逃げた仔猫と盲の犬◇サイドA
空が薄闇を帯び始めた頃、わたしはこっそりとお屋敷を抜け出しました。
都に滞在している時で、良かったと思います。
ご領地に戻っていたら行けるところなど教会くらいですから、あっという間に見つかってしまうでしょう。
身を寄せる場所については、置いていただけるという確証はないものの、一箇所だけ心当たりがありました。そこを目指して、街灯の明かりを頼りに暗くなってきた道を急ぎます。
つい三日ほど前に旦那さまと馬車で出掛けた時に通りがかっただけなので、道順は少々心許なかったのですが……ああ、多分、あそこです。
色々なお店が立ち並ぶ中、一際大きく豪華な店構え。
そこはバートン商会――アシュレイさんのお家がなさっているお店です。
わたしがアシュレイさんと初めてお会いしたのは、二年と少し前のことでした。
旦那さまのご領地で作られるワインを取り扱いたいとおっしゃってこられたのが始まりです。
その後間もなく旦那さまは戦争に行ってしまわれましたが、ジェシーさんとお話するためにアシュレイさんはタウンハウスの方へ時々いらしていました。
都で一番の大富豪とのことですが、とても気さくな方で、廊下ですれ違った時にはいつも声をかけてくださいます。
そんなアシュレイさんとは、出会ったばかりの頃にあるお話をしました。
それは、もしもわたしがボールドウィン家のお屋敷を出る時が来たならば、ということ。
あの時アシュレイさんは、もしもわたしがお屋敷を出ることがあれば、お仕事をくださるとおっしゃってくださったのです。
もう二年以上も前のことになりますし、あれきり、同じようなお話はしていません。
とっくにお忘れになっていらっしゃるかもしれませんし、そもそも、単なる社交辞令に過ぎなかったのかもしれませんが……
アシュレイさんのところがダメなら、どこか他に探さなければなりません。
どうか、あの時のお言葉をアシュレイさんが覚えてくださっていますように。
そんなふうに祈りながら、お店の前に立ちました。
もう遅い時間ですが、幸い中の灯りはまだついています。
両開きの扉をそっと押し開けると、中はお店というよりも書斎のような雰囲気でした。とても広いのですが、品物は飾られていなくて、あるのは机や書類がびっしりと詰まった棚ばかりです。
人の姿はなくて、少しおいて、奥の方からジェシーさんと同じくらいの年の男性が出てこられました。
「おや、お嬢さん。どんな御用でしょうか?」
柔らかな笑顔ですが、目はわたしのことを訝しんでおられるようです。
「あの、アシュレイさんにお会いしたいのですが……」
「約束はお取りですか?」
「いえ……」
わたしが口ごもると、彼は少し困ったように眉をひそめました。
「取り敢えず、主人に伺って参ります。失礼、お名前は――?」
「エイミーです。エイミー・メイヤーと申します」
「では、しばしお待ちを」
そう残し、彼はまた奥へと戻って行かれました。
――四半時ほど経った頃。
「やあ、エイミー。こんな時間に出歩くとはあまり感心しないな」
ガラス越しにお店の外を眺めていたわたしに、そんな声。
振り返ると、アシュレイさんがこちらの方へ近づいて来られるところでした。
「伯爵はどうしたの? よく君が一人で出ることを許してくれたね」
わたしの前に立ったアシュレイさんは、笑顔でおっしゃいます。
「あの……」
説明をしようとして、言葉に詰まりました。
今回の状況を、なんと、お伝えしたら良いのでしょう。
まずは、旦那さまに連絡をされると困るということ。
しばらく、お仕事をさせていただきたいということ。
――そういうことになってしまった、理由は……
頭の中で整理しようとしていると、頭の上から小さな笑い声が届きました。
「噂は聞いてるよ」
「……噂?」
どんな?
