彼の願いと彼女の祈り
「――そんな感じで、この絵見神社のことを教えてもらったんです。ここなら、猫のことを解決してくれるって」
事件の説明とこの神社来た理由を話し終え、僕は与野前さんの様子をちらりと窺う。
彼女は視線を手元に落とし、手に持ったグラスを傾けて中に入った氷をくるくると回していた。僕の説明が下手過ぎて、聞くに堪えない退屈なものだったのかと危惧したが、彼女の表情を見る限り、どうやら熟考しているらしい。
「以上が事件の詳細です。だから僕がお願いしたいのは、猫の飼い主を見つけるというよりも、本当の飼い主のへ猫を返すことなんですけど……」
遠慮がちに声をかけ、反応を見る。彼女はゆっくり目を閉じて、グラスから手を離した。
「猫ちゃんが……」
「はい?」
「猫ちゃんが本当の飼い主のもとに戻れば、木嶋さんは満足ですか?」
「まあ、はい。そうですけど……何か、問題がありますか?」
「問題なんてありませんよ。ただの確認です」
与野前さんは閉じていた目を開き、そう僕に笑いかけた。
「それにしても、木嶋さんって猫ちゃんが――いえ、これはやめておきましょう」
何かを言いかけたようだったが、彼女は首を振って自らの言葉を中断する。追及して聞いてみたい気もしたが何となくやめておいた。意味なんてない。本当に。
「木嶋さんは槻月つむじさんとご知り合いだったのですね」
その代わりとでもいうように、与野前さんは僕に別の話題を振る。
「あいつのことを知っているんですか?」
「ええ、同じ探偵仲間として接点がありまして。それなりに会ってお話をしたりもするのですよ。まあ、探偵仲間と言いましても、周りの方が私を探偵と呼ぶだけであって、私自身はずっと巫女のつもりなのですけどね」
彼女は口元を隠して、くすくすと笑った。釣られて僕の口角も上がってしまう。
「槻月さん、元気にしていらっしゃいますか?」
「それはもう、元気すぎるぐらいで。僕としてはもう少し元気がないくらいのほうが可愛げがあっていいと思うんですけどね」
「ふふっ、元気なことは良いことですよ。私には兄弟も姉妹もいませんから、なんだか槻月さんが腕白な妹みたいに思えてしまうのですよね。最近は会えていなくて少し寂しいです」
寂寥の表情を浮かばせる与野前さんを見て、僕は少し気の毒に思った。つむじのやつ、こんな綺麗なお姉さんを悲しませるとは罪深い。
「何でしたら与野前さんが会いたがっていたって、あいつに言っておきましょうか?」
「ありがとうございます。予定に余裕があるときで大丈夫ですよ、ともお伝えください……さて、お話もこれくらいにしてそろそろ行きましょうか」
彼女は美しく自然な所作で、すっと立ち上がる。
「あれ、もういいんですか? てっきり事件の詳細とか質問されたりするものだと思っていたんですけど」
「普通の探偵でしたらそうします。ですが私は巫女ですから。できることといえば、只々祈ることだけ。事件を解決してくださるのは神様なのです。であれば私がすべきことは、事件の詳細を聞くことでも、推理することでもありません。修祓、献饌、祝詞奏上、玉串拝礼、撤饌。正しく、強く、祈ることこそが肝要であり、それが私の為すべきことです」
「はぁ……」
正直に言えばあまりピンとこなかった。というよりも、僕はてっきり、祈るというのは建前で、実際は与野前さんが安楽椅子探偵として事件を解決しているんだろうと考えていた。
まさか、本当に祈るだけなのか? だとしたら、どうやって事件を解決するんだ?
