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エイミーと旦那さま  作者: トウリン
『伯爵とメイドの攻防』
54/60

再会◇サイドC

 エイミーの可憐な姿を見ることも、控えめな声を聴くことも、柔らかな温もりに触れることもできなくなって、そろそろ二ヶ月になる。

 やめておけばいいのについつい日を数えてしまう自分にため息をつきつつ、書斎の窓から、嫌になるほど青い、夏から秋へと移りつつある空を眺めやった。


「……二ヶ月、か」


 呟きとともに、また、ため息。


 最初の三週間は彼女がいなくなったことに混乱し、僕の目が届かないところでどんな目に遭っていることかと恐怖した。

 次の三週間は定期的に連絡を寄越すもののさっぱり帰ってこようとはしないことに落胆し、どんなに手を尽くしても彼女の影すら見いだせないことに憔悴した。


 最近の僕の胸中は、凪いだ海のようなものではないかと思う。

 水面下には、やっぱり、エイミーの身の安全に対する不安とか恐れとか、彼女が傍に居ないことに対する空虚感とか苦痛とか、胸を掻き毟りたくなるような寂寥感とか恋慕とか焦燥とか、そんなものがひしめき合っているけれど、少なくとも表面的には取り繕うことができるようになった。酒に溺れるのはやめて食事も睡眠も摂るようになり、ごっそり減った体重も戻ってきて、デニスの眉間に深々と刻まれていたシワも消えてきた。


「まあ、無事であるのは確かなのだからな」

 七日前に届けられたわずか二行の手紙を五度ほど読み返したところで、ため息混じりに呟く。


 そろそろ、この『報告書』も次が来る頃だ。

 判で押したように毎週水曜日に届くから、多分、いつも月曜日に投函されているのだろう。

 当然郵便局も見張らせているが、エイミーの姿が確認されたことはない。


 本当に、どこに潜り込んでいるのやら。

 つい、苦笑が漏れる。


 苦味を含んだものとは言え笑えるようになったのも、つい最近のことだった。

 取り敢えず今は、彼女が無事ならいい。

 週に一度のこの短い文章の中に、どことなく楽しげな雰囲気が滲んでいれば、それでいい。

 ――そんなふうに思えるようにはなってきた。


「君がいなくてつらいことには変わりないけどな」

 手の中の便せんにそう囁いて、彼女が書いた文字にそっと口づける。


 と、その時だった。


 書斎の扉がノックされ、そこからジェシーが姿を現す。

「どうした?」

 必要な書類は全て手元にあるし、あと一時間は特に用はない筈だ。

 彼は首をかしげた僕に一礼した。

「ラザフォード様がお見えです」

「ブライアンが? 特に来るとは聞いていないが……」

「いえ、ご令嬢です」

「セレスティア?」


 予想外の名前に眉をひそめた。

 それこそ、何の用だろう。

 僕が戦地から戻って以来、セレスティアが足しげく通ってきていたのは、エイミーがいたからだ。彼女がいなくなって一週間か十日した頃に一度訪れたことがあったが、酒に溺れた僕にこの上なく冷ややかな侮蔑の眼差しを注いだきり、二度とこの屋敷に足を踏み入れることはなかったのだ。


 ――エイミーのことを訊きに来たのだろうか。


 多分、セレスティアがあの子の情報を何か掴んだとしても、僕に教えてくれることはないだろう。先に見つけられてしまったら、喜々として遠く離れた別荘にでも連れ去られそうだ。


