想いの名前とその行方◇サイドC
「エイミーは僕に恋しているよね」
書斎で、書き物机に頬杖をつきながらそう言った僕に返ってきたのは、冷ややかなジェシーの眼差しだった。
彼は束の間その目を僕に留めたが、すぐに中断していた茶の準備に戻る。
今の彼の視線は、どういう意味だろう。
何をバカなことを、か?
自惚れているんじゃない、か?
まあ、そう言われても仕方がない。
だが、三日前に、僕は確信したのだ。
――エイミーは、僕に対して恋心、あるいはそれに限りなく近い想いを抱いている、と。
セレスティアの屋敷であの子と向き合い、二ヶ月ぶりにその目を覗き込んだ時、僕は確かにそれを見つけた。
大きく見開かれた彼女の目は、いつでも、言葉よりも雄弁だ。
僕の想いを聴かされてエイミーは言葉を失っていたが、その目の中には僕を慕う気持ちが溢れんばかりだった――同じくらいの驚きと戸惑いも。
しかし、驚き、戸惑いはしていても、そこに嫌悪はなかった。
そう、ほんの一欠片さえも。
別れ際、エイミーは離れようとする僕をその眼差しで引き止め、同時に、怯えて逃げようともしていた。
けれど、それだって、この僕を忌避したわけではない。
怯えたのは、僕に対してではなかった。
きっと、彼女自身の中にある、『想い』に不安を抱いたのだろう。
幼いあの子にはまだ理解できていない、『想い』に。
僕に対する慕わしさが兄か何かに対するようなものであるならば、逃げ出したくなどならない筈だ。そんな穏やかで温かなだけのものではないから、怯えているのだ――それが、手綱を取れない暴れ馬のようなものだから。
そんな激しい思慕に名前を付けるとしたら、僕にはただ一つしか思い浮かばない。
君は僕に恋しているんだよ、と教えてしまえば、エイミーは僕のもとに戻ってくるのだろうか。
それとも、一層怯えて更に遠くへ逃げて行ってしまうのだろうか。
――後者の可能性の方が高いような気がして、つい、ため息が漏れる。
そんな僕の前にティーカップを置いて、ジェシーは真っ直ぐに立った。そうして、無言で見下ろしてくる。
相変わらず、何を考えているのか読ませない男だ。
僕は背筋を伸ばして、有能かつ手厳しいハウススチュワードから繰り出されるであろう辛辣な言葉に備える。
果たしてジェシーの口から放たれたのは――
「何を今更。ようやくお解りになりましたか」
――だった。
僕はその台詞に眉をひそめる。
「ようやくって……ジェシーは気付いていたのか?」
「もちろん」
平然と頷くジェシー。
「いつから?」
「そうですね。かれこれ八年は経つかと」
「――八年?」
流石に、笑ってしまう。
それでは、エイミーをここに連れて来てそう間もない頃の事になるじゃないか。
「君の勘違いだよ。八年前と言ったら、あの子はまだ十かそこらだ」
そんな馬鹿なとかぶりを振った僕に、しかし、ジェシーは肩をすくめてよこした。
「貴方のことを慕っているのでないならば、何故、あれほどひたむきになれるというのです? あの子には、最初から貴方以外の者は見えていないも同然でしたよ」
「それは――慕っていると言っても刷り込みのようなものだろう。父親を喪ってすぐに現れた僕に、雛鳥みたいに懐いただけだ。その頃のはまだ恋愛感情からじゃないさ」
「どうしてそう言い切れるのです?」
「どうしてって、十歳なんて子どもだろう?」
笑った僕に返ってきたのは、至極真面目なジェシーの眼差しだ。僕の笑いはその揺るぎのない目に溶かされる。
「では、セディ様。彼女の中にはずっと同じ想いが存在していたのだとしても、十六になる前は恋ではなく、十六になった途端に恋になる――そうおっしゃるのでしょうか? 人の想いは、そのように明確な線引きができるものだと?」
返事に、詰まった。
実際のところ、僕の中にある気持ちも、最初は保護者めいたものだった。それがいつからが恋愛感情になったのか、僕自身判っていないのだ。
押し黙った僕に、ジェシーはこれみよがしなため息を漏らす。
ほとほと呆れたと言わんばかりの彼のその態度に、ふと、僕の頭の中にある疑問がよぎった。
彼は、どの程度今の事態を理解していているのだろう、と。
「なあ、ジェシー」
