エピローグ、或いは――
後日談、あるいは蛇足ともいえるかもしれない、事件解決後の話である。
あれから一週間が経過した頃、ゆうかちゃんから電話があった。
話し合いの結果、あの猫は佐山さんの家で引き取ることになったそうだ。時々会いに行くことを条件にそういう形で収まったらしい。
そしてその後、ゆうかちゃんの両親からも佐山さんからも連絡があった。
皆が皆、安堵と幸福に満ちた声で僕に感謝の言葉を述べていた。
僕はほとんど何もしていないと言っても、彼らは感謝をやめなかった。
あの探偵、篠前さんのことについても聞かれたのだが、これについては詳細を説明することはできなかった。
あの探偵は、きっと誰にも秘密をばらしてほしくはないだろうから。
すべてが円満に終わったのだ。
あるべきところに、あるべきものが落ち着いたのだ。
ならこの感謝の気持ちも、今回の立役者にきちんと届けるべきだろう。
だから僕は再び絵見神社を訪れていた。
きっとあの人はお礼を遠慮するだろうが、今回はこちらにも武器がある。
探偵、篠前唄のことを軽ーくほのめかせば、素直にお礼を受け取ってくれるはずだ。
脅すようで申し訳ないけれど、お礼をするためなのだからきっと許してくれるだろう。
「せっかくならつむじもくればよかったのにな」
あの高校生探偵は、僕が誘っても頑なに来ようとしなかった。
『てめえ一人の方が、きっと面白いさ』
彼女の言葉を思い返すと、犬歯を見せつけるようなシニカルな笑みが脳裏に浮かぶ。
かっこつけてはいたが絶対に面倒くさがっているだけだ。
まあ別にいいけどね。
今回はその我儘を見逃してやるけれど、次は引きずってでも連れて行こう。
身長差のせいで傍から見ると犯罪チックに見えるかもしれないから、なるべく人目につかない道を選んで……そっちの方がまずいのか?
そんなことを考えながら、以前よりも軽い足取りで石段を駆け上がる。
絵見神社は相も変わらず人気はない。
ともすれば自分以外誰もこの場にいないような錯覚さえ受けるが、それでも僕はここが無人でないことを知っている。
初めて来たときと同じように社殿に向けて歩みを進めると、やはり奥から何かを掃くような音が聞こえてくる。
歩いているのもじれったくなり、僕は小走りに駆け出した。
社殿の裏に回ると、その音の主と出会う。
前回は先に声をかけられてしまった。
だから今回は僕からだ、などという負けず嫌いの幼稚な考えが脳裏を掠める。
普段なら無視していたような思い付きだが、今回くらいはその考えにのってみるのも一興か。
目の前の人物が言葉を発する前に、先んじで口を開く。
「お久しぶりです、与野前さん」
眼前の女性は少し驚いたように目を丸めた後、小さく笑って腰を折る。
「お久しぶりですね、木嶋さん」
絵見神社の巫女、与野前いろはは以前と変わらない穏やかさで、そう言った。
* * *
「ここに木嶋さんが来るのは一週間ぶりですね。あれから猫ちゃんの飼い主はどなただったのか、判明しましたか?」
わかり切ったことだろうに、与野前さんはそんなことを尋ねてきた。
ここで水を差すこともないだろう。僕も向こうの都合に合わせて話を進める。
「ちゃんとわかりましたよ。ちょっと詳しく説明すると長くなりますけど、簡単に言えば二人とも飼い主でした」
「二人とも……?」
首を傾げる与野前さんに僕は大まかな説明を行った。
電話してきた二人ともが飼い主だったこと。
飼っていた時期の違いから、この事件は起こってしまったこと。
そして、そのすべてが円満に解決したということ。
説明を終えると、与野前さんは嬉しそうに目を細めた。
「そうですか。それは本当に、良かったです。私としても祈った甲斐がありました」
「そのことで、今日はお礼をしに来たんですよ」
満を持して今日の用件を告げると、やはり与野前さんは笑顔のまま首を横に振った。
「私にお礼なんていりませんよ。木嶋さんがほんの僅かでも神様の存在を信じてくだされば、それで充分です」
無私無欲の精神で与野前さんは首を縦に振らない。
全く、探偵の時とはまるで別人のようだ。
「もちろん、ここまでのことが起きれば、神様の存在だって信じますよ。でも、それとこれとは違う話です。神様にも感謝してますけど、同じくらいに与野前さんにだって感謝しているんです」
「私は祈っただけですから」
「そんなことないですよ。与野前さんが探偵として協力してくれなかったら、誰が猫の飼い主だったのかわからなかったと思います」
強情にお礼を受け取ろうとしない与野前さんに、祈祷探偵の仕組みに僕は気づいていますよ、と言外に知らせる。
きっと与野前さんは驚くか、焦るかのどちらかの行動をとるだろう。その隙に乗じてお礼をさっと渡してしまえばいい。
一度渡してしまえば、その後はどうにでもなる。
そんな風に考えていたのだが、しかし事態は思わぬ方向に転んでいく。
「えっと……探偵として、ですか? それはどういう意味なのでしょうか? 私はここで木嶋さんと祈祷を捧げた以外、特に何もしていませんが……」
不思議そうに首を傾げる与野前さんに、僕は思わず面を食らった。
この人はまだ誤魔化すつもりなのだろうか。
大した演技だけれど、しかし、こちらには立派な証拠がある。
「そんな、もう知らないふりなんてしなくていいんですよ。僕は全部わかってますから、ほら、右手を見せてください」
「……はい、右手ですね」
先日の件で、あの探偵は猫に右手をひっかかれている。
あの怪我は浅いものではあったが、それでも一週間やそこらで完全に消えたりはしない。
それは彼女自身が言及していたことだった。
言い逃れのできない確固たる証拠を突き付けようと、右手を確認させてもらう。
そして、言葉を失った。
「……木嶋さん? 私の右手がどうかしたんですか?」
「ど、どうして……」
頭の中を混乱が駆け巡った。どうして? なぜなんだ? いったいなんで――
なんで、傷が残っていないんだ?
あの時、猫が付けた右手の甲に二本のひっかき傷。
それは確かに僕も確認した。なのに与野前さんの手からはきれいさっぱり消えており、その跡すら見受けられない。白魚のような美しい肌は傷一つなく輝いている。
まさか、与野前さんと篠前さんは別人だった?
――いやそんなはずはない。あれだけ似ている人がこの世にいるとは思えないし、何より別人だとしたら、どうして僕に関するいろんな情報を知っていたんだ?
もしかして、あれは本当に神様だったんじゃないか?
――さすがに混乱しすぎだろう。そんな非現実的な存在がいるとは到底思えない。もちろん否定もできないけれど、可能性としては……
それなら双子?
――あり得る話だが、以前、与野前さんは自分には兄弟、姉妹がいないと言っていた。もちろんそれが嘘の可能性もあるが……
混乱の最中、様々な可能性を考える。
そのどれもが正しく思えてしまうし、間違っているようにも思えてしまう。
困惑を隠すことすらできずにいると不意に与野前さんが視界に入った。
「……きっと、神様の悪戯ですよ」
ささやくような声が耳朶を震わせた。
微笑みを湛えた唇に人差し指を当てた与野前さんは、悪戯の成功した子供のようにも、蠱惑的な大人の女性のようにも見える。
しゃん、とどこかで鈴が鳴った気がした。
(完)




