離れて、想う◇サイドA
パン、と音を立てて打ち振るった真っ白なシーツを樹と樹の間に張られた綱に掛けて、キレイにシワを伸ばします。
旦那さまのお屋敷では洗濯はランドリーメイドのお仕事だったので、ここに来たばかりはなかなか上手に干せませんでした。せっかく洗ったのに、こうやって干す時に落としてしまってまた洗い直し、ということもしばしばだったのです。
けれど、アシュレイさんがわたしをここへ連れて来てくださってからもうじきひと月。
その間、晴れの日には毎日繰り返してきたことですから、我ながら、だいぶ上手にできるようになってきたのではないかと思っています。
シーツは今のが最後の一枚で、思わず吐息が漏れました。
濡れた布地とは結構重いものですね。旦那さまのお屋敷で、わたしも水を入れたバケツなどを持ったりしていましたが、それとはちょっと違う力の使いようで、最初の頃はひどい筋肉痛になりました。
お屋敷のランドリーメイドの皆さんがたくましい腕をされていたのも、納得です。
お洗濯だけでなく、お掃除、料理、時には看護など――わたしはここで、色々なお仕事をさせていただいています。
わたしがアシュレイさんに連れてこられたこの建物は一見普通のお屋敷のようですが、実は、誰かから身を隠さなければならなくなったり、居場所がなくなってしまったりした女性たちの避難所になっているのです。お名前は教えていただいていませんが、志のある貴族の方が立ち上げて、アシュレイさんも寄付などで援助しているのだとか。
ここは一時の待避所のようなものらしく、皆さん、数日のうちにいらっしゃらなくなります。噂では、どこか郊外の修道院に移されるらしいと聞きました。
逃げてこられる方々の理由は、色々です。
例えば、恋人や夫から暴力を受けて逃げ出してきた人。
例えば、働いていたお屋敷で雇い主から無体を強いられて逃げ出してきた人。
……中には、ひどい怪我をしていたり、お腹に赤ちゃんがいたりする人もいます。
一見身体的には大きな問題はなくても、ジッと部屋の隅に縮こまってしまっている人もいます。
ここでそんな方々のお世話をさせていただいていて、わたしは、今までどれほど自分が守られていたのかを思い知りました。
もちろん、都中に不幸な女性が溢れかえっているというわけではないということは判っています。
むしろ、幸せにしている人の方が多いのだということも。
けれど、それでも、十歳で孤児になったわたしがこんな世界があるということを今まで知らずに生きてこられたということは、旦那さまが守ってくださっていたからなので。
わたしは、とても……とても、大事に育んでいただいたのです。
それなのに、あの方の元から逃げ出すことしかできなくて。
わたしは空になった洗濯籠を抱えて、小さくため息をこぼしました。
最初の約束通り、アシュレイさんには週に一度、近況報告の手紙を送っています。
アシュレイさんもその都度お返事をくださるのですが、そこにはいつも、旦那さまのことが書かれているのです。
――昨日も三度目のそれを受け取ったばかりなのですが。
アシュレイさんのお手紙はとても巧みで、読んでいるとまるで目の前にあの方がいらっしゃるような気がしてくるほどです。
だから。
……わたしの行動は、本当に正しかったのでしょうか。
この問いを胸の中で呟くことが、日を重ねるごとに増えてきました。
わたしがお屋敷を出たのは、旦那さまに良かれと思ってのことです。
でも、本当に、そうだったのでしょうか。
一通目、二通目、三通目。
アシュレイさんがお知らせくださる旦那さまのご様子に、まったく変化は見えてきません。
いえ、むしろ、回を追うごとにひどくなっていくような……
だから、疑問がどんどん膨らんでしまうのです。
――わたしがしたことは、見当外れだったのでしょうか。
それとも、もう少し時間が必要なだけ?
