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第6話「流れ解散……」

 アイが自分の世界に帰ってしまって数日の時が過ぎ去り、直樹は昔と同じ平穏で退屈な日々を過ごしていた。

 いつもどおり朝を向かえ、いつも通り美咲と一緒に学校に通い、宙や愛と楽しく会話する。ただ、ベル先生はあの一件以来姿を消してしまって行方不明だ。それ以外はアイが現れる前の生活となんら変わらない。そう、昔とはなんら変わらない。

 昔と変わらない生活。けれど今は昔じゃない。昔があって今がある、今を生きてるからって昔がなくなるわけじゃなかった。

 直樹はせっかくの休日を家でゴロゴロしながら過ごしていた。ちょっと前なら、部屋でゴロゴロしてるとアイが乗っかって来たものだった。けれど、アイは帰ってしまった。

 物音を聞いたような気がして直樹は急に立ち上がって押し入れを開けた。けれど誰もいない。いるはずがなかった。

 窓が開く音がして直樹は驚いて振り向いた。

「なんだ、美咲か」

「なんだで悪かったわね、窓から入って来るのなんてわたしくらいじゃない」

「それもそうだ」

 直樹は再び畳の上に寝っ転がり、美咲が直樹の頭の近くに座った。

「直樹元気ないよね……アイがいなくなってから」

「そ、そんなことないぞ、俺は今日も元気いっぱいだ」

 慌てて立ち上がった直樹を見ながら美咲は悲しい表情をした。

「わたしと直樹、いい線いってたと思ったのにな。アイがいなくなったら直樹がわたしに靡いてくれるかなってちょっぴり期待してたんだけど、アイがいなくなったら直樹は駄目人間になっちゃったよね。空元気の直樹見てるの辛いよ……」