「なんでしょうか?」
「その……この間セレスティアのパーティーでエイミーと再会した時、彼女が妙な事を言っていたんだ」
「妙な事、ですか?」
「ああ。あの子、アシュレイ・バートンから定期的に僕の様子を知らせる手紙をもらっていたと言うんだ。だが、僕は国に戻ってから彼とそれほど顔を合わせていなかっただろう?」
何か知らないか? と目顔で問いかけると、ジェシーは当然とばかりに頷いた。
「私が事細かく伝えておりましたから」
「そうか」
「はい」
更に説明があるかと待ってみたが、ジェシーは胸中を読ませない眼差しを僕に注いだまま口をつぐんでいる。
僕は小さく咳払いをして、続けた。
「……君は、もしかして、最初からエイミーがどこにいるのか、知っていたりしたのかい?」
彼も、少しはごまかすのかと思った。
だが。
「はい」
即座に首肯が返ってきて、僕は思わずポカンと開けてしまった口を何とか閉じる。
「じゃあ、バートンとはいつからつながっていたのかな……?」
「あの子が屋敷を出た時、すぐに連絡しましたよ。エイミーが、おそらく彼か――あるいはラザフォード嬢を頼るだろうと思いましたので。お二人にカルロとゲイリーを走らせました」
「カルロとゲイリー!? 彼らも知っていたのか!?」
そう言われれば、二人とも、エイミーがいなくなってもやけに平然としていた。
いや、待て。よくよく思い返してみると、屋敷中の者がそうだった気がする。
エイミーが消えたことを知らせた直後は蜂の巣を突いたような騒ぎになったが、数時間もしたら驚くほどあっさりと落ち着いた。彼女が見つからないまま一週間、二週間、ひと月と経っていっても、屋敷の中は全くの平常運転だった。
あの頃は焦っているのは僕ばかりのようで腹立たしいことこの上なかったが、安全な居場所を知っているとなれば、当然だ。
そこで、はたと思い至る。
「――まさか、セレスティアも初めからグルだったのか……?」
返ってきたのは、何よりも雄弁な沈黙。
僕はティーカップの中身を一気に呷り、音を立てて背もたれに身を投げ出した。
考えてみれば、元々、アシュレイ・バートンが僕にワインの話を持ってきたのはセレスティア経由のことだった。彼らが一緒にいる姿を見たのはこの間の舞踏会くらいだったが、きっと、かなり親しいのだろう。
僕がエイミーを探してセレスティアの所に行った時、彼女はもうエイミーの家出のことを知っていたのだろうか。
ああ、もちろん、知っていたに違いない。
家出をしたことどころか、あの時あの子がどこにいるのかも知っていた筈だ。
思わず深々とため息を吐き、そして、同じ口から笑いが漏れる。
まったく。
「バートンはずいぶんと足しげく通っていたようだが、実際に仕事の話をしていたのはどの程度だったんだ?」
「二度ほどです」
ということは、月に一度がせいぜいか。
週に一度は彼の姿を見かけていた気がするが、考えてみたら商いの話をするのにそんなに頻繁にここに来る必要はなかった筈だ。そこに違和感を覚えなかったというのも、僕の頭がおかしくなっていた証拠なのだろう。
空になったカップに澄ました顔で茶を注いでいるジェシーを、僕は横目で窺った。
この二ヶ月の間、エイミーが危険な時など、ほんの一瞬たりともなかったのだ。きっと、アシュレイ・バートンの所へ着くまでも、誰かが見守っていたのだろう。
僕の取り乱しようは度外れていただろうに、よくもまあ、皆あれほど素知らぬふりができたものだ。
怒りを通り越して呆れてしまう。
もっとも、それくらい、エイミーのことでは全員思うところがあったのだろう。
しかし、こうやって洗いざらい打ち明けてくれたということは――
「取り敢えず、ジェシーのお許しはもらえたということなのかい?」
冗談混じりでそう問いかけた僕には、返事の代わりに茶が差し出された。
それをまた一息に飲み干して立ち上がる。
「まあ、いずれにせよ、あとはエイミー次第だよな」
「お出掛けですか?」
判っているだろうに訊いてくるのは牽制か。
「ああ。エイミーに逢いに行ってくるよ」
「では、馬車を用意させます」
小さく顎を引くようにしてジェシーはそう言うと、一礼して書斎を出て行った。
