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エイミーと旦那さま  作者: トウリン
『伯爵とメイドの攻防』
56/60

触れたくて、触れられなくて◇サイドC

「旦那さま」


 彼女の声でそう呼ばれた時、本気で一瞬気が遠くなった。


 震えを帯びた、ためらいがちな優しい声。

 あまりに強く焦がれていたその声を耳にして、思わず目を閉じる。束の間そうしてまた開けた時、僕から遠のこうとしている彼女の手が視界をよぎってとっさにそれを捉まえてしまった。


 掴んだのは、二の腕だ。手首の、少し上。

 僕の片手でぐるりと包みきれてしまうそれは、細いけれども柔らかく、そして温かい。危うく力を入れ過ぎそうになって、慌てて加減する。

 その拍子に彼女が身じろぎをして、仄かな甘い香りが僕の鼻先をかすめた。


 エイミーだ。

 五感の全てで、これはエイミーなのだと実感する。


 見つけたら、彼女には訊きたい事、言いたい事がたくさんあった。


 何故、黙って出て行ったのかとか。

 そんなに僕と結婚するのが嫌だったのかとか。

 君のことが心配で死にそうだったとか。

 君が無事で良かったとか。

 何よりも重要なこと――君のことが愛おしくて愛おしくてどうしようもないんだ、とか。


 喉元まで言葉がこみ上げてきているが、エイミーの栗色の目に見つめられていたら一言も吐き出せなくなる。

 と、その時背中に何かが当たって、小さな声で、「失礼」とかなんとか聞こえた。


 僕は周囲に目を走らせた。

 ひとまず、人のいないところへ行こう。

 ここでは、雑音が多すぎる。

 それにエイミーの背が少し高くなっているから、多分踵のある靴を履かされているのだろう。だったら、きっと足が痛くなっているはずだ。どこかで座らせてやらないと。


 僕は彼女の腕をとったまま、無言で歩き出した。

 何の説明もないことにエイミーが戸惑っているのは判ったが、下手に許可を取ろうとしたら、拒まれそうで。


 静かで座ることができてこういう時に誰も来なさそうな部屋と言ったら――図書室あたりか。パーティーの最中に本を読みたくなる者はおるまい。

 そうと決めたら真っ直ぐに図書室に向かう。


 先日家探しをした時にどこにどの部屋があるのかは覚えていた。

 辿り着いたらエイミーを先に入れ、彼女を視界に留めたまま、後ろ手に扉を閉める。ほんの僅かな間でも、彼女から目を離したくなかった。

 部屋の中は明かりが灯されていて、エイミーの姿が良く見える。


 ドレスは多分セレスティアが選んだのだろう。

 可憐で清楚で、庭の片隅で風にそよぐ一輪の花のようだ。悔しいが、よく似合っている。

 僕に向けられているその表情もはっきりと見て取れたが――何故、彼女はあんなに浮かない顔をしているんだろう。


 もしかして、僕に会ってしまったからなのか……?

 僕の元から逃げ出したのは、本気で、心底から求婚されたことに耐えられなかったから……?

 硬く握り合わせた両手は、僕から身を守ろうとしているからなのだろうか。

 立ちすくんだまま身じろぎ一つしないのは、僕がほんの少しでも動いたらすぐさま逃げ出そうと思っているからなのだろうか。


 ――もしもそうなら、これから何をどう話したらいいというのだろう。


 答えを求めてエイミーをひたすら凝視してみても、何も見つからない。

 彷徨わせた視線が彼女の顔に辿り着き、眼と眼が合う。

 途端、エイミーが小さく息を呑んだのが感じられた。


 ……二人きりになったのは、選択ミスだったかもしれない。

 この静寂の中では、小鳩の羽ばたきのような彼女の鼓動まで聴こえてしまいそうだ。


 やはり、広間に戻ろうか。

 そう思って、僕が動こうとした時だった。


「あの……」

 小さな、エイミーの声。

 今日、二度目の声だ。

 僕はそのまま扉から身体を起こし、エイミーの話を聴こうと彼女の方へ向かう。


 が。


 三歩と進まないうちに、エイミーが後ずさった。

 まるで僕から逃げたいかのように。


 僕が、エイミーを怯えさせている?

 まさか、そんな、何故。

 ……だが、もしもそうなら、僕はどうしたらいいんだ?


