感謝した。こいつどんだけ数学に苦しめられてるんだ……、と御木はボーカーフェイスを貫きながらもそう痛感した。そしてこれからも。
「ほら、開店時間になったぞ。たらふく食って心の傷を癒せ」
「そうだなぁ……」
「あー食った食った! やっぱ飯は最高やなぁ!」
さっきとはまるで打って変わって、気分爽快と言わんばかりにノリノリになっていた。
「お前、結構食ったよな。あそこのマシマシは中々手強いと有名なのに」
「お前のバリカタよりはよっぽとラクだよ!」
「どういうことだよそれ」
「何でもねーよっ」
晩飯のラーメンを境に、黒瀬の気分パラメータが好調になった。御木はいつもこうやって黒瀬の気分の激しい浮き沈みに振り回される。今回も例外何かじゃなかった。こいつはわざとこんな風に演じていて、実は人心掌握の達人かもしれない……、と流石に疑いの念を持ち始めていた。過度な疑心暗鬼は災いの元だと肝に銘じているはずなのに。そんな事はスターリンの大粛清が証明しているでは無いか。
そうして自転車をゆったり漕いでいた2人はやがて黒瀬の家に到着した。伊勢市内といってもはずれの方にある黒瀬宅に行くのは少しだけ大変だった。
「相変わらず遠いし、それに逆風が凄いな」
「でしょでしょ?」
「さて、こっからが本番だぞ」
「やりますかねぇ~……」
学校から直線距離4キロ離れた大湊にある黒瀬宅は、極めて一般的な、住宅街にあるごく普通の家だった。大湊はかつて神宮の外港や、造船の町として栄えていた土地だが、今はその栄光は過去のもの。小さな造船会社がかろうじて数社あるだけになってしまった。御木もまた、そんな事を連想していた。
「……ここの近くで第五福竜丸が引き上げられて改装されたんだよな」
「おぉ。よく知ってるんだな」
「まぁな。昔どこかで聞いた事があってな」
「……それと、かつては神宮の港町でもあったんだよな」
「ま、まぁそうだけど……」
唐突に全く関係ない話を振ってしまう。黒瀬はその事実を知っている事に驚きながら、鍵を開けようとしてた最中にすっと振り返った。しかし、突然そんな話題を持ち掛けたのに違和感を感じ、黒瀬は当然訪ねて来る。
「しっかし、なんで急にその話なんさ?」
「いやすまん、単なる衝動だ。気にしないでくれ」
「へいよっ」
そういうと今度こそといわんばかりに開錠した。あの時、ふと御木は2つの芭蕉の句が脳裏をよぎった。平泉へ、弟子と共にやって来た時のものだ。
『夏草や 兵どもが 夢の跡』
『五月雨の 降り残してや 光堂』
前者は、平安時代に栄華を極め、後に源頼朝により滅ぼされた奥州藤原氏の栄光の儚さを江戸の世から詠んだもの。
そして後者は、そんな中数世紀もの間美しさを保ち続けた、金色堂について。
御木はそんな2句を思い浮べ、この大湊の地にふと無意識に当てはめようとしていた。
「さて、どこからどう手を付けようか」
御木は案の定苦戦を強いられていた。数学の基礎のきの文字から抜け落ちかけていた黒瀬相手では、かなりの苦戦を強いられる。だがそこでこそ、堅物、裏を返せば真面目人間の御木の真骨頂が果敢なく発揮される。
「うぅ……。馬鹿でゴメンナサイ先生……」
「何を言ってる。馬鹿なら馬鹿なりに努力すれば良い。そんな簡単な話じゃないか」
御木はなんだかんだで黒瀬の扱い方は理解していた。いや、飴と鞭の使い分けが上手という言いかたの方が正確かもしれない。こういう指導において重要なのは生徒がばてないのもそうだが、むしろ指導者側がばてないにがより重要になって来る。その点御木は圧倒的優位だ、元々根気強い性格をしている以上、自明にそのリスクは補完される。そしてそうこうしている内に、じわじわながらも攻略の糸口を掴みつつあった。
「よし、じゃあこの問題やってみろ」
「お、おう……」
「大丈夫だ。もし詰まってもヒントとか呟いてやるよ」
