scene .28 ロルフとシャルロッテ
撫でる手が止まったことに気付くと、猫は目を開けて再びごろんと体勢を変える。そして、慣れた動きでロルフの膝の上に飛び乗ると、再び丸まって眠りにつこうとする。
「なぁ」
ロルフはそんな猫の頭を撫でながら、言葉が伝わらないと分かりながらも口を開いていた。
「お前……獣人になりたいか?」
深刻そうな言葉の音に何か感じるものがあったのか、猫はロルフに視線を向けると「にゃー」といつもより長めに鳴く。ロルフにはその鳴き声がなぜか「いいよー」そう聞こえた気がした。
そんなのはもちろん幻聴……というより期待なのだが。
「そうだな、お前とも話せるようになるしな」
ロルフはそう言うと、猫を抱き上げベッドから立ち上がる。そして、前々から準備しておいた魔道具がいくつか入った籠を手に取ると部屋を後にした。
*****
****
***
「ふー……」
わずかな気分の悪さを吐き出すように、ロルフは深く息を吐く。蝋のような物体で扉の内側に描かれた魔法陣から広がる光が部屋の中を明るく照らしていくのと同時に、四台並べて置いてある本棚の内右から二番目の本棚がゆっくりと天井に吸い込まれていくのを確認すると、ロルフは「よし」そう言ってその中へ足を踏み入れた。
ここは、以前ゴルトが仔犬を獣人化した時に使っていた地下の隠し部屋。魔術というのは、環境や場所によって効果の出やすさや成功率に影響することがあるためこの場所を選んだ。魔術を知り尽くしたゴルトであればきっとその魔術を一番扱いやすい場所を選ぶだろう、そう考えての決定だった。
「これで……よし」
ロルフはゴルトがしていた通り眠り草エキスを使って眠らせた猫を、魔術台の上、大きな陣の中央にそっと置く。これで準備は完了だろう。
本来であればこの魔法陣も自分で描かなくてはならないのだろうが、仔犬の獣人化をした後この部屋を使っていないためかそのまま残っていたためありがたく使わせてもらうことにした。全て自分でこなした、と言うのには少しズルなのかもしれないが。
ロルフは開くことのできない本を左手で持つ。今日十になったばかりの大人より小さな手では多少不安定さが残るがそこは致し方ないだろう。
「すぅ……はぁー」
ロルフは大きく深呼吸をすると、ゴルトの真似をして目を瞑る。そして、心の中で念じた。この子猫を獣人にしたまえ、と。
「……?」
数秒待っても何も起こる様子のない静けさに、ロルフは薄目を開ける。
――失敗、したのか? そんなことを思いかけた時だった。本棚に置かれた本や机の上に置かれた魔道具がカタカタと音を立て始めた。かと思うと、突然手に持った本のページが勢いよく捲れ始め、とあるページで止まった。それと同時に何も書かれていないはずのページから呪文が浮かび上がっていく。
「――っ!」
突然吹きつけた風に、ロルフは思わず右腕で顔を覆った。不思議なことに、左手に持った魔術書は接着されているかのようにページ一枚すら動かない。
その突風は竜巻のように魔法陣の周りをぐるぐると回るように吹き始め、辺りの本棚から多くの本を引きずり出し巻き上げていく。そして、部屋中に白煙と雷のような光の筋がその風の流れに沿って発生したかと思うと、その白煙はどんどん濃くなりロルフの視界を遮った。
――一体どうなって……。ゴルトが以前行った時はこれほどの騒ぎにはならなかった。という事は。
思い浮かぶのは失敗の文字。そして、
「猫!」
ロルフは魔法陣の中央で眠る猫を助けるべく、白煙の中に身体を入れ込んだ。とてつもない風圧と時折走る雷による痺れに、身体が引きちぎれるのではと思いながらも、必死に前へ進む。だが、その努力もむなしく、前に進むどころかその場から動くことができなくなったところで魔術の威力が弱まってきた。
そして、徐々に晴れていく視界の先に現れたのは、心配していた子猫の姿ではなく、きょとんした表情で魔法陣の中央で座り込む白髪の幼い少女だった。
*****
****
***
――そう、シャルロッテは、ロルフが少年時代に森で保護した“子猫”を魔術によって獣人化した存在であった。
そんな大切な記憶を今まで忘れていたことに、悔しさと情けなさを感じながら、いくらかの間の後にやっとの思いで口に開く。
「シャルは、俺が――生み出した」
その魔術は禁術――正確には獣人には扱うことが出来ないはずであり、そもそもほとんどの獣人達が存在も知らぬ魔術である。それを知らずに禁忌を犯してしまったロルフの記憶を消すことで、ゴルトはロルフとシャルロッテのことを守っていたのだろう。
そして、なぜ年端もいかぬ当時のロルフがそんな魔術を成功させることができたのか。その理由はわからないが、少なくともその事実を知っているのは現在ロルフとゴルトの二人。シャルロッテはもちろん、知り合いを含め他の人間がそのことを知る術はないし、まさか話すことができる訳もない。
「そう、なのですね……」
落胆した様子で俯くエルラに、ロルフはその質問をした理由を問おうとした。
だが、「まさか貴方が……」そう呟くエルラの目元から今にも溢れ出さんとする雫に、ロルフは口を噤む。ロルフのベストの胸元を掴むようにして俯いたエルラからは絶え間なく雫が落ち続け、時折ポツ、ポツ、とロルフの靴に当たる音が静かに響く。
どうすればよいのか分からないながらも、ロルフは「大丈夫か?」そう言って慰めようとしたが逆効果だったらしい。
「もう結構です! 貴方なんて!」
エルラはそう言うと、逃げ出すように部屋から駆け出していった。