 取り敢えず、普通に――普通に、しよう。

 自然に、さりげなく、距離を詰めるには……


「座らないかい?」


 これだ。


 僕には名案だと思われたが、唐突すぎたのか、エイミーは眉をひそめて首をかしげてきた。

「え?」

「足が痛くない? 踵のある靴は慣れていないだろう?」

 半ば取り繕う為に発した僕の台詞に釣られたように、彼女は自分の足元を見下ろした。

 その隙に距離を詰め、エイミーが我に返る前に一番近くにあった安楽椅子へと誘った。

 一旦腰を下ろしたエイミーは、彼女の前に膝をついた僕にハッとしたように腰を浮かす。

「旦那さまがお掛けに――」

 立ち上がろうとしたエイミーの両手を捕まえ、椅子の座面に押さえ付けた。二ヶ月ぶりに握ったその手はやっぱり小さくて、僕の手の中にすっぽりと収まってしまう。


 彼女は手さえも愛らしい。

 ……二人とも立っていたら、抱き締めてしまいそうだ。


「いいから、座っておいで」

 促しよりも懇願の方が強い僕のセリフに、エイミーはその目に一瞬迷いの色を浮かべ、そしてまた腰を落とした。

 すぐさま誘惑の元である温もりから手を放し、安全なひじ掛けへと移す。僕としてはもちろんいつまででも握っていたかったが、そうしているのは危険すぎた。


 エイミーは解放された手を膝の上に置き、まるで僕と目を合わせたくないかのようにそこに視線を固定してしまう。


 僕は、待った。

 彼女が自分から僕を見てくれるのを。

 注ぎ続けている僕の視線を感じるのか、エイミーは落ち着かなさそうに手をもじもじと動かしている。


 僕の頭の方が少し低い位置にあるから、覗き込めば彼女と目を合わせることができる。


 だが、しなかった。


 ひたすら無言でうつむくエイミーのつむじを見つめ続けていると、どれくらい経ったころだろうか、ついに彼女は根負けした。

 手が止まり、ほんの一瞬、キュッと柔らかな唇が引き結ばれ、そして顔が上がる。

 どことなく困ったような表情で、普段は滑らかな眉間にかすかに寄っている皺が、可愛らしい。


 僕が見返しても、エイミーは目を逸らさない。


 彼女は、いつもそうだ。

 いつも、僕の方がどうしたらいいか判らなくなってしまうほど真っ直ぐな眼差しを向けくる。

 昔、こんなふうに男を見つめるものではないと、教えた筈だったのに。

 しかも、密室で二人きりでいる時には、特に危険だ。

 ああ、本当に変わらないな、この子は。

 思わず、笑みがこぼれてしまう。


 僕の笑いにエイミーは微かに息を呑み、また顔を伏せた。

 だが、彼女がうつむく直前に見せた表情を、その目の中に過ぎったものを、僕は見逃さなかった。


 エイミーは、やっぱり今も僕を慕ってくれている。


 それは確かだ。

 そうでなければ、あんなふうにハッと息を呑みはしないだろうし、あんなふうに安堵と喜びの色をその目に浮かべはしない。

 エイミーが僕に対して抱いているのが好意的なものであることは間違いない。

 それが恋愛感情かと言われたら答えに詰まるが、少なくとも、『好き』か『嫌い』かと問うたら確実に『好き』の方には入っている筈だ。


 きっと。


 僕はそう確信しながらまたエイミーに微笑みかける。

「君が元気そうでホッとしたよ」

 色々な意味を込めてそう囁くと、エイミーが突かれたように顔を上げた。

 何故か驚いているように見開いた目で、僕の心を貫かんばかりに覗き込んでくる。


 これは、まずい。

 一瞬でも気を抜けば、彼女をこの胸の中に引き寄せてしまいそうだった。


 何とか、気を逸らさないと。


「週に一度の君の手紙は読んでいたけれど、やっぱりこうやって無事な姿を見ると、安心する」

 これは無難な話題だ。

 ひとまず話を続けながら、態勢を整えよう。

「ねえ、僕がものすごく心配したってことは、判っているんだろうね?」

 身体は固まらせたままでエイミーの目が頷いた。


 一応、そこは判ってくれていたんだ?


「だったら、戻ってきてくれたら良かったのに。僕の心配なんてどうでも良かった?」

 少々子どもじみた言い方になってしまったのは、赦してもらおう。

 本当に、本当に心の底から、心配だったのだから。

 毎週届く手紙で、少なくとも手紙を書けて投函できる状況にあるということは判っていたが、やっぱりこの目で無事を確かめたかった。


 僕の前でエイミーは後ろめたそうに目を伏せる。

「ですが、アシュレイさんからのお手紙では、段々と落ち着いてきていらっしゃるようでしたので、わたしは距離を置いていた方が良いのではないかと思って……」

「アシュレイ? バートンの、手紙?」


 彼が、手紙を?