幾度か、旦那さまにもお手紙を出そうと思ったことがあります。
けれど、この施設のことはできるだけ人に知られたくないとのことで、郵送はできません。アシュレイさんへのお手紙は、御用聞きの方にお渡しして、届けてもらっているのです。
それに、連絡はしない方が、良いとも思いました。その方が、早く元の旦那さまに戻ってくださるのではないかと。
でも……
日に日に、自信がなくなっていきます。
自分がしていることは、旦那さまのためになるのだという、自信が。
わたしは、正しいことをしたと思いましたし、今もそうだと思っています。
でも、旦那さまが良かれと思ってなさってくださったことがわたしにはあまり良くなかったように、もしかして、わたしが良かれと思ってしていることは、実は旦那さまの為になっていないのでしょうか。
……判りません。
考えなければいけないと思うのですが、考えたくないとも思ってしまいます。
知らず小さなため息を漏らしたわたしの耳に、不意に「きゃあ」という甲高い声が聞こえてきました。そちらに振り向くと、小さな女の子が二人、転がるように追いかけっこをしています。
楽しげな様子に、ホッと肩の力が抜けました。
彼女たちは七日ほど前からここへ身を寄せている女性の娘さんたちで、確か、五歳と四歳です。その女性は、暴力を振るう旦那さん――子どもたちのお父さんから、逃げてきました。
最初の三日ほどは子どもたちもビクビクとしていましたが、今では随分と明るい声を上げるようになっています。お母さんの方はまだ怪我で動けませんが、表情は和らいできているのではないでしょうか。
歓声を上げながら樹の周りをクルクルと回っている二人を眺めていると、彼女たちはわたしに気付いてこちらに駆けてきました。
「おねえちゃん、いっしょにあそぼ?」
「なにする? なにしてあそぶ?」
そう言いながら、右と左からわたしのエプロンを引っ張ってきます。
「ごめんなさい。まだお掃除が残っているので」
「じゃあ、あとであそぶ?」
「お掃除が終わった後なら」
「やくそくね?」「やくそくね?」
……二人はまたきゃあきゃあ言いながら、わたしの返事を聞く前に行ってしまいました。
こういうのを、微笑ましい、というのでしょう。
とても、胸が温まるというか。
ここへ来るまで、わたしは小さな子と接したことがありませんでした。
旦那さまのお屋敷に移るまでは近所に年の近い子がいましたが、わたしはお家のことをしていましたので、あまり一緒に遊んだりすることはなかったのです。
ここに来て、入れ代わり立ち代わり、色々な年齢の子どもたちと過ごすようになったのですが。
子ども――いつか、わたしも自分の子どもを持つことがあるのでしょうか。
どなたかに嫁いで、その方の子どもを産んで。
……想像できません。多分、そうなることは、ないと思います。
ふと、旦那さまのような金色の髪と真っ青な目を持った小さな男の子の姿が頭に浮かびました。そして、小さな女の子の姿も。
とても可愛らしい、子どもたち。
その子たちを旦那さまが微笑みながら見守って、そのお隣には 同じような金髪碧眼の美しい奥さまがいらっしゃって。
まるで絵に描いたようなご家族が、簡単に想像できます。
簡単に想像できてしまって――胸がギュッと苦しくなりました。
わたしがお屋敷を出たのは、旦那さまに正しい道を歩んでいただくためです。
わたしの世話をしなければという考えに凝り固まってしまった旦那さまと距離を置いて、元のあの方に戻っていただくためです。
以前の旦那さまにお戻りになれば、きっと正しく相応しい方を奥さまに迎えられることでしょう。旦那さまはもう三十歳を超えていますから、いつご結婚なさってもおかしくはありません。そう、わたしがたった今思い浮かべたような光景を、いずれ、間もなく、目にするようになるのです。
そう思った瞬間、胸の苦しさは痛いほどになりました。
もしもまたお屋敷に戻ることができたとして、わたしは以前のように旦那さまのお世話をすることができるでしょうか。
いつか、旦那さまが奥さまをお迎えになったら、わたしは、ご夫婦のお世話をすることができるでしょうか……?
――自信がありません。
お美しい奥さまに寄り添い、微笑みかける旦那さまを想像するだけで、こんなに息苦しくなってしまうのに。
以前は同じような光景を思い浮かべても、別になんとも思いませんでした。
いつから、どうして、何が変わったのか。
わたしはもう一度、笑い転げている女の子たちに目を向けました。
メイドとしてご夫婦のお世話はできなくても、ナニーとしてならどうでしょう。
二人か三人の、とても愛らしい男の子と女の子。
旦那さまのお子さま方を慈しんでいる自分の姿なら――ええ、とても簡単に想像できます。
胸の中がふわりと温かくなって。
「おや、好きな男のことでも考えてんの?」
突然そんな声が掛けられて、わたしはパッと現実に引き戻されました。
目を上げると、ぽっちゃりした女性がどことなくヒトの悪い笑みを浮かべています。
「リンジーさん」
彼女はリンジー・ボーデンさんとおっしゃる、五十絡みの方です。最初は他の女性と同じように夫からの暴力から逃げてきたのですが、そのまま世話人としてここに落ち着いて、もう五年ほどになるとか。
リンジーさんはわたしの前までやってくると、しげしげと見つめてきました。
「あんたがそんな顔するなんて珍しい」
「そんな顔?」
――って、どんな顔でしょう。
眉をひそめると、リンジーさんはニッコリと満面の笑みを浮かべました。大変な思いをされてきたはずですのに、リンジーさんの笑顔は、とても明るくて人を和ませてくださいます。
その笑顔のまま、おっしゃいました。
「幸せそうな顔、だよ。あんた貴族から逃げてるんだって? もしかしてそいつのせいで好きな男と別れるはめになったとか?」
「違います」
かぶりを振ると、リンジーさんは首をかしげました。
「じゃ、無理やり手籠めにされそうになった? それか、愛人になれ、とか? で、仕方なくその男と離れ離れに? うわ、とんでもないお貴族様だね」
「まさか! 旦那さまはわたしに求婚してくださいました!」
思わずそう答えてしまったわたしに、リンジーさんの目が丸くなります。
「なんだ、あんたが好きな男って、そのお貴族様なわけ? なら、何で逃げてんだい? 結婚しちまえばいいじゃないか」
「好き、とか、そんな……」
「何、その反応。好きなんだろ?」
つやつやしたリンジーさんの眉間に、シワが刻まれました。そうして、わたしをジッと見つめてきます。
「……わたしがどう思っているかは、関係のないことです」
「つまり、傍にいちゃいけないと思ってるのに傍にいたくてたまらないってわけだ。ぞっこんってやつだね」
確かに旦那さまのことは『好き』です。『嫌い』なわけがありません。
ですが、わたしにとっての旦那さまは、そういう存在ではなくて――何て言ったら良いのか判りませんが、とにかく、もっと『特別』な方なのです。
それを伝えたくて頭の中にある言葉を選ぼうとしましたが、良いものが見つかりません。
結局。
「旦那さまは――主です。身分が、違います」
そうとしか言えなくて。
「身分、ねぇ」
腰に両手を置いたリンジーさんは、ふん、と鼻を鳴らしました。そうして、スッと細めた目でわたしを見つめてきました。
まるで、わたしの頭の中を見通そうとしているかのように。
しばらくそうしていたかと思うと、小さく首をかしげました。
「あんたの旦那さまとやらはぼんくらなのかい? 自分がすることであんたが困ることになるのも判らないような?」
ぼんくら?