 途中から涙声になった美咲を見て直樹がひどく動揺する。

「泣くなよ」

「まだ泣いてないわよ、ちょっと泣きそうになっただけ。直樹の前じゃ絶対泣かないって決めたんだから」

「絶対泣くなよ、俺はおまえに泣かれたら困るんだよ。俺だってそんなバカじゃないんだから、ずっと前からおまえの気持ち知ってっからさ」

「ずっと知ってたなんて酷い。それでわたしの気持ちに応えてくれなかったなんて、サイテーだね」

 二人がしんみりした雰囲気に浸っていると、机の引き出しがガタガタっと揺れて、中から何かが飛び出してきた。

「呼ばれて飛び出てチャチャチャチャ〜ン!」

「アイ!?」

 思わず直樹は声をあげたが――違った。

 机から出てきたのはアイの形をした腕人形。それを操っているのはカーシャだった。

 アイが最初に直樹の前に現れた時に言ったフレーズと同じ言葉で登場したカーシャはボソリと挨拶した。

「ふふ……こんばんは(自分の悪質な冗談にちょっと反省……なんちゃって)」

 サイテーの冗談だった。カーシャ極悪非道、絶対氷の心を持ってる。あっ、カーシャは氷の魔女王だった。あはは〜っ……。

 カーシャは机の引き出しから這い出すと直樹の傍にちょこんと座った。

「アイが異界に帰ったと風のベルで聞いたが、本当らしいな(ふふ……捨てられた仔犬)」

 カーシャの心の声が聞こえたのか、直樹の心にグサッと槍が突き刺さった。かなりの精神的ダメージ。

「お、俺はアイが、い、いなくなって清々してるんだからな!」

 動揺しすぎ。そこにカーシャが追い討ち。

「なんでもアイが帰る決め手をつくったのはおまえらしいな、風のベルで聞いたぞ」

 槍で射抜かれた傷に荒塩を練りこまれた直樹は完全に魂を飛ばし、畳に手をついて深〜く項垂れた。

 直樹だってなんであの時にあんな言葉を言ってしまったのかわかっていない。強いて言うならばノリ。直樹はいつでもノリで生きている。それがちょっと今回は裏目に出た。

 項垂れる直樹の両肩に美咲が優しく手を乗せた。

「直樹、顔上げて」

 魂喪失の直樹はピクリとも動かない。

 美咲の眉がピクッと動く。

「顔上げないさいって言ってるでしょ!」

 無理やり直樹の頭を持ち上げた美咲はバシーン! と一発直樹の頬を引っ叩いた。

「直樹バカじゃないの、最初から落ち込むならなんで止めなかったのよ、ば〜か、ば〜か、ば〜か!」

「俺はバカだよ、だからどうしたんだよ。俺は寝るぞ、寝るったら寝る。だからみんな早く部屋出てけよ!」

 自暴自棄になった直樹に対して何時になく真剣な顔をしたカーシャが呟いた。

「おまえは本当にそれでいいのか?」

「みんなで俺がアイのこと好きだったみたいな言い方するなよ!」

「自分の気持ちに嘘をつくと後で後悔するぞ(あっ、もう嘘ついて後悔してる、遅かったか……ふふ)」

 どこからともなく魔法のホウキを取り出したカーシャ。彼女はそれを畳の上で寝転がる直樹の胸に突きつけた。しかもかなりの力で。ある意味グーパンチ。

「うっ……なにすんだよ!」

「受け取れ餞別だ。きっと何かの役に立つだろう。では、わたしは帰るぞ」

 カーシャは直樹に魔法のホウキを渡すと机の中に戻って行った。と思いきや、すぐに顔を出して一言。

「この家は客にお茶も出さんのか(……頑張れよ直樹)」

 心の中で直樹に言葉を送ったカーシャは本当に帰って行った。

 カーシャから託されたホウキを握り締めながら直樹はうつむき震えていた。それを見た美咲は感動していた。

「直樹……アイを迎えに行く気になったのね」

「……こんなホウキ貰っても邪魔でぅあっ!」

 そういうオチかいっ!

 突然立ち上がって部屋を出て行こうとした直樹に美咲が声をかけた。

「どこに行くの?」

「腹が空いたからなんか食いに台所行く」

「……状況無視。周りの空気読めてないの?」

「おまえも食うか?」

「うん」

 笑顔で即答。この人も場の空気無視だった。美咲も駄目ジャン!

 ちょっぴり小腹の空いた二人は階段を下りて、廊下をちょこちょこっと進んで台所へ。ここで戸棚をモソモソっと直樹が取り出したるは、カップラーメン!

「これでいいか美咲?」

「うん、それでいいんだけど……なんでホウキ手放さないわけ?」

「気にするな、目の錯覚だ」

「目の錯覚って……」

 カーシャからもらった魔法のホウキをなぜか台所まで持って来ている直樹。邪魔なら自分の部屋に置いてくればいいのに、ねえ?

 直樹は二つのカップラーメンにお湯を入れて、それをテーブルの上に置いて美咲と一緒に三分待つ。

 カップラーメンとにらめっこしながら直樹がボソッと呟く。

「呼ばれて飛び出てチャチャチャチャ〜ン……なんてな」

「なにそのフレーズ?」

「なんでもない、ただ言ってみただけ」

「……?」

 ――一分経過。

 ――二分経過。

 ――三分待たずにふた開ける。

 固麺好きの直樹は三分待たずにふたを開けるのだが、三分前にふたのは他にも意味がある。

 ふたを開けてカップラーメンを食べはじめた直樹は再びボソッと呟く。

「普通のカップラーメンだな」

「普通ってなにが?」

「いや、別に……」

「もう、さっきから変だよ直樹。アイちゃんのこと考えてるんでしょ?」

「……おまえには関係ねえよ」

「関係ないってなによ、都合の悪い時だけ関係ない?」

 これから美咲の猛攻がはじまるってところで家のチャイムがピンポーンと鳴った。

 直樹は箸で美咲の顔を指して次に台所の出口を指して一言。

「出て来い」

「それってわたしに『玄関に行け』ってこと」

「わかってるなら早く行けよ、客を待たせるのはよくないだろ」

「はいはい、わたしが行けばいいんでしょ」

 台所を出て行ったと思った美咲がすぐに帰って来たので直樹は少しきょとんとした。

「誰だったんだ?」

 台所に入って来た美咲に続いて、もうひとり女性が台所に入って来た。

「私だ」

 美咲のあとに入って来たのは愛だった。

 愛の姿を確認した直樹はカップラーメンを食べる手を止めた。

「なんで愛がうちに?」

「鈴鳴先生から直樹がアイを助けに行くと聞いて駆けつけたのだ」

「はぁ? 俺、ベル先生にここ数日会ってないし、アイを助けに行くって、俺が?」

「そうだ、私はそう聞いたので駆けつけたのだ」

「だからなんで駆けつける必要があるんだよ」

「これを届けに来た」

 愛はポケットからお守りを取り出して直樹の掌の上に乗せた。そのお守りをまじまじ見て考える直樹。そして、直樹は書いてる文字を大声で叫んだ。

「恋愛成就ってなんだよ!?」

 恋愛成就のお守り……愛様グッドジョブ!

 直樹はカップラーメンを口の中に一気に食い、スープを一滴残らず飲み干してテーブルの上にバン! と置いた。と同時の勝手口のドアがバン! と蹴破られた。一同の視線が勝手口に向けられるのは、まあ当然。

「あらぁん、みなさ〜ん、お待たせしたわぁねん!」

 誰も待ってなかったけどベル先生登場。ドアの修理代は出してくれるのでしょうか?

 ベル先生は土足のまま台所に上がり込むと、勝手に湯飲みを出して自分でお茶を入れると寛いだようすでテーブルに着いた。あまりにも手馴れたようすなのが気になる。そう言えば、前にも直樹宅の台所で寛いでいたような……常習犯!?