「まあ、いい。通してくれ」

 眉根を寄せつつそう答えると、ジェシーは無言で下がった。


 じきに再び扉が開き、軽やかな声が書斎の中に響く。

「ごきげんよう、セドリック様」

「やあ、セレスティア。久しぶりだけど元気そうだ」

「セドリック様こそ、今日はご正気でいらっしゃいますのね」

 艶やかな笑みには棘がある。

 セレスティアが言うのは、酒のことだけではないのだろう。

 ……確かに彼女の台詞は非常に的を射ているので、僕には反論する余地が無いのだが。


 淑女の礼儀作法の教科書に載っていそうな笑顔を向けてくるセレスティアに、僕も微笑み返した。

「で、何の用かな? まさかただ僕に逢いたかっただけ、とは言わないだろう?」

「まさか」

 笑みは変わらず、すっぱりと。

 特別好意を抱いている相手ではないけれど、流石にこの返事はどうかと思う。


 若干頬が引きつってしまった僕にはまったく斟酌せず、セレスティアは続ける。

「実は、三日後に我が家で舞踏会を開きますの。ごくごく親しい方だけを招いての小さな会ですけれど、是非セドリック様にもいらしていただきたくて」

「舞踏会……?」

 だいぶ日常は取り戻してきたが、今はまだそういう娯楽に参加する気分じゃない。

「いや、僕は――」

 僕の断りの台詞を遮るように、彼女が手にしている扇がパチンと音を立てて閉じられた。

「色々な方をお招きしておりますのよ。もしかしたら、何か良いコトがあるかもしれませんわ」

「良いこと……?」


 今の僕にとって、『良いこと』といったらエイミーの情報しかない。

 まさか、エイミーの居場所の手がかりになりそうなことが聞けるとか……?


 それは、迷う、かもしれない。

 もしもエイミーを見つけても僕の方から無理やり連れ帰ることはしないぞと日々自身を戒めているが、居場所を把握できるものならしておきたい。


 是非とも。


 が。


 僕はもう一度セレスティアの取り澄ました微笑みを見つめた。

 ――何だか微妙に胡散臭い。


 僕がエイミーを見つけ出す手助けを、果たしてセレスティアがするだろうか?


 口を閉ざしたままの僕に、彼女はいかにもどうでも良さそうな風情で、再び広げた扇をひらひらとはためかせた。

 この態度も何か企んでいるように見えてしまうのは僕の勘ぐり過ぎかも知れないが。


「気がお乗りにならなければ無理にとは申しませんわ」

 そんな投げやりな彼女の台詞が、迷う僕の背中を押した。


「いや、寄らせてもらうよ」

「そうですの?」

 あら意外、というように長いまつげを瞬かせる。

「ではその時に。ごきげんよう、セドリック様」

 大輪の薔薇が咲き誇るような笑顔でそう残し、本当に、心の底からどうでも良さそうな素振りで、セレスティアは去っていった。


 ……今ひとつ彼女の意図が読めないが、多分、多少は、エイミーを失って落ち込んでいる僕を憐れんでくれているのだろう。この二ヶ月間というものそんな気配は微塵も見せなかったが、ここへ来て、何かエイミーを捜す為の力になれば、と思ってくれたのかもしれない。

