美少女に変身した感覚ちゃんたちとたわむれたい
物心ついたときから、あらゆる感覚が女の子に見えていた。
ぼくは彼女たちを「感覚ちゃん」と呼んでいる。
たとえば嬉子ちゃんは天真爛漫な子で、部活の試合に勝ったときなどに姿を現しては、ひまわり色のショートカットをなびかせて満面の笑みで抱きついてくる。たとえば悲絵ちゃんは白い髪の落ち着いた性格の子で、親と喧嘩をしてめそめそと泣いているぼくの隣に座り、いつまでも側に寄り添ってくれていた。
それが当たり前のことでないと知ってからは、より彼女たちのことが好きになった。あぁ、ビバ、マイライフ。素晴らしきかな、我が人生。
側にはいつも感覚ちゃんたちがいて、ぼくのことを思ってくれている幸せ。この特権を手放そうだなんて、一度だって考えたことがない。
――でも一人だけ、いつも遠くからぼくのことを見つめている感覚ちゃんがいる。
腰まで伸びた黒い、艶やかな長髪に、純白のワンピースを纏った凜とした姿。その瞳はまるで黒曜石のようで、いつも少しだけ悲しげな色合いを湛えている。
数いる感覚ちゃんの中でも彼女だけは、滅多にぼくの側に寄りつこうとはしない。いつだって姿が見えるのに触れられないそのミステリアスな佇まいに、容姿に、ぼくは幼い頃から抗いがたい憧れを持っていた。
――あぁ、君に触れたいよ、マイハニー感覚ちゃん!
そう思い続けて早数年。
ぼくは高校生になって、そして普通に彼女ができた。
『ねえご主人様ー。構ってよ遊んでよ抱きしめてよー』
冷蔵庫から牛乳を取り出そうとしているぼくの傍らに、愛美ちゃんが桃色の髪をふわりとなびかせていつものように擦り寄ってくる。代わりにこの頃は、悲絵ちゃんの姿はあまり見ることがなくなっていた。
彼女は感覚ちゃんの中でもとりわけ可愛くて魅力的で、それでいてぼくをやきもきさせるほど気分屋だった。今日はなんだかとても機嫌が良いみたいで、まるで子猫のようだ。
『ご主人様、だーいすきっ』
「僕も大好きだよ。……でも」
ぼくは、申し訳ないと思いつつも彼女を手で制する。
「また後でね。これから彼女とデートだから」
『えー、いつもそんなこと言って。なんで前みたいに構ってくれないの?』
「時間がないんだ、ごめんよ」
そう言うと、彼女はぷくっと頬を膨らませる。その仕種がとても可愛らしくて思わず抱きしめそうになったけれど、待ち合わせの時間に遅れるわけにはいかない。
「帰ったら遊んであげるから」
『ホント? 約束だよ、ご主人様!』
そう言って彼女はふわりと消える。基本的に彼女たちは神出鬼没だ。
ぼくはコップに注いだ牛乳を飲み干し、小さくガッツポーズをする。
「よし」
身支度は整えた。後はもう楽しむだけだ。
鍵を持って家を出ると、電車に遅れないよう小走りで駅へと向かう。
「……え」
その日のデートの終わり、ファミレスで食事をしていると、彼女から唐突な言葉を切り出された。
「だから、別れましょう、わたしたち。もう一緒にいるべきじゃないと思うの」
なんでそんなことを言い出すのか分からなかった。
ぼくは彼女のことがとても好きで、彼女も同じだと思っていたのに。想いが通じ合っていると思えたこともあったのに。
確かに、最近のデートではあまり会話が弾まなかった。
でも、それだけの理由で別れを切り出すものなのか?
「理由を――理由を教えてよ」
「理由?」
ぼくがそう言うと、彼女は冷めた瞳でぼくを見る。
「……わたしはあなたのことを、感性が豊かで尊敬できる人だと思ってた」
彼女はお冷やに手をつけながら、淡々と続けた。
もはや、ぼくの方を見ようともしていない。
「でも、違ったの。あなたは確かに感性が豊かだけれど、現実的な人じゃなかった。見えもしないものばかり大切にして、わたしを愛してるってことを形では示してくれなかった」
だから、嫌になったの。彼女はそう締めくくる。
耳にしているぼくには、それが何故いけないことなのか分からなかった。精神的に豊かに生きることが、どうして非難されなくちゃいけないのだろう?
どうして愛だけじゃ、駄目だというのだろう?
「じゃあね、さよなら」
彼女はそう言って、伝票すら持たずに店を出て行く。
残されたぼくの隣には、どんな感覚ちゃんも寄り添ってはくれなかった。
帰りの駅舎を出ると、不気味なほど月が綺麗だった。
電車を降りる頃には気持ちの整理がついていたはずなのに、悲絵ちゃんすら姿を現してくれなかった。呆然と虚無感を噛みしめながら、ぼくは線路沿いの道を歩く。
「どうして」
訳が分からない。どうして別れなくちゃならなかったんだ。
今やもう、きみはいなくなってしまった。
帰ってきてくれよ、心からそう思う。
帰ってきてくれ――愛美ちゃん。ぼくは君のことが好きだった、好きで好きで仕方がなくて、だから恋愛を大切にしようと思っていたのに。
と、
「……あれ」
自宅へ向かうために踏切を渡りきったところで、見覚えのある感覚ちゃんを見つける。
艶やかな黒髪に、白いワンピースを纏った美しい姿。
その彼女が今、今までに一度も見たことのない微笑みを浮かべ、ぼくの方へ歩み寄ってくる。ずっとずっと憧れていた、彼女が。
「あぁ」
――ぼくは確信する。
今日の別れは、彼女と再び出会うためにあったのだと。
ぼくはその場に立ち尽くしたまま、呆然と言葉を漏らした。
「ずっと会いたかった……会いたかったんだ……」
『あたしもよ』
背後から、カンカンカン、と無機質な音が聞こえる。遮断機がぼくの背中から寸分離れていないところを、ゆっくりと静かに降りてくる。
『好きよ』
「ぼくもだ」
初めての会話。目の奥に熱いものが込み上げてくる。
そして、ぼくらの距離がつかず離れずといったものになったところで、彼女は待ちかねたように駆け出し、ぼくの胸へと飛び込んできた。そのまま勢い余って、ぼくを後ろへ押し倒す形になる。――あはは。思ったより、情熱的なんだ。
「……あぁ、そう言えば君の名前をつけてなかったね」
電車のヘッドライトに視界を真っ白にしながらも、ぼくはずっと求めていた彼女と抱き合える喜びを噛みしめて、遮断機のようにゆっくりと後ろへ倒れていく。あるいは意識がスローになっていたのかもしれない。構わない、この幸せな時間を存分に噛みしめられるのだから。
正面にある彼女の顔を見ると、壮絶な笑みを浮かべていた。ぼくも微笑み返し、その妖艶な瞳に、唇に、顔を近づけていく。吸い込まれていくような魅力に抗うことができず。
……今、決めたよ。君に相応しい綺麗な名前を。
「そうだ、君の名前は――
耳を劈く警笛と轟音が、ぼくの意識を吹き飛ばした。