失礼な。
「いいえ、とても聡い方です」
憤然として答えると、リンジーさんは益々訳がわからない、という顔になりました。
「だったら、『旦那さま』とやらは全部承知でやってるんじゃないのかねぇ。バカじゃないなら平民が貴族に嫁いでどうなるか解ってるだろうし、それをどうにかできるから結婚とか言い出してるんじゃないのかい。なんであんたは逃げてんのさ」
いとも簡単にまとめてくださいましたが、そんな単純なお話ではありません。
「旦那さまは、わたしの父に恩を感じられていて、それでそうおっしゃっているんです」
このことが、今回の件で一番大きな問題点です。けれど、リンジーさんは、あっさりと鼻先で笑い飛ばしてしまいました。
「そんなもの、恩やら何やらだったら結婚する必要なんかないじゃないか。他にイイ男見っけてくれたらいいだけで。あんたのことを考えるなら、よっぽどその方が親切だよね。平民が貴族に交じったら苦労することなんて目に見えてるんだからさ。なのに『旦那さま』はあんたと結婚したいって言っていて、あんたは『旦那さま』のことが好きなんだろ? 万々歳じゃないか」
リンジーさんは自信満々でそう断言されました。
確かに、それは、そうなのかもしれませんが……
崖っぷちに追い詰められたような心持ちになって、わたしはそれ以上何も言うことができなくなってしまいます。
黙りこんだわたしに、リンジーさんはフッと目元を和ませました。
「あんた見てるとさ、ああ、大事にされてきたんだろうな、としみじみと思うよ。あたしはあんたの『旦那さま』を知らないけど、そういうあんたでいさせてくれていた人が甲斐性無しのろくでなしとは思えないんだよね。まあ、男で失敗したあたしの言うことじゃないんだろうけどさ」
「旦那さまは、とても素晴らしい方です」
「それなら、結婚してやったら良いじゃないか。恩義だろうがなんだろうが、あんたを欲しいと言ってるのには変わりないんだから」
「でも、そんな理由でわたしと結婚したら、旦那さまは幸せにはなれないでしょう?」
わたしにとって何よりも大事なのは、そこなのです。
重い気持ちでそう言ったのに、リンジーさんはヒョイと肩をすくめました。
「結婚する理由なんて色々さね。それにあんたはその人が幸せになれないって言うけどさ、そうじゃなくて、あんたが幸せにしてやったら良いんじゃないの?」
「わたしもずっとそう思ってきました。ですがそれは、メイドとして、です。妻としてではありません」
「あっちがいいって言ってくれてるのになんでそこを分けるのか、あたしには解らないよ」
リンジーさんは首を振りつつ深々とため息をつきました。
「あたしは物を考えなさ過ぎるだろうけど、あんたは考え過ぎて空回りしてるような気がするよ。当たって砕けろ、とも言うだろう?」
「わたしが砕ける分には構いませんが、旦那さまが粉々になってしまっては困ります」
眉をしかめてそう言うと、リンジーさんから返ってきたのは苦笑でした。
「そんなふうに言ってくれる相手と結婚したら、たいていの男は幸せになれると思うけどね。まあいいさ、あんたの人生はあんたのものだもの。棺桶に入る時に後悔するようなことはないようにしなさいよ」
そう残してお屋敷の中に入っていくリンジーさんを、わたしは何も言えないまま見送りました。
胸の中がもやもやして、大きなため息を吐き出してみても、すっきりしません。
――『考え過ぎ』……?
けれど、これはよくよく考えなければいけないことです。
旦那さまの為には、どうするのが一番良いのか。
お会いしたいかと問われれば、ええ、もちろん、お会いしたいです。
お傍にいて、お声を聴いて、何でもいいから、何かして差し上げたい。
けれど、そんなふうに想うわたしの気持ちなど、小さなこと。
目先の望みに眩まされず、もっと、先を見つめなければ。
そうしなければ、いけません。
――そう思うのに、旦那さまの瞳の色をした空を見上げたわたしの口からは、勝手にまたため息が零れ出していました。