 ――そう、善意の解釈をしておこう。

 ……でなければ、何か極悪な罠が待ち構えている気がする。

 何しろ、エイミーがいなくなった当初は、そんなふうに彼女を追い込んでしまった僕に対してセレスティアは非常に腹を立てていたのだから。


 時々、ちらりと、やはり彼女が匿っているのではないだろうかと思うことがある。

 しかし、冷静になってきた今となっては、あの時のように淑女の住まいを家捜しするような無礼は到底働けない。

 夜も遅い時間に妙齢の女性の寝室にまで踏み込んだのだから、他の相手であれば結婚までまっしぐらだ。そうしなければ女性の家族から剣と銃で追われる羽目になる。


 思わず僕はため息をこぼした。


 いっそエイミーが貴族の娘であれば、そういう手も使えたのだ。

 相手が貴族の令嬢であれば、暗がりで二人きりになってなにがしかの噂を流せばいい。彼女の意思など関係なく、結婚に追い込める。

 通常は女性側が使う作戦だが、成功率は非常に高い。


 もしも、エイミーが貴族の娘だったら。

 クレイグ・メイヤーが貴族で、エイミーがその娘だったら。

 クレイグだったら、キス一つでも相手の男に娘の名誉を守らせるだろう。


 ……いや、逆か。


 そんな手を使う男に大事な娘を任せたりしないか、彼ならば。

 むしろ、彼女との間に立ちはだかる、何よりも強固な壁になりそうだ。

 僕なんて、当たって砕けて木っ端微塵になってしまうだろう。


 ああ、でも、そうなれば、エイミーの同情票は手に入れることができるかもしれない。

 同情からの始まりだったとしても、僕の元に来てくれさえすれば……

 ――……まだ、バカな事を考えてしまうな。


 愚かで姑息で卑怯で身勝手な、ろくでもない事を。


 こんな唾棄すべき考えが頭をよぎってしまう限り、僕の傍にエイミーを置いていてはいけないのだろう。

 となれば、彼女を再びこの腕に抱けるようになるのは、いったいいつの事になるのやら。


 僕は、すっかり習慣付いてしまった特大のため息とともに頭を振って、邪念を吹き飛ばした。


   *


 そんなセレスティアの訪問があって。

 何の変化もない僕の日常は時間が経つのが早く、あっという間に彼女が主催する舞踏会の日となった。

 教えられた時間通りにセレスティアの屋敷を訪れたつもりだったが、僕が到着した時にはすでに広間には人が溢れていた。


 数人、僕も知る顔がある。

 一際目立つ赤毛はここのところジェシーに対応を任せきりにしていたアシュレイ・バートンだ。

 セレスティアは資産をあちらこちらに投資していて、その収益で様々な慈善事業を運営している。そういう点でも、彼女はご令嬢方の中でも異質の存在だった。


 もちろん、慈善事業に携わっている貴族の令嬢、奥方はたくさんいる。

 だが、自ら投資にも手を出して、というのは、僕が知る限りセレスティアくらいのものだ。

 アシュレイがワインの販売のことで僕の所に来たのも、彼女から情報を得ての事だったらしい。


 他にも、僕が懇意にしている商人たちがちらほら。

 彼ら以外も素朴な身なりをした者ばかりで、ざっと見渡したところでは、貴族の姿はないような気がする。

 セレスティアの兄であり僕の友人であるブライアン・ラザフォードすらいないようだ。


 もしかして、貴族は僕だけなのではないか……?


 おそらくそれが限りなく事実に近いことに眉をひそめた僕に、背後から軽やかな声がかかる。

「ごきげんよう、セドリック様。ようこそおいでくださいました」

「やあ、セレスティア、招いてくれてありがとう」

 ついでにどんな趣旨の会なのか訊きたかったが、そうする前に、彼女の斜め後ろに立つ一人の女性に気が付いた。茶色の髪に珍しいほど黒い瞳をしている、四十絡みの女性だ。


 僕が彼女に目を取られたのに気付いたらしく、セレスティアが笑顔で身体をひねる。

「この方はアメリア・ハート様とおっしゃるの」

「こんばんは、セドリック・ボールドウィン伯爵」

 淡々とした低めの声。

 どうやら、もう僕のことはご存知らしい。


「こんばんは、ハートさん」

 手を差し出されたので持ち上げキスをしようとしたが、すかさずギュッときつく握り締められた。

 ……女性とこういう握手をするのは、初めてだ。


 アメリアという女性はもう一度手に力を込めてから、さっさとその手を解いてしまう。

 そうして、ジッと僕を見つめてきた。

 何だか、僕に向けられている眼差しが通常の女性のものよりも鋭いように感じるのは気の所為だろうか。

 いや、別に、睨まれているというわけではない。

 強いて言えば、観察されているような感じ、というか。

 ……何だかやけに馴染み深いというか、奇妙な感覚を揺さぶる視線だ。向けられているだけで、無意識のうちに背筋が伸びてしまう。


 何故だろう。

 記憶を辿ってみて、はたと思い当たった。

 そうだ、この視線は僕が子どもの頃にみてもらっていたガヴァネスのものに似ているんだ。ビシビシと僕をしごいてくれたあの女教師に、身にまとう雰囲気がとても良く似ている。


 その答えに至った時、アメリアが口を開いた。

「まあ、悪い方ではなさそうですね」

 その台詞に、思わず面食らう。

 ……それは、僕を評してのものか……?