 お茶を一口飲んだベル先生は真剣な顔をして直樹を見つめた。

「行くわよぉん」

「はぁ!?」

 直樹は意味もわからずベル先生の顔を見つめるだけだった。最近直樹の口癖が『はぁ』になりつつある。理解の範疇を超えたことが多すぎるのだ。

 もう一度ベル先生が同じ言葉を発する。

「行くわよぉん」

「はぁ!? いつ(When)?」

「今すぐによぉん」

「誰が(Who)?」

「直樹に決まってるわよぉん」

「何を(What)?」

「アイを助けによぉん」

「なぜ(Why)?」

「それは自分の胸に訊きなさぁい」

「どのようにして(How)?」

 直樹&ベル先生のQ&A。最後の直樹の質問に答えたのは愛だった。

「この家の上空にヘリを待たせてあるので心配するな」

 そして、最後に直樹が叫ぶ。

「なんてこったい!(Oh my God!)」

 台所に響いた直樹の声はご近所さんまで響き渡った。

 直樹の頭の上になんてこったい妖精が飛び回ってしばらく一同沈黙。

 短いようで長いような時間が流れ去った後、直樹がテーブルを両手で叩きながら立ち上がった。

「行けばいいんだろ、行くよ、行きますよ、行きゃいいんだろコンチキショー!」

 なんだか逆ギレ。

 決意を固めた……ような感じの直樹の腕をベル先生が掴んだ。

「じゃあ、行くわよぉん」

 魔法のホウキを手にとってベル先生と一緒に勝手口から出て行く直樹の背中に、まず愛が声をかけた。

「幸運を祈る」

 次に美咲。

「夕食作ってまっててあげるから」

 直樹は無言で背中越しに手を振った。


 勝手口を出てすぐに直樹は自宅上空で待機するヘリコプターを発見。住宅街には降りて来られないらしく、屋根ギリギリのところで待機している。どーやって乗るんだよ!

 呆然とヘリコプターのクルクル回る羽を見ていて少し目が回ってきたなぁ、なんて思っていた直樹にベル先生が背中を向けながら声をかけた。

「あたくしの背中に乗りなさぁい!」

「意味不明」

「飛ぶから」

「飛ぶ?」

「いいから、直樹は黙ってあたくしの言うことだけ聞いてればいいのよぉん」

「拒否権は?」

「ないわぉん」

 ベル先生が『ない』と言ったらこの世には存在しない。総理大臣だろうと大統領だろうと、ベル先生の言うことにうなずくYESマンになるしかない。もちろん、直樹は二度三度とうなずいて否応なしにベル先生の背中に乗って担がれた。そしたら飛んだ。

 どこからか鳴るジェット音。それはベル先生のブーツの底から鳴り響いていた。そして、ベル先生の靴底から火が噴出して空を飛んだ。これならヘリまで楽々だね……エヘッ。

「ベル先生、跳んでる、飛んでる、トンデル!?」

 最後の『トンデル』は、『この人頭イカレてる』の意味。

 直樹を乗せたベル先生は空をひとっ飛びして軽々とヘリの中に乗り込んだ。

「やっぱりヒトを乗せて飛ぶと疲れるわぁん」

 もう一人は疲れるどころじゃなかった。直樹の顔は蒼ざめ生気を失っている。いつだったか直樹はどっかの誰かさんの運転する魔法のホウキに乗って以来、彼は高所恐怖症になってしまったのだ。ビバ・カーシャさん!

 嗚咽して吐きそうになっている直樹のスーパーの袋が手渡された。

「直樹クン、吐くんだったらこの中にね」

「ああ、ありがとーって宙?」

「ナンダコンチキショー!」

 そこにいたのは宙&ワラ人形ピエール呪縛クンペアだった。

 直樹が宙に何かを質問すると、宙の手が直樹の眼前に押し付けられた。

「なんでここにぃるかなんて無粋な質問はなし。それと吐くんだったら、その袋か上空垂れ流しでぉ願ぃ。ワタシのぉすすめは上空垂れ流し……だってこの中に臭いがこもらなくて済むから」

「垂れ流さねえよ。それとどうしても質問させてくれ、なんでいるんだよ?」

「ワタシも行くからに決まってるのに……直樹クンってやっぱりおばかさん」

 直樹が宙におばかにされていると、ベル先生が地上を見ながら二人に話しかけてきた。

「もうすぐ着くわよぉん」

 ヘリは徐々に降下し、なんだか見覚えのある学校のグラウンドに着陸した。

 三人はすぐにヘリから降りて、直樹は見覚えのある学校を見回した。

「俺の学校ジャン! ここになにがあるんだよ?」

 直樹が連れて来られたのは直樹の通う某○○中学だった。なぜこんな近場にヘリで来なきゃならんかったかは、愛が令嬢だから。ビッグな人は移動手段もビッグなのです。

 意味もわからず直樹が立ち尽くしていると、見事に置いて行かれた。

「行くわよぉん」

 ベル先生と宙はすでに直樹から遠く離れた場所を歩いている。直樹は猛ダッシュで二人を追いかけた。

「ちょっと待て、肝心の俺を置いてくつもりかよ、ってかどこに向かってるんだよ?」

 ベル先生が直樹の方を振り返って不思議な顔をする。

「あらぁん、言ってなかったかしらぁん?」

 言ってません。自己中心的な人はこれだから困ります。世界はベル先生で回っています。そーゆーことにしときます。

 足を肩幅に広げて前方に見えてきた池を指差すベル先生。

「学校裏にある池が月に通じる亜空間ベクトルになっているのよぉん!」

 よくわからない説明だった。

 意味わかんねえ、と思いつつ直樹はベル先生に連れられるままに学校裏の池に着いてしまった。で、これからどうするの?