「では、木嶋さん。あちらの襖の向こうに拝殿へと続く廊下がありますので、先に向かっていてください。私は少々準備をしてから参りますので」
僕の心中とは裏腹に、与野前さんはあっさりとした説明だけをして、部屋から出て行ってしまった。
一人取り残された僕は、整理しきれない疑問や懸念を抱えたまま、言われた通り拝殿へと向かうのだった。
* * *
拝殿に訪れ、与野前さんにこれからの段取りを教えてもらってから数分。
建物の中は荘厳な空気に包まれていた。
息を吐く音でさえ発するのをためらわれるような、張り詰めた緊張感。しかしそれは決して居心地の悪いものではなく、自らを律し、奮い立たせてくれるようにも感じる。
僕は神社に対してあまりにも無知だ。目の前にあるこまごまとした飾りやその中央に位置する鏡が一体どんな意味を持っているのか、さっぱりわからない。それらを総じて祭壇と呼ぶ、という知識が僕の上限。それでも厳かな雰囲気というものは伝わってきた。
正座をしながら与野前さんの姿を見る。祭壇の方を向く彼女は、先程までのスタンダードな巫女装束とは違い、頭には白い花簪ときらびやかな天冠、薄く鶴の紋様を描いた千早を白衣の上に羽織り、着飾っていた。その手には、大幣も握られている。
腰を直角に折り曲げるほどの深い拝をして、与野前さんはこちらを振り返った。
握った大幣を僕の方へと向け、息を吸う。
「 掛けまくも畏き 伊邪那岐大神
筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原に
禊ぎ祓へ給ひし時に
生り坐せる祓戸の大神等
諸々の禍事 罪 穢 有らむをば
祓へ給ひ清め給へと
白すことを聞こし召せと恐み恐みも白す 」
深く伸びた声が拝殿内に響き渡る。
先程までとはまるで違う彼女の様相に、僕は静かに息を呑んだ。
神事の参加者を清める修祓が終わると、次は献饌へと移る。一度、隅に戻ったのち、神饌を御神前へ恭しく奉る。
一つ一つ、洗練された美しい所作を眺めながら、僕はつむじがしてきた質問のことを思い出した。
『――てめえは、神様ってやつを信じるか?』
僕は神様なんて信じていなかった。目に見えなくて、聞こえなくて、触れない。そんなもののいったい何を信じるというのだろうか。
神秘的な雰囲気や荘厳な空気を感じたところで、きっとそれは神様ではない。
困っているとき、苦しんでいるときに助けてくれるのも神様ではない。そんな風に考えていた。
僕がこの神社へ来たのも、あくまで与野前いろはという人間に、事件を解決する探偵として頼るつもりであったからだ。
だけど祈祷する与野前さんの姿を見て、僕はようやっと理解する。
彼女は探偵ではなく、巫女なのだ。
わかったつもりになっていたそのことを、本当の意味で理解できた。それは気づいてしまえばとても簡単なことだった。
僕は神様など信じていない。
しかし彼女は本気で信じ、本気で祈る。
本当にただそれだけ。それこそが、与野前いろはが探偵ではなく、巫女であり続ける理由。
「 高天原に坐し坐して 天と地に
御働きを現し給う御神は
人の密かなるを紐解き
神なるを尊み敬いて真の六根一筋に御仕え申す
ことの由を受引き給いて愚かなる心の数々を戒め給いて
一切衆生の罪穢の衣を脱ぎ去らしめ給いて
萬物の病災をも立所に祓い清め給い萬世界も
御祖のもとに治めせしめ給えと
祈願奉ることの由をきこしめして 六根の内に念じ申す
大願を成就なさしめ給えと 恐み恐み白す 」
祝詞奏上が終わり、ゆっくり息を吐く。僅かに空気は弛緩するが、言い知れぬ、張り詰めたようなものはなくならない。
――神に仕える人を通して、人々は神を視る。
どこかの誰かがそんな言葉を残していた。真摯、あるいは愚直ともとれる与野前さんのまっすぐさは、確かに神様を信じていなかった僕にさえ神様の存在を幻視させた。
目に見えなくとも、聞こえなくとも、触れずとも。
その存在を感じ、見出すことはできる。つまりはそういうことなのだろう。
神様を信じたわけではない。でも、心の底から祈りたいと思った。
それに効果があるのかとか、そんな余計なことは考えず、彼女と同じようにただ真摯に祈りたい。
事前に聞いた段取りだと、祝詞奏上が終了したということは祈祷の半分は既に終わってしまっている。
だから遅れを取り戻すかのように、ただ一つの願いに集中する。
どうか、あの猫が幸せに――
しゃん、とどこかで鈴が鳴った気がした。
* * *
「本当に祈祷料を払わなくていいんですか?」
祈祷を終えた帰り道。
途中まで見送ると言ってついてきた与野前さんに、僕は再三訪ねたことを再度問い直した。
