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エイミーと旦那さま  作者: トウリン
『伯爵とメイドの日常』
5/60

『特別』扱い◇サイドA

「エイミー、ちょっとおいで」

 廊下をお掃除していたらそんなふうに名前を呼ばれて、顔を上げると旦那さまがわたしに向かって手招きをされていました。

 なんでしょう?

 書斎のお掃除は終わっている筈ですし、ベッドメイキングもちゃんとやりました。午後のお茶までは、もう少し時間がある筈ですし……

 バケツと箒をそこに置いて、頭の中で指折り数えながら急いで近寄ったら、旦那さまは掌に載せた何かをわたしに差し出してきました。綺麗な絵が描かれた、小さな容器です。


 わたしはジッとそれを見つめました。

 旦那さまは時々チョコレェトなどをくださることがありますが、今日の箱はお菓子にしては小さいような。


「何ですか?」

 首をかしげて見上げると、旦那さまはわたしの手を取って上向けさせると、その容器を置かれました。そうして、ニッコリと笑います。

「手荒れの薬だよ」

「薬、ですか?」

「そう。今渡しているものはあまり効果がないのだろう? これはいいと、ドクターに聞いてね」

 旦那さまはそうおっしゃって、この間のようにわたしの手のあかぎれをそっと撫でると、まるでご自分の手が痛んだかのようにちょっと笑顔を曇らせました。


 旦那さまは、ご自身の生活はちょっとだらしないのですが、わたしたち使用人のことはよく見てくださっています。こういうところは、とても良いご主人様だな、と思うのです。


「ちゃんと治しなさい」

「ありがとうございます」

 そう言ってわたしがお辞儀をすると、旦那さまはとても満足そうに笑いました。

 と、その笑顔がふと固まって。


 どこかもの言いたげに見えるのは、気のせいでしょうか。

 ――まだ、何かご用が?


 旦那さまのお言葉を待っていると、なんだかしげしげと見下ろされました。

「あの?」

「……ありがとうと言う時は、笑顔の方がいいな」

 一瞬、どういう意味か、解かりかねました。

「……笑顔、ですか?」

「そう。女性に笑顔を向けられると、男は数倍やる気が出るから」

 そんなものでしょうか。でも、表情一つで良いのなら、試してみる価値はあるかもしれません。もっとも、教えてくださった旦那さまには効果がないでしょうから、別の人の時にしてみることにしましょう。

「わかりました。では、今度、カルロさんにやってみます」

 頷いて、わたしがそう答えた瞬間、旦那さまは何だか変なお顔になりました。

 急にお腹でも痛くなったのでしょうか。しかめ面とは違うのですが、何というか、パンでも喉に詰めたみたいなお顔です。


「どうかされましたか?」

 わたしがそう尋ねると、旦那さまは少し口ごもった後、逆にわたしに訊いてこられました。

「カルロ……って、何故、彼の名前が出てくるんだい?」


 今度はわたしが口ごもる番です。


 カルロさんは、フットマンをされている方です。

 わたしたちメイドがお掃除をする時に、邪魔になる大きな家具を動かしてもらうというのがあるのですが、そんな時、カルロさんはいつも「じゃあ、代わりに○○しよう」と言うのです。

「今度食事に行こう」とか、「ピクニックに行こう」とか。

 同じフットマンのゲイリーさんは、そんなことはないのですが。多分、やる気になれないから、カルロさんはそんなことを言い出すのだと思います。

 そんな時に旦那さまが仰った方法を取ってみたら、ちょっと頑張ってくれるのではないかと思うのです。

 でも、そんなことを旦那さまに言ったら告げ口みたいな気がします。なので、ここはごまかしておきましょう。


「――たまたまです」

「たまたま……?」

「はい。パッと思いついたのがカルロさんのお名前でした」

 それ以上は突っ込まないで欲しいな、と思いながら旦那さまを見上げていたら、何故かため息をつかれました。

「そう……じゃあ、もういいよ、仕事に戻りなさい。手当はしっかりするんだよ?」

「はい。ありがとうございました」

 それ以上お話ししていたら、藪蛇になりそうです。さっさとお仕事に戻ることにしましょう。



 ――旦那さまとのそんな遣り取りがあって、一通りお屋敷のお掃除が終わった休憩時間。

 少ししたら旦那さまの午後のお茶の時間ですが、その前にハウスキーパーのマーゴさんのお部屋で、ちょっと一休みです。


「あら、エイミー? それどうしたの?」

 旦那さまからいただいたお薬を塗ろうとしたら、同じハウスメイドのアラーナさんがそう声をあげました。一緒にいたシェリルさん、キャリーさん、ドロシーさんもわたしの手元を覗き込んできます。

 キャリーさんは一番年長で、もう結婚なさっていらっしゃいます。アラーナさんはとてもお綺麗な方で、男の人に人気があります。シェリルさんもやっぱりお綺麗なのですが、優しいお姉さんという感じで、ドロシーさんはわたしと一番年が近くて、確か十八歳になったばかりだったと思います。