 仕方なく直樹が『はぁ〜い』と手を上げた。

「先生質問で〜す」

「なにかしらぁん、直樹?」

「だからここに何しに来たんスか?」

「あたくしのあの説明を聞いても理解できなかったの? これだから凡人は嫌ねぇん」

「俺は凡人以下なので、猿でもわかる説明してください」

「モリーの住まいは月にあるのぉん。それでこの池に映る月を通って月にワープするわけよぉん。わかったかしらぁん?」

 意味は理解した。ただ、月って、ワープって……どないやねん!

 静かに佇む水面を見つめながら宙がもっともな質問をベル先生にした。

「月が出てなぃけど?」

 まだまだ日の高い日中。夜になるには随分あると思う。ま、まさかのベル先生計算ミス。と思いきや、待ってましたとばかりにベル先生がお嬢様笑いをした。

「お〜ほほほほっ、そんなこともあろうと準備万端よぉん!」

 ちまたで有名な白衣のポケットからベル先生はアイテムを取り出した。

「地域限定夜発生装置よぉん!」

 地域限定夜発生装置――読んで字の如く。地域限定である範囲内を夜にしてしまうという自然の法則を無視した大発明。二十二世紀のネコ型ロボットよりもなんでもアリなベル先生。

 ブラックな色をした野球のボールほどの大きさの球体をベル先生は上空高く放り投げた。すると、宙に浮かんだ球体から黒い霧がモクモクと出ててきて、あっという間に辺りは夜になってしまった。ヴァンパイアには喜ばれそうな発明だ。

 次にベル先生は白衣のポケットに手を突っ込むと、見るからに怪しげな緑色の液体が入った試験管を二つ取り出して直樹と宙に手渡した。

「月には空気がないから、これを飲みなさぁい」

 宙は手渡された液体を躊躇せずに一気飲み。けど、直樹は躊躇いに躊躇う。だって、緑色の液体から泡がブクブク出てるし。

 ベル先生は試験管の中身とにらめっこして固まっている直樹の腕を強引に掴んで謎の液体を無理やり飲ませた。

「早く飲みなさぁい!」

「うう……ぐぐ……はぁはぁ、一気飲みしてしまった」

「直樹偉いわぁん、よく飲み飲み干したわねぇん。ということで、これを餞別してあげるわぁん」

 おもむろに白衣を脱いだベル先生はその白衣を無理やり直樹に着せた。

「ベル先生……もらっていいんスか白衣?」

「貸すだけよぉん。用が済んだらクリーニングに出して返してちょうだい」

「ってことは……ベル先生はついて来てくれないってことかよ!?」

「察しが早いわねぇん。わたくしは月には行かないわぁん。今日は友達と食事に行く予定が入ってるのよぉん」

 もうなにも言うまいと直樹は心に誓った。ベル先生はこーゆー人だ。

 直樹がため息をついて肩を落としていると、後ろからドン! 背中に蹴りを喰らって池の中に落ちた。

「うわぁ!?」

 ジャポ〜ン!

 水面に映った月が揺らめいて直樹を呑み込んだ。


 月の裏側。月っていうのは常に地球に片面しか顔を見せていないのです。だから、地球上からは月の裏側を見ることができません。その月の裏側の地下にあるモリー公爵の屋敷。

 昼も夜もない月の世界だが時間の概念はあるわけで、モリー公爵とアイは昼食をとっていた。ちなみにすぐ横ではマルコが正しい姿勢で立っている。マルコは主人と食卓を共にしないで、あとで淑やかに食事をとるのがいつもの日課。

「アイ様、お食事の手が止まっているようですが、今日も食欲がないのですか?」

「食べたくな〜い、食欲な〜い、マルコの顔も見たくな〜い、ママと食事するのもイヤ」

 フォークとスプーンを持って子供のように駄々をこねるアイに対して、キラリと光るナイフを持ったモリー公爵があくまで静かに静かに言う。

「あの人間のことが忘れられないのかえ?」

「違うもん、ダーリンのことなんてとっくに忘れたもん。だってダーリンが悪いんだよ、ダーリンが……」

 声を沈ませながらもアイはフォークをお肉にグサッと突き立てた。気持ちが不安定。

 ナイフをお肉の上でブルブルさせてるアイ見てマルコは深いため息をついた。

「アイ様、金属のお皿が破損してしまいます、ナイフを上げてください。それと、あの小僧をダーリンと呼ぶのはお止めください、未練が乗っているように聞こえます。あと、アイ様はレディーなのですから、足を開かずにお座りください。それから――」

「うるさい、もぉいいよ! マルコもママも嫌い」

 声を荒げて立ち上がったアイは部屋を出て行こうとして、部屋を出て行く寸前にアイは振り返って叫んだ。

「マルコだって女っぽくないじゃん、ば〜か、ば〜か、ば〜か!」

 マルコ的大ショック!