「はい。初回無料ということで。常連客を作るキャンペーンみたいなものです。木嶋さんが御友達にこの神社を紹介してくだされば私はそれだけで充分ですよ」
足場が悪い石段をひょいひょいと下りながら、与野前さんはまた同じ返答をする。
「でも、そうだとしても、なんだか悪いような……」
祈祷料の相場は大体五千円から一万円程度らしい。駄菓子屋のおまけとはわけが違うのだ。さすがにその金額を無料にしてもらうのは気が引ける。
僕の言葉を聞いて、彼女は立ち止まりこちらに振り返った。
「どうしても木嶋さんが気になさるのでしたら、祈祷したことが叶った際に少しでいいので神様の存在を信じるようにしてください。最近はどこの神社も経営難ですが、それ以上に信仰難でもあるのです。神様にとって、一人の信仰は八百万の宝にも勝ります」
「……そういうものなんですかね」
「そういうものなんです」
微笑みを湛えた唇に人差し指を当てた与野前さんは、悪戯の成功した子供のようにも、蠱惑的な大人の女性のようにも見えた。
凛とした雰囲気とおしとやかな物腰しか見てこなかったが、そうか、この人はこんな側面も持っていたのか。
僕の反応に満足したように頷くと、与野前さんはまた石段を下りだす。
面白くて意外性に満ちた、魅力的な人だ。
先を行く与野前さんの背中を見ながら、僕は彼女のことをもっと知りたいと、仄かに思った。
僕らは再び石段を下り始め、地面を踏みしめる音と草木が風でなびく音だけが辺りを満たしたとき、僕は次の懸念事項について考え始めた。
――さて、結局これからどうしようか?
確かに祈祷はしてもらった。『祈祷探偵』の名が正しいのならば、これであとは自然に事件が解決するはずである。
だけどそんなことはあり得るはずがない。
もしかしたらという気持ちもないでもない。あの厳かな空気には自身の考えを見つめ直すきっかけにはなったけれど、それはそれ。
助けてくれるという言葉に胡坐をかいて何もせず「願いが叶わなかった」などと後から文句を言うのでは、ただの間抜けだろう。
天は自ら助くる者を助く。
たとえ神様がいたとしても、何もしない人間を助けるわけがない。
結局は僕自身で飼い主を見極めるしかないのだろう。でもそんなことができるだろうか。つむじならともかく、僕は平凡以下の大学生だ。だからといって考えない理由にはならないけれど、答えを出せない根拠としては十分すぎる。
「あ、そうでした」
不安を抱き、俯きながら歩いていると、なにかを思い出したような反応をしながら再び与野前さんが振り返った。
「今日は土曜日ですし、明日、飼い主候補の方とお会いになるのですよね」
「あー、一応そうですね。佐山さんと会うことになってます。本物の飼い主かどうかはわからないですけど、約束をしてしまったんで」
してしまったというか、ほぼ強引に決められたことなのだが。しかし、僕が佐山さんの電話番号を知らない以上、行かないという選択ができない。
色々と事情というか都合はあるのだが、とにかく明日、顔を合わせるということについては確かだった。
「でしたら、集合する時間の一時間前に待ち合わせ場所へ行くことをお勧めします。それと、待ち合わせには猫ちゃんもご一緒に」
目的の見えない忠告めいた発言に僕は首を傾げた。
「……意図がよくわからないんですが、どうしてですか?」
僕の疑問に与野前さんは先程と同じような笑顔を浮かべてから言った。
「巫女として授かった神託です。騙されたと思って信じてください」
* * *
バス停まで見送ってもらい、僕らはそこで別れた。
やって来たバスに乗り、ガラガラの車内で適当な席に座る。
クーラーの聞いたバスの車内は快適で、先程まで忘れていた疲れを思い出す。神社は山の上にあったのだ。慣れない登山は体力を消耗する。
バスの不規則の揺れは心地よく、瞼の重さがそれなりになってきた。
半分寝てしまっている頭で考える。
祈祷によってどんな効果が出るのか、あるいは出ないのか。
未来はわからないけれど、もしも飼い主の件が円満に解決したのなら。
またあの神社に行こう。与野前さんに会いに行こう。どうせならつむじも連れて。
これっきりというのはあまりに惜しい。なぜだかわからないけれど、与野前さんのことを、あの不思議な巫女のことをもっと知りたいと思う。
瞼はいつの間にか落ち切って、意識はゆっくりと沈んでいく。次に会えるのはいつになるだろう。できれば早く会いたいものだ。
そんな考えを最後に、僕は完全に意識を手放したのだった。
――余談ではあるが、微睡みで祈った僕の願いは案外あっさりと叶えられる。僕の想定していない形で、という注釈はつくのだが。