残された僕はゆっくりと玄関に向かう。
エイミーに逢うのは、三日ぶりだ。
セレスティアのパーティーで再会し、この胸にあるものを打ち明けてからは、まだ一度も彼女のもとを訪れていなかった。
僕の告白について良く考えて欲しいと言ったのは、僕自身だ。
言ったからにはエイミーにはその為の時間を与えなければならないと思ったし、顔を合わせてしまえば要らぬ圧力をかけてしまうだろうと思ったから、三時間ごとに逢いに行きたくなるのを堪えて耐え忍んだ。
三日という時間がエイミーにとって充分かどうかは、判らない。
だが、僕にとってはもう限界を超えている。
返事は迫らない。
触れもしない。
ただ、顔を見に行くだけだ。
――それだけなら、エイミーにとって負担にはならない筈。
そう自分自身を納得させるうちに馬車の待つ玄関に辿り着くと、そこにはカルロが待っていた。
「旦那様、俺かゲイリーがご一緒しましょうか?」
「いや、いい」
答えながら睨み付けると、カルロはにやりと笑った。
「お聞きになりましたか」
「ああ」
「いやもう、俺は話しちまいたくてうずうずしてたんですけどね。ジェシーから絶対にばらすなと厳命されまして」
「口の軽いお前がよく二ヶ月ももったものだ」
嫌味を言ってもへらへらとかわしてどこ吹く風、だ。
「まあ、それが旦那様とエイミーの為になるってジェシーもゲイリーも言うもんで」
……ジェシーとゲイリーは純粋にそう思っていただろうが、このカルロはそれだけではあるまい。今目の前にある顔を見れば、判る。
「行ってくる」
ため息混じりにそう残し、片手を振って馬車に乗り込んだ。
道は比較的空いていて、馬の足は軽快だった。
手間取ることなくセレスティアの屋敷に着くと、まるで待たれていたかのようにさっさと居間に通される。こんなに順調だと、むしろ奇妙な感じがした。セレスティアのことだから、また色々と難癖をつけてくるだろうと思っていたのだが。
しばらくして、窓から庭を眺めていた僕の耳に靴音が届けられる。
「エイミー……」
と、期待に満ち満ちて振り返った僕は、期待外れの姿を目にすることになった。
「――セレスティア」
落胆の色を隠さない声で名前を呼んだ僕に、彼女は咲き誇る大輪の花さながらの微笑みを浮かべる。
「ごきげんよう、セドリック様。わたくしもお会いできて嬉しいですわ」
声と言葉は裏腹で、目付きは更に冷ややかだ。ここはさっさと目的を果たすに限る。
「セレスティア、相変わらず綺麗だね。ところでエイミーはいるかな?」
「あらごめんなさい。少し前に出かけてしまったの。来られると伺っていたら引き留めておきましたのに」
これは、前触れなく押しかける方が悪いと言いたいのだろう。
「悪かったね。どこに行ったか教えてもらえれば、そちらに出向くよ」
「エイミーはお父様とお母様のところでしてよ」
つまり、墓地か。
「そうか、ありがとう」
愛想良く礼を言い、そそくさとセレスティアの横を通り抜けようとした。が、すれ違いかけた僕の前に彼女の扇が差し込まれる。
「少しお待ちになって」
僕の胸に添えられた扇は力が込められているわけではない。だが、それは、僕の足を止めるのに充分な存在感を持っていた。
微かに頭を傾けて、セレスティアはその鮮やかな翠の目でねめつけてくる。
「お任せしても、よろしいのですよね?」
言葉の少ないその問いかけに、僕は深く頷く。
「ああ、もちろん」
だが、セレスティアの目は疑わし気に細められた。
「そのお言葉を、本当に信じてよいのかしら。よいですこと? わたくしたちがこんなにあれやこれや手を尽くしたのは、セドリック様の為ではございませんのよ? あくまでも、エイミーの、為でしてよ?」
『わたくしたち』の中には、いったいどれだけの人数が含まれていることやら。
多分、十は下らないだろう。
多分、僕とエイミーのことを知っている者の、殆どだ。
その彼らは皆、僕たちのことを――いや、違う。『僕たち』ではない。
僕のことを、危ぶんでいたのだ。
それほど、僕は壊れていた。
「解かっている」
胸に突き付けられた扇をそっと押しやりながら、僕は答えた。その一言の中に、いくつもの意味を込めて。