 精神的ダメージを受けてうずくまるマルコを尻目にアイは部屋を駆け出した。

 アイは嫌になるくらい長い廊下を抜けて自分の部屋のドアを開けた瞬間にフリーズ!

 自分のベッドで女性が男性の上に乗っている。その光景を目の当たりにしたアイは硬直した。そして、強張った顔をした男性の方とアイの目が合って、その男性が爽やかに軽く手を振る。

「や、やあ、アイ……久しぶり」

「ダ、ダーリンのばか!」

 アイのベッドの上にいたのは直樹と宙だった。この状況を説明すると、亜空間ベクトルの出口がアイの部屋のベッドの上で、最初に月の道を通った直樹がベッドにドンと落ちて、次に直樹の上に宙がドンと落ちたわけ。決して昼間から、あ〜んなことやこ〜んなことをしようとしていたわけでない……と思う。

 猛ダッシュしたアイは直樹の上に乗る宙を強引に掴みかかって引き剥がした。

「ダーリンを誘惑するなんて悪魔!」

 悪魔に悪魔って言われるなんて……まあ言葉の綾だけどね。

 投げ飛ばされた宙は埃を払いながら立ち上がって、相手をこばかにしたような笑いを浮かべる。

「……恋にライバルは付き物」

「ぐわっ、まだダーリンを寝取るつもりなのぉ!?」

 女の熱いバトルがはじまりそうな中、ひとりだけついていけない直樹。直樹はポカンと口を開けるしかなかった。しかも、次の宙の発言で直樹の顎はガボ〜ンって外れた。

「……嘘」

 嘘かよっ!

 ……てゆーか、どこが嘘だよ。どの辺りが嘘だよ。なにに対してが嘘なんだよ!

「ワタシはもぉとっくに直樹クンのぁきらめたから……心配ナィナィ」

 そして、最後に不適に笑う宙。何を考えているかは不明。きっと、宙の心の内を知っているのは仲良しのワラ人形ピエール呪縛クンくらいだと思う――本人だし。

 ベッドの上にちょこんと座って顎をガボ〜ンとさせている直樹の横にアイがちょこんと座った。アイの丸くて愛くるしい瞳が直樹の顔を映し出す。

「何しに来たのダーリン? もしかしてアタシを迎えに来てくれたとか?」

「そんなわけないだろ、ちょっと道に迷ったってか、なんていうか……」

 嘘ヘタすぎ!

 普通の人間が迷って来れる距離でもないし、言葉に詰まったらすぐに嘘だってバレるジャン!

 ウキウキ気分のアイが直樹の腕に絡み付いていると、アイのようすを見に来たマルコが部屋に入って来た。

「アイ様、食事を途中で抜け出すなどモリー様も……こ、小僧!?」

 刹那に抜かれるマルコの剣。次の瞬間には反射的に直樹は立ち上がって戦闘モードになってしまっていた。だが、直樹の姿は白衣に魔法のホウキにサンダル。サンダルってところがカッコ悪い。

 剣を構えたマルコから殺気が漲っている。直樹が少しでも変なマネをしたら殺されるに違いない。変な……例えば直樹にアイが抱きついてるとかね。こ、殺されるぅ〜!

「小僧、アイ様をどうするつもりだ!」

「どうもなにも、俺はただの通りすがりで……」

「嘘をつくな! アイ様を無理やり連れ去る気なのであろう!」

 状況的に直樹は殺られること確実。しかもアイから追い討ち。

「きゃ〜っダーリンに連れ去られるぅ!」

 ウキウキドキドキにはしゃぐニコニコ顔の緊迫感ゼロのアイが、きゃぴきゃぴしながら直樹の腕に抱きつく。これを見たマルコは怒り頂点マックス!

「おのれ、おのれ、おのれ! アイ様をたぶらかすとは許せん!」

 疾風のごとく駆けるマルコの一刀が直樹を襲い、魔法のホウキで直樹は剣を受けた?

 木製のハズのホウキがマルコの剛剣を受け止めたのだ。さっすが魔法のホウキ……だから?

 思わぬことにマルコは目を丸くして驚いた。

「たかがホウキで我が一刀を受け止めるとは……」

「マジ死ぬかと思った。カーシャさんありがとう!」

 あの時はマジで邪魔だと思ったホウキだったが、今は拳を握り締めてカーシャさんに感謝感激!

 柄を握り直したマルコの一刀が煌き、直樹は紙一重で避けた――海老反り。

 瞬時に作戦を考える直樹。そして、閃き煌き、レッツトライ!

 魔法のホウキに跨った直樹は逃げた。そう、彼は逃げた。敵前逃亡。逃げるが勝ち!

