scene .4 見知らぬ記憶
『――ここは、どこだ?』
見知らぬ場所に、立っていた。
『研究、室……?』
辺りを見回そうとしたロルフは、身体が動かないことに気づいた。
苦しさや痛みはないものの、まるで体を空気に糊付けされているかのように、全くと言ってよい程自由が利かない。
『俺は一体何をして……』
それでも周辺を確認しようと、ゆっくりと首を後ろに回す。
と、その時だった。
後ろから、白衣を着た誰かが何かを叫びながら走り去っていった。だが、そのことに驚くこともなく、ロルフは冷静に思考する。
『音が、聞こえない?』
初めから感じていた違和感の正体はこれだろう。叫んでいた言葉が聞こえないどころか、人が走り去っていったにも拘わらず、物音ひとつしなかった。
そう、静かすぎるのだ。
『夢か……』
なんだ、と思うと同時に、事細かく視線の端までしっかりと描かれているこの世界に、なのに全く面白みの欠片もないこの世界に、ロルフは溜息をついた。
几帳面すぎる性格と言うのは、こういう場面では少しばかり恨めしい。
『――?』
そんなことを考えるロルフの脇を、先程通り過ぎていったのと同じような服装をした人物たちが、何人も走り去っていく。
何を言っているのかはわからないが、皆が口々に何かを叫んでいる。
その時だった。
『誰かが呼んでる……?』
後ろから誰かに呼ばれた気がした。声が聞こえるわけではない。だが、そんな気がしたのだ。
正体を確かめようと自由の利かない体でゆっくりと振り返り、やっと背後に視線が届いたかと思った瞬間――とてつもない爆風と共に炎が身体を包み込み前方へと吹き荒んでいった。突然の出来事に、思わず目を強く瞑る。
しばらくして熱さなど無いことに気づいたロルフは、何かが聞こえた気がしてハッと目を開いた。
すると、すぐ前にシャルロッテの顔があった。ゆすられているのか、視界がバウンドしている。
「あ! やっと起きた! ギリギリセーフ!」
目を覚ましたロルフの顔を見るや否や、シャルロッテはそう言いながら汽車から駆け下りた。
「セーフじゃなくてアウトなんだぬ!」
「全く、世話のかかるオトコだわ」
何が起きたのかわからず、速まる鼓動を収めようと大きく息を吸いながらシャルロッテの向かった先を見ると、少し怒った様子のウェネと、呆れた様子のヴィオレッタが立っていた。辺りを見渡すと、そこは見慣れた場所――インガンテス・フォレスト停留所だった。
ロルフはそのことに気付くと、慌てて外へと出る。
「わ、悪い……どれくらい停車していた?」
「ま、数分だから大丈夫だぬ! じゃ、ボクは行くよ!」
「これからは気を付けるんだぬ~」そう言って後ろ向きに手を振りながらウェネはプフェアネルの方へと駆けていった。
運転手が知り合いであったから良いものの、そうではなかったら乗り過ごしているかも知れなかったという訳か……この停留所の次は森を越えた先である。その事を考えると、数分とは言え列車を停めていてもらえたのは大分ありがたい。
「ワタシがウェネに掛け合ってあげたのだけれど?」
動き出す列車を眺めながら、ヴィオレッタがそう言う。
自分で言わなければもっとありがたく感じれる気が……そう思いつつ、ロルフは元々言おうと思っていたお礼の言葉を口にした。
「あぁ、ありがとう。助かった」
「なんだかやけに素直ね、まぁいいわ。行きましょ」
ヴィオレッタは組んでいた腕を解くと、軽やかに停留所の階段を下りていく。インガンテス・フォレスト停留所は小さな駅のため、階段を下りればすぐに森の中だ。
ロルフもヴィオレッタの後を追うように階段を降りると、他の面々はすっかり待ちぼうけと言った様子だった。
「皆、待たせてごめんな。行こうか」
床にでも散らばっていたのか、ロルフはクロンが抱えていた資料を受け取りながらそう言うと、一行を連れてコンメル・フェルシュタットへと向かって歩き出す。
「ロルフが眠りこけるなんて珍しいこともあるのね」
「ロルフさんは常に皆の事気に掛けてたから、疲れちゃったのかもしれないですね」
ロロとモモの会話を聞きながら、ロルフは茶化されなかったことにホッと胸をなでおろす。毎度毎度何かある度に、なぜかロルフをからかってくる厄介者がいるのだ。
今回は見逃されたか――そう思って面々を確認すると、その厄介物であるリージアがいなかった。
「リージアは降りなかったのか?」
「んーなんかねー、呼び出し? って言ってたよ」
ロルフの隣を楽しそうに歩きながら、シャルロッテが答える。呼び出しという事は仕事か何かだろう。珍しくもらえたと喜んでいた長期休み早々の呼び出しとは、些か気の毒にも思える。
そして、それを補足するようにクロンが付け加えた。
「明日か明後日辺りには戻って来られるそうで、モモさんがお店の名前と地図を描いて渡していました」
何かのはずみで破れたもののかと思っていたが、先程受け取った資料が一枚だけ一部切り取られていたのはそれが原因か。白紙部分であったので別に構わないのだが、勝手に人の物を使っていくとは何とも自由奔放な彼女らしい。
「ん?」
と、ここでロルフは一つ疑問に思う。
屋敷とコンメル・フェルシュタットは近いとはいえ徒歩で二時間程度はかかる。という事は、三日間はゴルトの店に滞在しているべきなのだろうか。
そんなことを考えていると、ヴィオレッタが後ろで大きな溜息をつくのが聞こえた。