『特別』扱い◇サイドC
「エイミー、ちょっとおいで」
僕はポケットの中に入れておいた物を取り出しながら、相変わらず子リスのようにクルクルと動いているエイミーに声をかけた。かかりつけ医に頼んでおいた物が、ようやく届いたのだ。
エイミーはバケツと箒をそこに置くと、僕の所に小走りにやってくる。
昼の彼女は明るい色のドレスを身に着けていた。レースや襟飾りなどは付いていないが、夜の黒服よりも、華やかなピンクの方がエイミーには似合っている。
お仕着せ姿でも可愛いが、淡い紅色のシフォンのドレスでも着せればさぞかし似合うだろう。エイミーの栗色の髪と瞳には寒色系よりも暖色系の方がいい筈だ。いつもきつくまとめている髪も肩に下ろして……変にゴテゴテ飾るよりもレースが付いた幅広のリボンがいいな。
とりとめもなくそんなことを考えていた僕の前に立つと、エイミーは大きな目で見上げてきた。
彼女の背丈は僕の顎の下くらいまでしかない。まだ、子ども子どもした体型だから、胸の開いたドレスじゃない方がいい。女性のドレスの醍醐味の一つは豊かな膨らみと美しい谷間を鑑賞させてくれるところだが、エイミーには必要ない。この子には、露出よりもレースが似合う。
そう言えば、この間見たやつはエイミーに似合いそうだななどと先日の舞踏会で相手をしたご令嬢が着ていたドレスのことを思い出しながら、僕は彼女に手の中の物を差し出した。
だがエイミーは両腕を身体の脇におろしたままで、小首をかしげて見つめるだけだ。
「何ですか?」
僕は彼女の小さな手を取り、上に向けさせた手のひらにソレを置く。
「手荒れの薬だよ」
「薬、ですか?」
「そう。今渡しているものはあまり効果がないのだろう? これはいいと、ドクターに聞いてね」
そう、医師に聞いて、遥か東方から取り寄せた代物だ。少々値は張るが、これでエイミーのあかぎれが治るのならば安いものだ。良く効くようであれば、定期的に届くように手配してやろう。
「ちゃんと治しなさい」
「ありがとうございます」
エイミーはいつもと変わらぬ生真面目な顔で、ペコリと頭を下げる。
フォークが落ちても笑い転げるような年頃だというのに、この子は滅多に笑わない。実にもったいない。
「あの?」
「……ありがとうと言う時は、笑顔の方がいいな」
「……笑顔、ですか?」
「そう。女性に笑顔を向けられると、男は数倍やる気が出るから」
僕の言葉にエイミーは半信半疑の顔をしていたが、やがて頷いた。そして、聞き捨てならないことを口にする。
「わかりました。今度、カルロさんにやってみます」
眉一つ動かさずにそう言ったエイミーの顔を、思わずまじまじと見下ろしてしまった。
何故、このタイミングでカルロの名前が出てくる?
屋敷には他にいくらでも男の使用人がいるというのに。
何故、カルロなんだ?
「どうかされましたか?」
なんだか非常に納得のいかない状況が頭に浮かんだ僕に、エイミーは訝しげにそう訊いてくる。
「その……カルロ……って、何故、彼の名前が出てくるんだい?」
カルロ・バンクスはフットマンとしては有能だ。気は利くし、護衛としての腕も立つ。年も二十四で、まあエイミーと釣合の取れる年だし、容姿も悪くない。
エイミーの隣に立たせても――……何だか気分が良くない。
引っかかってしまうのは、きっと、カルロの女癖の悪さの所為だ。彼は女性と見たら声をかけ、そのくせ付き合いを始めても三月ともったことがない。
それでいざこざを起こしたことはないとは言え、大事に想う子には近づけたくない奴だ。
――そんな男に、まさか、エイミーは特別な気持ちを抱いているのだろうか。
せめて、真面目なゲイリー・ロイドなら……
同じフットマンでも、彼ならば。
いや、やはり。
ゲイリーは僕よりも年上だ――まあ、一つだけだが。
「たまたまです」
自分でもよく解からない葛藤に呑み込まれていた僕の耳に、問いに対する彼女のシンプルな答えが届く。
「え?」
思わず眉をひそめた僕に、彼女はもう一度繰り返した。
「たまたまです」
もう一度、そう断言した彼女は真っ直ぐに僕を見つめている。
「たまたま……?」
「はい。パッと思いついたのがカルロさんの名前でした」
エイミーのその表情は、「それが何か?」と問い掛けているようだ。裏も表もありそうにない。
きっと、僕の勘繰り過ぎだ。そうに違いない。心の中で呟いたが、何故かホッとはできない。
だが、仕事中の彼女をいつまでも引き止めておくわけにもいかなかった。
「そう……じゃあ、もういいよ、仕事に戻りなさい。手当はしっかりするんだよ?」
「はい。ありがとうございました」
もう一度ペコンと頭を下げて箒とバケツを置いた場所へと戻っていくエイミーの後姿を、釈然としない気持ちを残したまま見送った。
あのタイミングでエイミーの口からカルロの――特定の個人の名前が出てきたことが、やけに心に引っかかってならない。
「まったく」
ボソリと、呟く。
彼女も、いつまでも十歳のままではないのだ。いずれ恋い慕う相手もできるだろう。