「ダーリン!」

 自分の背中に向かって誰かの声がしたが、直樹は逃げる。

 ホウキに乗って部屋を出た直樹の後ろを黒狼に変化したマルコが口から炎を吐きながら追ってくる。――ちょっぴり逃げ切れそうもないかも。

 冷や汗タラタラの直樹は白衣のポケットに手を突っ込んだ。そう、この白衣はベル先生のもので、白衣のポケットはちまたでは四次元ポケットと呼ばれているものだ。きっと何かすんげえものが出てくるに違いない。――違いないかもに訂正。

 まず直樹が取り出したるは『まきびし』!

 忍者が追ってから逃げる時に使うというアイテムまきびしを直樹は地面にばら撒いた。トゲトゲの金属であるまきびしを踏んだ敵が『あいたーっ!』って言ってくれるアイテムなのだが、マルコは廊下をひとっ飛び。軽々とまきびしを避けた。 

 次のアイテムを直樹が取り出そうとした時に、目の前に廊下の突き当たりが――つまり壁。

 ホウキは急には止まれない。

 ドン!

「うがっ!」

 壁に激突した直樹が床の上でヘバる。そして、そこに牙を剥いたマルコが襲い掛かろうとしていた、その時だった!

「止めるのじゃマルコ!」

 廊下に凛としたモリー公爵の声が響き渡った。

 マルコの牙は直樹の服に食い込み、あと一歩のところで食い千切られるところだった。直樹一安心。実はベル先生の白衣を着てなかった死んでたことを直樹は知らない。というか、白衣を破ったことによってベル先生に……(死)。

 ゆっくりと立ち上がる直樹にモリー公爵が手を差し伸べた。

「妾の宮殿ではなく、他のところでマルコと決闘するがよい」

「……へっ?」

 モリー公爵の手を掴もうとしていた直樹の手が思わず止まる。

「妾はそちとマルコが戦うことに同意しよう」

「……はぁ?」

 つまり、マルコが直樹に襲い掛かろうとしたのを止めたのは、屋敷の中で暴れられるの嫌だったから。ごもっともな理由ですな……あはは。

 モリー公爵がなにやらボソボソと唱えた次の瞬間、あらビックリ、直樹は月の表面に立っていた。


 殺風景な月の上。あるものと言ったら大小のクレーターとか。あとは星が綺麗。あとは……思いつかない。

 月の上に立つ直樹と対峙する黒狼マルコ。そして、それを見守るモリー公爵。なんだか状況がこんがらがってきちゃったよぉ〜!

 ――縺れ合う運命の糸。

 とにかくヤルっきゃないと思った直樹は魔法のホウキを構えてみる。

 構えてみる。構えてみる。構えてみる。

「次はどうしたらいいんだよぉ!」

 泣き叫ぶ直樹。ナオキじゃない直樹は弱かった。ナオキが攻なら、直樹は防。よっし、逃げとけ!

 魔法のホウキに跨った直樹は月の上を逃走。きっと、人類初の異形だろうけど……なんかねえ?

 直樹の後ろを追う黒狼マルコ。黒狼の姿こそがマルコの真の姿であり、この姿の時のこそマルコは真の力を発揮する。

 マルコの前足の付け根あたりが盛り上がり、肉の中から白い翼が皮を突き破って生えたではないか。次に尾が蛇のように鱗の覆われたものに変わり、その動きはまるで鞭のようだった。これこそが天使たちを大いに苦しめた魔獣マルコシアスの姿。

 天に舞い上がったマルコは降下しながら直樹に狙いを定めて必殺技――〈炎のつらら〉を放った。

 マルコの羽根から炎の槍が直樹を襲う。この必殺技は一撃で約四〇〇〇平方メートルを火の海にできるというのだが、宇宙空間は空気がないから威力激減。ちなみに〈炎のつらら〉をマルコに与えたのはベル先生であり、ベルがマルコに不思議な薬を飲ませたことにより、能力を開花させたのだ。

 直樹は上空から降り注いでくる〈炎のつらら〉を魔法のホウキを右へ左へさせながら避けつつ、ポケットの中に入っていた紙切れを取り出して音読した。

「――これを読んでる頃はきっと苦戦して死にそうになってるに違いないわぁん。そこで、そんな直樹のために取って置きの秘密兵器を今なら特別特価の一万円で売ってあげるわぁん。……売るのかよ!」

 直樹は役立たずの紙切れを投げ捨てて、再びポケットの中に手を突っ込んで何かを取り出した。

「呼ばれて飛び出てチャチャチャチャ〜ン!」

 直樹が白衣のポケットから取り出したのは、なんとアイだった!

 出て来るなりいきなりアイは直樹の身体に抱きついた。

「ダーリン!」

「うわぁっ、止めろ、運転中だ!」

 酔っ払い運転とでも表現すべきか、魔法のホウキが右へ左へ動き回る。それを上から狙っているマルコにしてみれば、狙いが定まらなくていい迷惑だ。って、これってラッキー?

 だがしかし!

 みなさん、酔っ払い運転はよくありません――だって事故るから。

 直樹とアイを乗せた魔法のホウキが突然落下しはじめる。そして、ドーン! と地面に衝突。飲酒してなかったのに事故った。原因は別にあったのだ。

 今日の格言――二人乗りは危ないからいけません!