 初対面の相手からのその評価に、どう返したら良いものか。


「……ありがとうございます」

 取り敢えずそう答えると、アメリアの右の眉がキュッと上がった。

 ――貴方を褒めたわけではありません、という声が聞こえた気がする。


 アメリアは、それ以上何か言うつもりはなさそうだ。ただ無言で僕にその眼差しを注いでいる。

 気まずい感じの僕達の見つめ合いは、中々解かれない。僕の方は戸惑っていたし、彼女の方は――何だか僕を威圧している。


 それを断ち切ってくれたのは、セレスティアが漏らした小さな声だった。

「あら、ようやくね」

 彼女を見れば、明後日の方を向いている。が、すぐに僕の視線に気付いてニッコリと微笑んだ。

「では、わたくしは他のお客様のお相手をして参りませんと。ごきげんよう、セドリック様。楽しんでらっしゃってくださいね。では参りましょうか、アメリア」

 唐突だが優雅に、セレスティアは離れていく。アメリア・ハートも最後に厳しい一瞥を僕によこして、彼女の後に続いて人の中に消えていった。


 何だか、不自然な動きだったな。

 セレスティアは何かに気付いたから突然僕の相手をやめたようだが、かと言って、彼女の気を引いたものの方に向かったわけではない。


 ――何に気を取られたんだ?

 そう思いながら、セレスティアが見ていた方へと視線を向けた。


 と。


「うそ、だろう……?」

 あまりに強く乞うあまりに、ついに僕は幻覚でも見始めたのだろうか。


 確かに目にしているものが現実だとは信じられなくて、僕はきつく目を閉じて、また開けた。


 消えていない。

 間違いなく、存在している。

 ふわふわとした、栗色の巻き毛が流れる、華奢な背中。

 今にも人混みに紛れて消えてしまいそうな、小さな背中。

 そう、僕に見えるのは後ろ姿だけだけれども、彼女のことを見間違えるわけがない。


 僕はふらりと足を踏み出す。

 一歩、二歩と進むうち、足は速まった。

 じきに、人を掻き分けるようにしてほとんど走らんばかりになる。

 手を伸ばせば届く距離まで辿り着いた時だった。


 ふいに、その背中が振り返る。

 まるで、僕に気付いたかのように。


 柔らかな髪がふわりと舞って。


 僕を見て、大きな栗色の目が一層見開かれて転げ落ちそうになる。


 ああ、やっぱり。

 頭の中は麻痺して茫漠としていたけれど、たった一つの名前だけは燦然と輝いていた。


 僕はその名前を、囁く。


「エイミー……」


 彼女の――エイミーの唇が震える。

 僕はそれを食い入る様に見つめ、何かが紡がれるのを待った。

 ほんの一言でもいいから、彼女の声を聴きたかった。

「エイミー」

 今度は、促すために名前を呼ぶ。


 彼女の唇が、ほんの少し開いた。

 その柔らかさを知っている僕は、そこに手を伸ばしたくてたまらなくなる。

 指先で触れるだけでなく、思う様、貪り尽くしてしまいたくなる。

 けれど、その欲求を凌駕する、実際に触れてしまったら一瞬にして彼女は掻き消えてしまうに違いないという恐怖が僕を襲った。

 だから、ひたすら見つめるしかない。


 目の前の彼女が現実の存在なのだと実感させてくれるものが、与えられるまで。


 大きな目が、一度だけ、瞬きをする――深い眠りから覚めようとしているかのように。


 果たして。


「……旦那さま」


 二ヶ月ぶりに耳にした彼女の声は、甘く、僕の脳髄を痺れさせた。


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