御木は自分の参考書を鞄から取り出し、さーっと眺めながら問題をチョイスした。ちなみに、今から黒瀬が解こうとしてるのは次の問題。ぜひ少しだけやってみて欲しい。出典は某大手予備校の参考書。つまり、一応はれっきとした入試問題だ。
『三角形ABCにおいて AB=3、BC=7、CA=5、∠A=θとし、∠Aの二等分線と辺BCとの交点をDとする。(1)θの値を求めよ (2)sinBの値を求めよ (3)線分ADの長さを求めよ (4)三角形ABDの内接円の半径を求めよ (北〇大)』
問題を眺め、1分程頭を抱えた。そしたら今度はすらすら手のペンが動き始めた。その様子を、ただ腕を組みながらじっと見つめる。
「(1)と(2)は余弦定理、正弦定理でやれば……」
まずは計算用紙になるべく丁寧に、大きく図にしてみる。そこから洞察し定理や法則を見極め使用する。公式はひとまず経験を優先して本質理解は後からじわじわやって来るのを辛抱強く待つ。それが伝授した方法だった。脳に焼き付けたその指南を身に着けようと必死に紙という戦場で戦っている。数ある公式に翻弄されるのか、それとも。
「うん、順調そうだな」
「今のところはな……」
計算用紙の隅っこに『θ=120°、sinB=5/14・√3』というメモ書きがされていた。きっちりと正解させている様子に少しばかり安堵したが、先程からの体勢、目つきを変えようとはしなかった。そんな様子に目もやることなく、黒瀬は真剣に問題を解き進めようとする。
「……やばいっ」
黒瀬が爪を噛んだ。これは焦っているときに結構あからさまにやる癖だ。ペンもかなり止まる様になりつつあった。
「余裕を持て。もっと視野を広く」
「あ、あぁ……」
そう言われると黒瀬は1回ペンを置いて頭のタンスから色々と引っ張り出してみることにした。
「そうか二等分線か!」
しばらくすると、どうやら閃いたらしい。そうやって試行錯誤する経験を積ませるのが元から狙いだった。そうやってまた数分もがきながら計算を進めて行き、答えまで辿り着く事に成功した。
「BDの長さが求まった今こそ、ABDに正弦定理を用いれば……!」
「…………」
何とか黒瀬は答えを導き出した。『AD=15/8』というメモ書きが心なしか躍動していた。
「いよいよラストか。だが今のお前になら十分解けるはずだぞ」
「……だと良いんだけどな」
そう言い残し、また洞察タイムが始まる。慣れてくると少なくなるこの時間こそが今の黒瀬に必要不可欠であることも織り込み済みだ。その時間を与えるために、指導より何度も何度も解かせる事を徹底させてきた。
「大丈夫か」
「もうちょい、もうちょいで行ける筈なんだ……!」
修行している僧みたく歯を食いしばっている黒瀬だったが、そこには必ず辿り着けるという自身への確信があった。以前までの、歯が立たなくなぅた瞬間に背を向け敵前逃亡してきた黒瀬の面影は消えつつあった。
「……成程な、行けるっ!」
すると目の色が変わった。再びペンが颯爽と航路を描き始めた。
「面積の2公式で方程式作って……!」
「……よし出来た!」
「おお、お疲れ。よく20分耐え忍んだな」
「有難きお言葉!」
笑顔が何だか輝いて見えた。やはり心もダイヤモンドの様に磨きをかける程より素晴らしい光沢を放つものなのだろうか。
「どれ、採点しようじゃないか」
「まぁ満点でしょうなぁ!」
「お前ホントに気分コロコロ変わるよな」
そんな事を言いながら解説と黒瀬特製の航海図を見比べっこする。
「お、お前!」
「どうした? 俺の劇的な成長に感動したんか?」
「いや、それもそうだが」
「じゃあ何だよ~」
「最後の最後の(4)のsin60°の計算間違えてるぞ……。」
「えっ」
「つまり、バツだ」
「まじかよおおおおおおお……」
スライムになったのかと思わせるくらいにぬるぬると無力に床へと倒れこんでしまった。そんな黒瀬の自室、午後9時半の出来事。
本文中の問題の出典 河合出版『文系数学良問のプラチカ』問題番号10(北里大学)