 地面落下した直樹の上には当然のようにアイが抱きついて乗っている。

「ダーリン大丈夫?」

「う……うう……ふっはははは、あ〜ははははっ!」

 ま、まさか……?

 抱きついていたアイの身体に伝わるやわらかな膨らみ。自分より遥かに大きい胸、胸、爆乳!

「ダーリンもしかして……?」

「あ〜ははははっ、魔王準備中ナオキ様光臨!」

 アイを抱きかかえて立ち上がったナオキはホウキを構えてマルコを待ち構えた。

 降下して来たマルコは地上に降り立ったところでヒト型に戻り、アイの瞳を見据えながらゆっくりと歩み寄ってきた。

「アイ様、その小僧からお離れください」

「ヤダよぉ〜だ!」

「アイ様!」

「アタシはやっぱりダーリンと一緒になるんだもん。ねえダーリン?」

 アイに上目遣いで同意を求められたナオキは、あっさりきっぱりさっぱり首を横に振った。

「いいや。直樹♂はどうか知らんが、わたしはおまえのことなど数多くいる女のひとりとしか見てないぞ」

「がぼ〜ん!」

 アイちゃん的大ショック!

 でも、アイちゃんは負けません。

「それでもアタシはダーリンに尽くすからいいよ」

 こんな一生懸命のアイの腕をマルコが掴んだ。

「帰りましょうアイ様」

「ヤダ!」

 嫌がるアイの腕を引いたのはナオキだった。

「アイはわたしの女だ」

「……ダーリン」

 好きなひとの胸に抱かれトキメキモードでナオキの横顔を見つめるアイ。でも、次の一言でゲンナリ。

「数多くのひとりのな」

「がぼ〜ん!」

 ちょっぴりときめいたアイがバカだった。ナオキ相手じゃアイは特別な存在になり得ないのだ。では直樹では?

 アイの腕から手を放したマルコが剣を抜いた。

「やはりこの小僧を殺さねばならないようだな」

「望むところでだ男女!」

 ナオキはアイの身体を背中に押し込めて魔法のホウキを構えた。

 自分を賭けて戦いをはじめようとしてる二人を見て、アイはちょっぴり胸弾ませてみたり。

「ダーリン頑張って!」

 直樹が防ならナオキは攻!

 地面を蹴り上げたナオキが普段の直樹からは考えられないスピードでマルコに襲い掛かる!

 大剣とホウキの柄が交じり合う。そして、それを挟み睨み合う二人の視線に炎が灯る

ひとりは君主の愛娘を取り戻すため、もうひとりは売られた喧嘩を買っただけ。動機はどうあれ戦いは白熱していた。

 ナオキはホウキの柄を使って相手を剣ごと押し飛ばしたところで回し蹴りを放つ。その回し蹴りを躱したマルコの顔面にすぐさまホウキのモッサモッサした部分が襲い掛かる。だが、マルコはついにホウキの柄を叩き斬ったのだ!

 ホウキを斬られたナオキに剛剣が振り下ろされる。

 カーン!

 鳴り響く金属音。空気がないから音がしないなんていう無粋なことは言わないで、魔法よ魔法。

 ナオキが相手の攻撃を受け止めたアイテムは魔法のフライパンだった。

「あ〜ははははっ、フライパンで加熱してメインディッシュに喰ってくれる!」

「戯言を抜かすな、俺の方こそ貴様を喰らってくれるわ!」

 次の攻撃に移ろうとしたナオキの身体に突然異変が起きた。

「う、うう……」

 胸を押さえてうずくまるナオキはそのまま地面に膝をついてしまった。この時こそチャンスとマルコが剣を振り下ろすと思いきや、マルコは気高い武人であった。

「大丈夫か小僧、どうしたのだ?」

「胸が……この感覚は……覚えがあるぞ……宙だな!」

 ビシッとバシッとシャキッとナオキが指差すと、ぜんぜん違う方向から声が帰って来た。

「……ナオキちゃんこっち」

 ナオキが指差した方向とは見当違いのところで宙がワラ人形に杭を打ち込んでいた。ナオキ古典ギャグありがとう。

 だが、どうして今更宙が?

 ナオキは胸を押さえながら宙に手を伸ばした。

「なぜ宙が……わたしのことあきらめたのではなかったのか?」

「……相手が自分のこと好きにならなぃのなら、ぃっそのこと呪ったれ」

 動機が不純で自己中心的。

 そして、今になって駱駝に乗って追いかけて来たモリー公爵登場。

「して、状況はどうなっておるのじゃ?」

 状況は、胸を押さえて苦しむナオキとそれに付き添うマルコ。ナオキが苦しむ原因をつくっている宙とそれに襲い掛かろうとするアイ……アイ?

 アイはどこからともなく魔法のホウキを取り出し、ホウキをブンブン振り回しながら宙に襲い掛かった。だが、宙は意外に運動神経が良いので軽く避けて、ついでにアイのおでこにデコピン!