 アシュレイ・バートンは確かに仕事仲間で僕が国を出る前から定期的に関わりは持っていたが、特にこの二ヶ月は、僕はエイミーのことで手一杯だったから、彼の相手はジェシーに任せきりだった。帰国してから彼と会ったことがあったかどうかすら覚えていない。


 もしかして、ジェシー経由の情報か?

 だったら、いったいどんなことが書かれていたことやら。

 正直言って、ジェシーにはかなり情けないところも見せていた。

 あまり深くは突っ込みたくない。

 取り敢えずは、エイミーが僕のことをどうでもいいと思っていたわけではないことに重きを置いておこう。

 そう、手紙をもらって安心できていた程度とは言え、全く気にしていなかったわけではないんだ。


「気にはしてくれていたんだね」

 と、エイミーにパチリと瞬きをされて、僕は小さく咳払いをした。


 流石に、大人げないよな。

 話の流れを変えよう。


「まあ、とにかく」

 そう、何を置いても言っておかなければならないことは――

「――僕が悪かった」


「……え?」

 エイミーがきょとんと目を丸くする。


「僕が強引すぎた。確かに、君が僕から離れたのは正解だったよ。頭を冷やして考える時間ができたから」

 これは、本心からの言葉だ。

 エイミーが去って苦しかったし少しは彼女のことを恨めしくも思ったけれど、実際、あれは必要なことだった。

 エイミーの方が、よほど物事が見えていたのだ。

 最終的にはこの手の中に戻ってきて欲しいけれど、そうなるまでに、確かに距離を置く必要があった。

 僕の為にも――きっと、彼女の為にも。


 だから。


「もう、無理に戻って来いとは言わないよ」

 刹那、エイミーが身を硬くした。


 しまった。

 これでは言葉足らずだ。


「違う、違うよ。それは絶対に違う。帰ってくるなと言っているんじゃない」

 急いでそう付け加え、僕はエイミーの手を取った。

 そうして、右の手の甲、左の手の甲と、順にキスを落とす。

 貴重な宝物に対して、するように。

 僕がそう思っていることが、その手に伝わるように。

 だが、それだけではとても足りない気がして、僕は彼女の手をひっくり返して、掌の真ん中にも同じことを繰り返した。


 小さな手は僕の手の中で微かに震えている。

 それはまるで飛び立とうとしている儚い蝶のようで、僕は潰してしまわないように、そっと、けれども逃してしまわないようにしっかりと、捕まえた。

 滑らかな爪を唇に押し当てながら、続ける。

「僕は今すぐにでも君に帰ってきて欲しい。でも、強制はしたくないんだ。それこそ、義理や義務では帰ってきて欲しくない。君が帰ってもいいと思えたら、その時に、帰ってきて欲しいんだ」


 エイミーからは、まだ迷いが伝わってくる。

 いや、迷いというより、不信、なのか……?