いや、もしかしたら、もういるのかもしれない。もしもそうだとしても、それは自然の流れだ。
それは解かっているのだが。
頭を一振りして気持ちを入れ替えると、書斎へと向かう。その途中、ハウススチュワードのジェシーと行き合った。
「セディ様、いかがされました?」
彼は、僕の顔を見るなりそう訊いてくる。
「何だ、いきなり」
「おや、どこかお悪いのかと思いましたが」
ジェシーは器用に片方だけ眉を持ち上げて、淡々と言った。ハイハイをしていた頃からずっと世話を焼かれてきた者が相手では分が悪い。取り敢えず、目下のところ頭に引っかかっている事柄を口にした。
「最近、カルロはどうなんだ?」
「カルロ、ですか?」
「ああ」
頷いた僕に、ジェシーは特に取り立てて騒ぐことでもないように、言った。
「相も変わらず、ですな。よく女使用人に声をかけては袖にされています。まあ、あれは彼の挨拶のようなものですから」
「彼にとっては挨拶でも、純真な子は真に受けるかもしれないだろう?」
エイミーの名は出さず、ぼやかして問う。が、ジェシーには僕の考えなどお見通しだったようだ。
「エイミーなら大丈夫ですよ。あの子は賢い子ですから」
ズバリと名前を出され、一瞬、何と答えるべきか言葉を失った。
「別に、エイミーが彼に手を出されているとは言っていないだろう」
渋い声でそう言った僕に、ジェシーは澄まして答える。
「さようでございましたか? それは失礼。ですが、エイミーのことをご存じであれば、余計な心配はなさる必要がないかと」
だから別にエイミーのことじゃない。
そう言おうとして――止めた。
「……僕は書斎で仕事をするから。お茶の時間になったら郵便物を取りにきてくれ」
「承知いたしました」
小憎らしくなるほど恭しく、ジェシーは僕に頭を下げた。
*
昼下がり、書斎で各地に散らばる領地からの報告書に目を通していると、控えめにドアがノックされた。
「お仕事中、失礼いたします」
入ってきたのは、お茶が載せられたカートを押すエイミーだ。
「ああ、お茶の時間か。ありがとう、エイミー」
言いながら机の上を片付けてやると、彼女がソーサーとカップを置いていく。ティースタンドに載せられているのは、サンドイッチとスコーンと小振りのケーキ。どれも片手で食べられるようなものだ――と、もう一つ。
「エイミー?」
最後に彼女が取り出したのは、先ほど渡した薬の容器だった。まさか、もう使い果たしたわけではあるまいに。
紅茶のセットとそれが並べられていることが解せなくて、僕はエイミーを見上げた。
と。
「いただけません」
僕の視線に応えて、彼女は短く、それだけ言う。薬とエイミーの顔とで視線を往復させてから、僕は訊いた。
「何故?」
「他の方にはお渡しになっていらっしゃいませんでした」
「まあ、そうだね。君にあげた物だから」
「それは、いけません。不公平です」
「でも、他の者は君ほど手が荒れていないじゃないか」
「それは、皆さんがご自身でなんとかしているからです」
「なら、それはそれでいいだろう」
「よくありません」
……エイミーは、実に頑固だ。僕が彼女の方に押しやった薬を、また、こちらに押し戻してくる。
僕も、少しは意地になっていたかもしれない。
「お気持ちはとても嬉しかったです。ありがとうございました」
そう言って身を翻したエイミーの腕を掴んで、手のひらの中に薬を押し込んだ。そうして彼女のその拳を上から握る。
薬の容器を握っているにも拘らず、エイミーの握りこぶしは僕の手の中にすっぽりと納まった。いや、すっぽりどころか余るほどだ。
小さく、柔らかな手。その柔らかさは、彼女が幼い頃に握った時の感触とは、明らかに違っていた。それに気付いて何故か狼狽に近いほどの戸惑いを覚えたが、手を開くことはできなかった。
エイミーは困ったような眼差しで僕を見つめている。僕は――どんな目をして彼女を見つめているのだろう?
バカなことをしている、と思った。
だが、指先一つ、動かすことができない。
いや、違う。
ほんの少しでも動いたら、あまり相応しくない方向へと進んでしまいそうだ。
例えば。
――例えば、この手を引いて、腕の中へ――
と、不意に響いたノックの音が、凍ったような空気を砕いた。
一瞬にして、我に返る。
今、僕は何を考えたのだろう。
何を、感じていた?
その答えが出る前に扉を開けて入ってきたのはジェシーで、彼は僕たちの様を目にして眉をひそめた。
「何をなさっていらっしゃるのですか?」
怪訝そうというよりは呆れを含んだような彼の声に、僕の手が緩む。と、その隙を逃さずエイミーは手を抜き去った。
そのままジェシーに歩み寄り、その手の中の物を彼に差し出す。
「これを旦那さまにお渡しください」
当然ジェシーはそれを受け取って、部屋を出て行くエイミーの背中を僕と共に見送った。
振り返ったジェシーは無言でエイミーから渡された物を僕の前に置く。頬杖を突いた僕は、ため息混じりにそれを見つめた。
まったく。あの子のあの生真面目さは、彼女の父親そっくりだ。
もう一度僕の口から洩れたため息に、ジェシーはピクリと眉を上げた。