 パシッ!

 おでこにクリーンヒットを喰らったアイは痛みのあまり倒れこみ、地面の上をゴロゴロ転がり回った。その時ナオキは見た。

「あ、くまだ!」

 揺れ動くアイのスカートの隙間から、こちらを覗いて笑っているくまさんを確認したのだ。

 身体の芯から力の湧いてきたナオキは信じられないスピードで走り、宙からワラ人形セット一式を奪い取ることに成功した!

 あからさまに『しまった!』という表情を作る宙。

「そ、そんな!?」

 このセリフもワザとくさい。

 奪い取ったワラ人形をポケットの中にしまい込んだナオキは何時になく真剣な表情をしていた。

「相手が自分のことを好きになってくれないから呪うだと? 直樹♂がどうなろうと知ったことではないがな、この身体はわたしのものでもあるのだ。宙の発言は自己中心的者にしか聞こえんな。わたしの人生はわたしの人生であって宙に滅茶苦茶にする権利はないし、直樹♂もわたしの人生を滅茶苦茶にする権利はない。わたしは必死こいて地べたに足つけて、時には走って生きてのだ。辛い時も悲しい時も報われない時もあるがな、わたしは世界の女を我がものにするまで負けんぞ、あ〜ははははっ!」

 長々としゃべったナオキに宙から一言。

「それだけ、言ぃたぃことは?」

 そして、彼女は再びポケットからワラ人形セット一式を取り出した。ちなみにこのワラ人形の名前はジョニー呪縛クン。

 再びワラ人形に杭を打とうとしている宙。ナオキの話は全く通じなかったのだ。

「おまえな、わたしの話を聞いてい……アイ!?」

 バシーン!

 アイが宙に平手打ちを喰らわせた。

「ダーリンはアタシのもんなのわかる? ダーリンがそんなに欲しいんだったら自分の力でダーリンのこと振り向かせてみれば!」

 アイに怒鳴られた宙は目に涙を浮かべて地面にへたり込んでしまった。

「ワタシ……ワタシ……」

 泣き崩れる宙の手がササッと動いて杭をゴン!

「ううっ!」

 崩れ落ちるナオキ。宙は反省していなかった。だが、宙は杭を打つのを止めたのだ。

「やっぱりこんな方法はよくなぃ……」

「わかってくれたのね宙」

「やっとわかってくれたのだな宙」

 これにて一件落着……なハズあるかい!

 というわけで、不適な笑みを浮かべる宙。

「……な〜んちゃって」

 宙は突然立ち上がったと思うと手に持っていたハンマーでナオキの頭を殴り飛ばした。だが、それをこの人が止めたのだ。

「止めるのじゃ宙とやら」

 そう、宙を止めたのはモリー公爵だった。けれどナオキはすでに倒れています。

 そして、モリー公爵は言葉を続けた。

「宙とやら、案ずることはない。皆の者、この契約書を見るのじゃ!」

 モリー公爵がどこからどもなく取り出したのはアイが直樹と交わした契約書だった。でも、ヘブライ語なので普通の人には読めません。けれどナオキはすでに倒れています。

 主君に見ろと言われたのでマルコは契約書をまじまじと見た。そして、ニヤリと微笑んだ。

「アイ様、この契約書はもうじき向こうとなります」

「えっ、そんなハズないよぉ!」

 そう言いながらアイも契約書をまじまじ見た。そして、目を丸くして口をO型に開けた。

 次に宙も契約書をまじまじ見てニヤリ。

 焦りを覚えたアイがナオキを叩き起こそうとする。

「ダーリン起きてよ、起きてください、起きろよ、起きろって言ってんだろ!」

 アイの右ストレートがナオキの顔面に炸裂して直樹が目を覚ました。

「うう……また、ナオキが外に出てたのか……で、状況は?」

「ダーリン大変なの、契約書見て!」

 モリー公爵はナオキの鼻先に契約書を突きつけた。けれど、書かれている文字はヘブライ語。

「読めねえよ!」

 声を上げるナオキの前に勝ち誇った顔をして立ちはだかるマルコが軽く咳払いをした。

「この契約書は代償を払わねば二週間で契約解除ができると記されているのだ!」

 今日はアイと直樹が契約を交わしてからちょうど二週間だったのだ。そして、契約を交わしたのは二週間前の午後四時ごろであり、契約条件はドラ焼き一〇〇個。時間もなけらば、月にドラ焼き屋さんがあるとも思えない。絶体絶命!

 モリー公爵がマルコの説明に補足をした。

「契約がただ解除されるだけではない。悪魔との契約を破棄したそちは代償として魔物に八つ裂きにされるのじゃ」

 状況理解をした直樹は地面に手をついて崩れ落ちた。

「ダーリン!」

 マルコに腕を掴まれアイはモリー伯爵とともに直樹から離れていく。だが、もう直樹には何もできない。歯を食いしばって俯き、時間とともに魔物に八つ裂きにされるのを待つしかなかった――。

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