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祈祷探偵、与野前いろは

 八月上旬。

 夏真っ盛りの時期だというのに、境内は涼しげな空気を保っていた。

 おそらく周りに並び立つ木々の緑が日光を遮っているため気温が上がらないだけだろうが、場所が場所だけに神秘的な何かを感じずにはいられない。

 僕は一息ついてから、額の汗を拭いつつ、ここまでの道程を思い出した。


 家を出て、バスに揺られること三十分。

 辺りに山と田んぼ以外なにも見当たらないバス停で降りたところでスマートフォンを使い、ルート検索する。距離五キロ、所要時間は歩いて一時間らしい。スマホが指し示す方を見れば、その道は山へと続いていた。

 こんな面倒な道、日頃から無意味に筋トレを続けている暇な大学生でもなければ歩いていこうとは思わないだろう。

 車とか、原付とか、あるいはもう少し先までバスは走っているのだから、それに乗っていくとか、歩くよりマシな方法はいくらでもある。

 しかし日頃から無意味に筋トレを続けている暇で金欠な大学生である僕は、迷いなくその道程を歩くと決めた。


 日に照らされた植物の深緑を目で楽しみつつ、スマホの案内に従って進むと、やがてアスファルト舗装だった道が途切れる。

 代わりに、両脇に木々の立ち並ぶ未舗装の道が先に続いていた。傍らから生えている伸び放題の雑草を足でかき分けながらさらに進むと、前方に崩れかけた石造の階段が見えてきた。

 人が利用している気配がない。そんな感想を抱くほどボロボロだった石段だが、思いのほか頑丈に造られていて、一歩一歩、おっかなびっくり踏み上がった僕を拍子抜けさせる。


 中程まで登ると、上方に所々塗装の禿げた鳥居が姿を現した。

 その奥には古びた瓦葺(かわらぶき)の社殿が一つ。賽銭箱と(とう)(ろう)が傍にあるだけで、有名な神社にあるような手水舎(ちょうずや)祓戸(はらえど)はない。

しかし、石畳は綺麗に掃除されており、ここを管理している人物がこの神社を大切にしているということは伝わってきた。

 目的地が目前となり、ようやく肩の力を抜いて安堵のため息を吐く。いくら日陰だったとはいえ、夏場に坂道を歩き続けるのはさすがに疲れる。


 額の汗を拭い、改めて眼前の社を眺めた。

 他の神社と比べて大きいというわけではなく、決して見栄えのするようなものでもない。しかし、荘厳な雰囲気は負けず劣らず。古寂びて劣化した注連縄(しめなわ)や朽ちかけた(はり)が、むしろ積み重ねた時間の重さを主張する。

 絵見神社。そこが僕の目的地だった。 

 先程のものとは違う意味を持つため息を吐き出して、ゆっくりと辺りを見渡す。目的地には到着したが、目的はまだ達成されていないのだ。


 どうしてわざわざ手間暇をかけて、辺境にある神社を訪れたのか。

 別段、神とかそういうものの存在を信じているというわけでもない。ここに来た理由はもっと現実的なもの。

 神ではない。人に会うためにここにやってきたのだ。

 社殿の方に足を進めると、箒が地面を掃く音が聞こえてきた。音を頼りにそちらへ向かう。規則正しい箒の音が徐々に大きくなっていき、僕が社殿の裏へ回ると、やがてその音はぴたりと止んだ。


「あら、お客様ですか? ようこそおいでくださいました」


 僕を見て、掃き掃除の手を止めた笑顔の女性。

 白衣(はくえ)緋袴(ひばかま)。白と赤を基調とした、ごく一般的な巫女装束に身を包むその成人女性は、自らの長く美しい黒髪が地面につきそうなほど深々と頭を下げる。


「えっと、はい。ちょっとこの神社に用があって……」


「ご用件は参拝ですか? それとも――事件ですか?」


 起こされた顔の、形の良い唇に笑みを浮かべられていた。

 参拝か、事件か。神社でされる問いかけとしては、およそ相応しくないものだろう。餅は餅屋、蛇の道は蛇である。事件について相談したいのなら、警察か探偵にでも頼めばいい。神社でする話ではないし、神社で尋ねられるような話でもない。

 しかし物事には例外というものがある。

 その例外こそが絵見神社であり、僕が今日、ここを訪ねてきた理由でもあった。


「……あの、本当に事件を解決してもらえるんですか?」


「もちろんです。では、事件解決の依頼ということでよろしいですか?」


「はい。あ、でも事件と言うほど大袈裟じゃなくて、もっと些細なことなんですけど……」


「大丈夫ですよ。事件に大きいも小さいもありません。困っている人がいれば、手を差し伸べるのが人の世の道理。さあ、社務所の方へどうぞ。ゆっくりとお茶でも飲みながら、お話を聞かせてください」


 境内の片隅にある建物を指し示しながら、女性は僕に微笑みかけた。

 昼下がりの木漏れ日が幾筋も差し込み、まるでスポットライトの如く女性を照らしている。

 透き通るような雪肌と艶やかな黒髪は、日の光を受けて一層輝き、美しさを増す。物腰の穏やかさと優しげな笑みが合わされば、もう目を奪われずにいられない。

 眼前にいる、大和撫子を体現したかのようなこの女性こそ、僕が会おうとしていた人物――名は与野前(よのまえ)いろは。

 彼女はたった一人で絵見神社を切り盛りしている巫女であると同時に、もう一つの顔を持つ。

 それは探偵。

 ずば抜けた観察眼で本質を見抜き、切れ味鋭い推理力で隙のないロジックを組み立てて、巧みな話術で真実を引き出し、事件を解決する。

 与野前いろはは、そんな名探偵――などではなく。


「お話を聞いた後は二人で祈りましょう。神様は人の真摯な願いを無碍にしたりはしませんから」


 ずば抜けた観察眼を閉じて神に祈り、切れ味鋭い推理力を放棄して神に祈り、巧みな話術で祝詞(のりと)を上げて神に祈る。そうやっていくつもの事件を解決してきた名探偵。

人は彼女をこう呼んだ。

――『祈祷探偵』与野前いろは、と。

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