 キャリーさん、アラーナさん、シェリルさんは、わたしがこのお屋敷に来た時からいらっしゃって、当時、まだ何も知らなかったわたしに色々教えてくださいました。

 皆さん、とてもお優しいのです。


「珍しいわね、自分で買ったの?」

 言いながら、アラーナさんはわたしの手の上から取った容器を矯めつ眇めつしています。

「旦那さまからいただきました。皆さんは受け取っていらっしゃらないのですか?」

「ないわよ。ねぇ?」

 アラーナさんが他の方々の顔を見回すと、みんな頷いています。ということは、わたしだけにくださったということでしょうか。


 ……そう言えば、使用人に何かを配る時はいつも一斉に渡されていました。


「それを返していただけますか?」

「ああ、ゴメンね……って、どこ行くの?」

 返してもらったお薬を手に立ち上がったわたしに、アラーナさんが訊いてきます。

「旦那さまの所です」

「もしかして返しに行くとか?」

 そう言ったのはシェリルさんでした。


 もちろんです。


 頷くと、アラーナさんも立ち上がりました。

「何でよ、別にいいじゃない。くださるって言うならもらっておけば」

 そうは言っても、手荒れで困っているのは皆さん同じです。でも皆さんは、ご自身でお薬を買っているのです。わたしだってお給金は充分いただいているのですから、自分で買おうと思えば買えるのです。それなのに、わたしだけが旦那さまからいただくわけにはいきません。

「でも、それでは不公平ですから」

 そう言って部屋を出ようとしたら、いきなりアラーナさんに抱き締められました。豊かな胸が顔に押し付けられて、窒息しそうです。


「ア、ラーナ、さん……」

 ジタバタもがいても、放してくれません。お掃除で鍛えた腕力は、生半可じゃないのです。

「あんたのそういう固いところ、可愛いと思うわぁ」

 そう言われても、わたしは息ができなくて死にそうです。と思ったら、急にパッと解放してくれました。そうして、肩で息をしているわたしの目を覗き込んできます。

「でもね、あたしから見たら可愛いけど、男にとっちゃ、そういうのが可愛くない時もあるのよね。くれるというなら、ニッコリ笑ってもらっときなさい」

「笑って……」

「そう!」

 アラーナさんはそう言って、ご自身のお言葉通り、にっこりと笑顔になりました。


 旦那さまと同じようなことをおっしゃるのですね。

 ええ、確かに、こうやって笑ってくださると、何となく胸の中がほっこりと温かくなりますが。


 わたしがアラーナさんと同じような効果を発揮できるかどうかは――どうでしょう?

「……とりあえず、行ってきます」

 ペコリと頭を下げると、皆さんに何となく呆れたような目を向けられてしまいました。

 部屋を出ようとしたところで呼び止めてきたのは、マーゴさんです。

「ああ、そうそう。そろそろお茶の時間だね。ちょうどいいから、持って行って差し上げて」


 確かに、もうその時間です。

 わたしはお茶の道具を持って、この時間に旦那さまがいる筈の書斎へと向かいました。


 コンコンとノックをすると、すぐに返事があります。

「お仕事中、失礼いたします」

 中に入ると、いらっしゃるのは旦那さまお一人でした。

「ああ、お茶の時間か。ありがとう、エイミー」

 そう言って、旦那さまがにっこりと笑います。あけてくださった場所にカップを置いて、続いてお薬の容器を置きました。


「エイミー?」

 真っ青な目が訝しげに見上げてきます。

「いただけません」

 わたしがそう言うと、旦那さまは瞬きを一つされました。まるで異国の言葉を聞かされたかのように。

「……何故?」

 こんなに当たり前のことなのに、なぜ、『何故?』なのでしょう。


「他の方にはお渡しになっていらっしゃいませんでした」

「まあ、そうだね。君にあげた物だから」

 旦那さまは、まだ不思議そうなお顔をされています。

「それは、いけません。わたしだけというのは不公平です」

「でも、他の者は君ほど手が荒れていないじゃないか」

「それは、皆さんはご自身でなんとかしているからです」

「なら、それはそれでいいだろう」

「よくありません」

「エイミー……」

 わたしの名前を口にされた旦那さまは、どこか困惑されているようにも見えました。

 ですが、何をそんなにお困りなのでしょう?

 ただ、お薬をひっこめてくださればいいだけなのですが。


 とにかく、受け取れない物は受け取れないのです。わたしはお薬をグイッと旦那さまの前に押しやりました。

「お気持ちはとても嬉しかったです。ありがとうございました」

 そう思ったのは確かですから、そこだけはきちんとお伝えして下がらせていただこうとしましたが、頭を下げたところで腕を取られました。

「旦那さま?」

 眉をひそめて見返すと、旦那さまは開かせたわたしの手の中にお薬を押し込んで、上からすっぽり握り込んでしまわれました。

 こんなの、全然意味がないと思うのです。旦那さまが手を放したらおしまいですし、放さなかったらどちらも動けません。


「お放しいただけませんか?」

「いやだよ」

 とても良い笑顔と一緒にそう返されましたが。

 目が、笑っていません。

 ……まるで、子どもが意地を張っているようです。

 わたしが睨み付けても、旦那さまは涼しい顔をしています。


 ――そうやって、書類を持ったジェシーさんが書斎に入って来るまで、わたしたちはまるでヘビとカエルのように睨み合っていました。

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