セレスティアはきれいな弧を描く眉を器用に片方だけ持ち上げて、首を傾げる。
本当に? と問うように。
だが、たとえ僕の答えに疑いを抱いていたとしても、今度は、彼女も僕が立ち去る邪魔をしようとはしなかった。もっとも、僕の背中に穴を開けそうな視線は、玄関を抜けるまでずっと感じていたけれど。
セレスティアの屋敷を出て墓地へと向かう馬車の中で、僕は彼女が言ったことについて考えた。
……『エイミーの為』。
僕だって、いつも『エイミーの為』を思っている。
エイミーを想って、エイミーを幸せにしたいと思っている。
だが、僕がエイミーを求めることは、必ずしも彼女の幸せにはつながらない。
何故なら、僕たちには、様々な、そしてたくさんの、問題が存在しているから。
それは解かっているが、それが解かっているとしても、それでもどうしても望んでしまう。
――彼女とともに生きていく未来を。
エイミーを幸せにしたいと思う。
しかし、それは僕でなくてもいい。そうできる者は、僕以外にも大勢いるのだ。
僕でなければならない理由は、一つもない。むしろ僕でない方がいいのかもしれない。その方が、エイミーは彼女に似合いの『ごく普通の』幸せを手に入れることができるに違いない。
……自信が、揺らぐ。
彼女に選択肢を与えてやるべきだ。そうしなくてはいけないということは良く判っている。
だが、僕はそうしたくない。
何故なら、僕は、エイミーを幸せにしたいと思うのと同じくらい強く、彼女と『一緒に』、僕自身も幸せになりたいと思ってしまうから。
この、狭量で利己的で幼稚な欲求を彼女に押し付けてはいけないと思っても、もう、どう足掻いても、他の道を選ぶことができないのだ。
そして、もしもエイミーが僕と共に生きていく道を選ばなくても、それを受け入れられるか自信がない。
彼女の望みを全て尊重すると、言えたらいいのだが。
エイミーは自分の中にある想いを、どう結論付けるのだろう。
その結論は、彼女をどう導くのだろう。
早く答えを知りたいが、知るのが怖くもある。
この二ヶ月というもの、僕は大嵐の海に浮かぶ小さな木片さながらだ。
両手で顔をぬぐって、大きく息をつく。
やがて到着した墓地は、波立つ僕の心中とは裏腹な、静謐な気配に満ちていた。
一歩一歩を踏み締めるようにその中を進む。
その一歩ごとに、自戒の念を込めながら。
ずっと足元を見据えて歩いてきたが、そろそろクレイグの墓に着く頃だと気付いて顔を上げた。と、厭な光景が目に飛び込んでくる。
エイミーと、ブラッド・デッカー。
エイミーは、デッカーの腕の中にいる。
大きな身体が小さな背中をすっぽりと包み込んでいて、その全てから、彼があの子を慈しむ想いがひしひしと伝わってくる。
途端、胃が千の針で突かれているかのように痛んだ。
痛くて、そして、苦しい。
それ以上足を進めることができず、思わずその場に立ちすくむ。
指先一本動かすことも、声を上げることもできないまま、ただ、親密な空気を漂わせている二人を見つめることしかできない。
どれだけ、そうしていたことだろう。
まるで僕の視線に気付いたかのように、エイミーの髪に頬を埋めていたデッカーの顔が上がった。束の間彼の視線が真っ直ぐに僕を射抜き、次いでエイミーに落ちる。
デッカーはエイミーを抱き締めていた腕を解くと、その手を彼女の両肩にのせて華奢な身体をくるりと回した。
こちらに向き直ったエイミーは、僕の姿に目を丸くする。その背後で、静かにデッカーは一歩下がり、そして踵を返して去っていく。
そうする前に、鋭い眼差しで僕を一瞥して。
そこに含まれるものは、ジェシーやセレスティアの中にあったものと同じだった。
僕は遠ざかっていくデッカーの代わりにエイミーに近付く。
彼女の目はほんの一瞬たりとも僕から逸らされず、ある一点を越えたら即座に飛び上がって逃げ出していってしまいそうだった。
「……旦那さま」
エイミーまであと三歩、というところで発せられた、少し、途方に暮れたような声。
「やあ、エイミー」
努めてさり気なさを装ってそう呼び掛けてはみたけれど、彼女との距離をどれほどまでなら縮めることが許されるのか、今の僕には判らなかった。