悪魔のささやき
1年前、俺は悪魔に取り憑かれた。悪魔は事あるごとに俺をそそのかし、地獄に引きずり込もうと企んでいる。こんなことを言うと頭がおかしいのかと思われるだろう。俺も自分の頭がおかしくなったのかと疑っていたのだが、実際に悪魔の姿を目にしてからその存在を信じるようになった。
奴との出会いは一年前、道端に一円玉が落ちているのを見つけた時のことだ。俺はその時何も思わずそれを一瞥して通り過ぎようとした。
——拾え。
突然、肉食獣のうなり声のような低い声が響いた。
驚いて辺りを見渡すが誰もいない。車一台通っていない。気のせいだろうか。
——一円玉を拾え。
いや間違いない。何者かが俺に語りかけている。
「誰だ!?」
辺りを見渡していた俺は体の異変に気付く。まるで金縛りのように身体が動かなくなったのだ。しかも身体がまるで何か別の生物に乗っ取られたかのように、俺の意志とは関係なくゆっくりと動き始めた。
「くっ、身体が勝手に……!?」
いくら抵抗しようと力を込めても足は畳まれ体制は前かがみになり右手は一円玉を鷲掴みにする。
——我は悪魔なり。今日から貴様に取り憑くことにした。
再び俺の脳内に響く声はそう名乗った。こうして悪魔が来てから俺の生活は一変した。
次に悪魔が姿を現したのは上下関係に厳しい先輩達との飲み会で、俺たちのテーブルに大盛りの唐揚げが運ばれて来た時のことだ。さっそく小皿に取り分けようとした俺に奴の声が聞こえた。
——レモンをかけろ。
俺は悪魔の声に耳を疑った。それが飲み会で嫌われるダントツ一位の行為だったからだ。「ば、馬鹿を言うな! そんなことしたら村八分にされるぞ!」
——ぶちまけろ……!
「絶対に嫌だ!」
しかし俺の手はレモンの果汁をぶちまけていた。レモンがカラカラになるんじゃ無いかと思うくらいにギュウギュウ絞った。フレッシュなレモンの香りが漂う中 飲み会の空気は淀んでいった。
それ以来俺は飲み会に呼ばれていない。
友達と山陰旅行へ行った時のことだ。旅館の朝食には宍道湖で取れたシジミの味噌汁が出て来た。
「シジミの出汁が効いてて美味しいよな」
と友達と談笑しながら味噌汁を飲んでいると、出たのだ。
——シジミも食べろ。
「な、何を言ってるんだ! シジミは出汁だから食べる必要は無いんだ!」
——いいから食べろ、モッタイナイ。
両手の自由を奪われた俺は何度も何度も、素手でシジミを口に運んだ。素手で一心不乱にシジミを食べる俺を見て友達は完全にドン引きしていた。
一人でいる時でも容赦なく奴は襲って来た。俺は大学生になってからとあるネットゲームにハマっていて、空き時間の全てをそのネトゲに注ぎ込んでいた。所属する巨大なギルドでも一目置かれていた俺は会員から敬語を使われ、「さん」付けで呼ばれていた。
そしていつものようにログインした時のことだった。
——ユーザーネームを変えろ。
……え?
——「フルチン戦士ボッキマン」 にしろ。
それだけは! それだけは勘弁してくれ! そんなことしたらギルドから追い出されるし追い出されなかったとしても「フルチンさん」もしくは「ボッキマンさん」とか呼ばれることになる!
俺は必死に抵抗した。だが俺はフルチン戦士ボッキマンになった。
そして間も無くギルドから追い出された俺はネトゲをやめた。
俺には好きな子「ミヤちゃん」がいた。しかし奥手の俺は遠くから見つめることしか出来ず、もどかしい思いをしていた。ある時、講義中に彼女が落とした消しゴムを拾った。
——食べろ。
抵抗むなしく俺は消しゴムを食べた。腹を壊した。
ある時俺は彼女が落としたハンカチを見つけた。これは届ければ……!
——食べろ。
食べた。美味しかった。
ある時、ミヤちゃんがいつも首に巻いているストールを見つけた。きっと忘れたのだろう、届けなければ。
——匂いをかげ。
匂いを嗅いだ。ティモテー。
ある時、女子更衣室の前を通った時、ミヤちゃんの声が聞こえて来た。ああ、このドアを開けたら彼女が着替えをしているのか……。
——ドアノブを食べろ。
食べた。固かった。
どうして俺が消しゴムやドアノブを食べねばならないのか。俺は悪魔に取り憑かれた自分の運命を呪っていた。あの日までは。
大学からの帰り道、俺はミヤちゃんがガラの悪い男達に絡まれているのを見てしまったのだ。まずい、どうする? 警察? いやそれじゃ間に合わない。じゃあ俺が止めに入るか? いや俺みたいなモヤシが勝てるわけがない。じゃあ、見て見ぬふり……?
——戦え
俺は悪魔のささやきにハッとする。
——戦え!
俺の内側からメラメラと闘志が燃え始めた。そうだ、俺は男だ。男には負けると分かっていても戦わなければならない時があるんだ!
——貴様に我が力をくれてやる。全てを貫く悪魔の拳を……!
俺は男達の前に躍り出た。戦わずに後悔するくらいなら戦って死んでやる!
と思っていると俺の横から飛び出して来たガタイのいい男がミヤちゃんに群がっている連中を殴り倒してしまった。
「もう大丈夫だよ」
と言ってミヤちゃんを抱きしめる男。
「怖かったよ!」
と男の胸で泣くミヤちゃん。
「あの、二人はどういう……」
と尋ねる俺に顔を見合わせる二人。
「恋人同士です」
俺の目の前は真っ暗になった。
——ドンマイ
視界が暗転する最中、悪魔が静かに囁いた。
終わり
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