 ああ、この胸を切り裂いて、僕の考えていることを形にして見せることができたらいいのに。


 僕はエイミーの手を引きながら身を乗り出した。

 強く激しい鼓動が轟いている僕の胸に、その手のひらを触れさせる。

 ためらいがちな抵抗を封じるように、彼女の手の上に僕の手を重ねて押し付けた。

 それでも、エイミーは、逃げようとしている。


「エイミー」

 名前を呼ぶと、彼女自身の手に注がれていた視線が僕の目へと飛んでくる。

 そこにあるのは、微かな怯えのようにも見えて。


「エイミー、僕に触れているのは、嫌?」

 不安とともにそう問いかけた僕に返された眼差しにあるものは。


 そうか。

 そうなのだ。


 しみじみと、僕は思った。

 本当に、この子はまだまだ幼いのだ、と。


 エイミーは僕の中にあるものはもちろん、彼女自身の中にあるものさえも、多分、理解できていない。


「ねえ、エイミー。今から、すごく大事なことを訊きたいんだ」

「――何でしょうか?」

 僕は、深呼吸を一つする。

「あのね、僕が君のことをどう想っているか、君は解かっている?」


 鳩が豆鉄砲を食らった顔。


「恩人の娘で、使用人で、保護しなければと思っていらっしゃいます」


「――――…………それだけ?」

「他に、ですか?」

 エイミーは眉をひそめて少し考え、そして言う。

「とても、心配をお掛けしました。申し訳ありません」

「そうじゃなくて、いや、心配はすごくしたんだけど、そうじゃなくて……」


 判っていなかったのは、彼女だけじゃなくて、僕もだ。

 ほとほと、呆れてしまう。


 僕は、エイミーの手に重ねた手に力を込めた。

 この手を失わずにいられるかどうかは、これから僕が言うことに彼女がどう反応するかにかかっている。


 小さく咳払いをして、僕は口を開いた。


「エイミー。僕はこれからものすごく大事なことを言うから、しっかりと聴いて欲しい」

 コクリと頷く、エイミー。

「あのね、エイミー」

「はい」


「僕は君のことを女の子――いや、女性として、好きなんだよ」


 途端、見開かれた目。

 もう、苦笑するしかない。


「まさか、とは思っていたけど、本当にそうだったんだな」

 自嘲と共に呟いて、僕はエイミーの手を握り締めた。

「僕は、ずっと君が僕の気持ちを知っていると思っていたんだ。だけどそうではなかったんだね」


 エイミーの目が不安で揺れる。

 だが、何故、エイミーは不安に思うのだろう。

 ――それはきっと、僕がこれから言おうとしていることに、気付いているからだ。


 ならば、何故、それが彼女を不安にさせるのだろう。

 ――それはきっと、聴いてしまえば何かが大きく変わってしまうことに、気付いているからだ。

 はっきりと頭で理解はしていなくても、多分、エイミーも胸の奥では感じている。


「旦那さま、あの――」

 僕を阻止しようとしたエイミーを遮って、僕は続ける。

 彼女の目を見つめながら。


「僕は君を愛している。戦に行って、君いわく『おかしく』なる前から。ああ、先に言っておくけど、君のお父さんのことは関係ないからね。確かに彼は恩人だけど、それと君への想いは全く別の話だよ。僕は君が欲しいんだ。一生、僕だけのものにしておきたい。君が他の誰かのものになるなんて絶対に我慢できない」


 ここまで言っても解からない、ということは有り得ないだろう。

 つまり、僕ももう後戻りはできないということだ。

 もう、前に進むしかない。

 その結果、彼女を手に入れることができるのか、それとも彼女に逃げられてしまうのか。


 ふと気付くと握っていたエイミーの指先が白くなっていた。

 償うようにそこにキスをする。


「僕は、ずっと君に触れたかった。片時も放していたくない。恩人の大事な娘に対してそんな事を考えるのは、むしろ間違いだろう? これは純粋に僕の我儘、それだけなんだ」

 今だって、本当は手だけで我慢などしていたくない。

 指先だけでなく、唇にも、目蓋にも、エイミーのあらゆる所にキスを与えたい。

 だが、今はまだ駄目だ。

 まだ早い。


 自分の行動を制御できているうちに、僕は彼女の手を放して立ち上がった。

 大きく三歩下がった僕を、エイミーの目が追いかけてくる。

 その目が、どんな色を帯びているのか、彼女は気付いているのだろうか。

 その眼差しに惹き寄せられるように、僕は一歩踏み出しかけた。が、途端にエイミーの肩がビクリと跳ねて、僕の足はその場に釘付けになった。


 彼女の中にある想い、そして、矛盾。

 今の僕には、それがはっきりと見える。


 距離を置き、時間を空けたことで、それが明確になってきたのだろう。

 いや、あるいは、以前から鼻先にぶら下がっていたものが、ようやく僕にも見えるようになっただけなのかもしれない。


「……僕が言ったことを、良く考えてみて欲しいんだ。それと、行方不明にはならないで欲しい。さっきも言ったように、無理矢理には連れ戻さないから」

 多分、僕にも彼女にも、まだもう少し、距離と時間が必要なのだ。


 見つめる僕に、エイミーが頷く。

「わかりました」

「約束だよ」

 かろうじて浮かべることができた微笑みとともにそう残して、僕は彼女に目を置いたまま、図書室を出る。


 静かに閉めた扉に背を預け、ズルズルと僕はその場に座り込んだ。

 どうにも脚に力が入らず、歩き出すことはおろか、立っていることさえ難しかった。

「はは」

 小さな笑いが自然と漏れる。


 僕は、本当に何も見えていなかった。


 本当に。


 これでは、屋敷の者たちがこぞって心配していたのも当然だ。セレスティアに罵られたのも。


 扉に持たれたまま大きく息をつく。


 それで、今まで胸の中に溜め込んできた何もかもも、吐き出した。


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