見上げたわたしに、アシュレイさんはニッと――唇の両側を横に引くような笑いを返してこられます。
「暴走した伯爵がお気に入りのメイドを拉致監禁してモノにしようとしてるってね」
「え……」
一拍遅れて、彼の言葉の内容が頭の中に染みこんできました。
「なんてこと!」
わたしのせいで旦那さまがそんなふうに言われてしまうことを、一番恐れていたのに。
休憩のお茶の席などでは、ドロシーさんが仕入れてきた他のお屋敷の噂話が上がったりします。
そういうお話の中には、使用人に無体を働く雇い主がしばしば出てきました。
もちろん、旦那さまはそれとは違います。けれど、何も知らない者がわたしに対する旦那さまの不適切な行いをご覧になったら、誤解されてしまうでしょう。
現に、今、アシュレイさんがとんでもないことを口にされたではありませんか。
「ああ、ごめん、ごめん! 大丈夫、内輪の冗談みたいなものだから! ほらここに座って……顔が真っ青だよ」
そうおっしゃりながらアシュレイさんが引いてくださった椅子に腰を下ろして、彼を見上げました。
「内輪の、冗談……?」
「そう。ごくごく内輪。だから安心して。別に社交界中に醜聞が広まったとかじゃないよ」
アシュレイさんはどこからともなく取り出したグラスに琥珀色の何かを注いで差し出してくださいました。
「ほら、飲んで。落ち着くよ」
言われるがままに一口飲み込むと、それが通り過ぎたところを炎が追いかけていくかのように熱くなります。
二口、三口とゆっくりと飲み干していくうちに、何となく頭がボウっとした感じになってきました。
アシュレイさんは心配そうにわたしをご覧になっておられますが――旦那さまを冗談の種にするだなんて!
身体が温まってくるのと同時に、頭の中もなんだか無性に高ぶってきました。
「旦那さまは、戦争疲れで少しおかしくなっていらっしゃるだけです」
「……ああ、うん、そうだね。きっと」
心持ち明後日の方に目を向けて、ウンウンとうなずいておられますが。
わたしを宥めようとしているのが見え見えですね。
「少しお時間を差し上げたら、元のちゃんとした旦那さまにお戻りになりますから! あんなふうなのは今だけです!」
力説すると、アシュレイさんはしげしげとわたしを見つめてこられました。
そこにあるのは――何でしょう。
憐み……?
でも、どなたに、何に対して、同情されているのでしょう。
眉をひそめて見返すと、アシュレイさんは肩をすくめてかぶりを振られます。
そして、わたしに見えたとおりのお言葉を口にされました。
「なんか、ちょっと気の毒」
「何がです?」
「いや、何でも。で、ここへ来たのは、旦那様に時間をあげる為?」
途端に、現実に引き戻されました。
「……はい」
旦那さまが元の旦那さまを取り戻されるための、『時間』。
その『時間』は、いったい、どれくらいあればいいのでしょうか。
ひと月?
……半年?
……一年……?
一気に気分が落ち込んで、手の中のグラスに残っているものを一息に飲み干しました。
ああ、なんだかふわふわします。
「いっそ、しばらく僕と一緒に世界中を回ってみようか?」
世界中?
つまり、この国を離れて、ということですか?
「イヤです」
考える間もなくわたしは返していました。
あまりに返事が早かったためか、アシュレイさんは眉を上げて重ねて尋ねてこられます。
「なんで? 旦那様の傍にはいられないんだろう?」
「お傍にいられなくても離れるのはいやです」
聞こえてきたのは、クスクスという忍び笑い。
ぼんやりした頭でアシュレイさんを見ると、彼は首を傾げておっしゃりました。
「それって、矛盾してるよね」
「矛盾していても、遠くには行きたくありません。本当はお傍にいたいです。でも、いてはいけないんです」
遠く離れた地に行って、これから一生、旦那さまにお会いすることができない。
お姿を見ることも、お声を聴くことも、できない。
そんなふうに考えるだけで、身体中が痛くなります。
「何故? どうして、傍にいたらいけないんだい?」
小さな子に問いかけるような、優しい声。
何故、でしょう。
それは、わたしの側に問題があるからです。
わたしが――
「……旦那さまのお言葉を、嬉しいと思ってしまうからです。旦那さまのおっしゃることを、受け入れてしまいそうになるからです」
舌がうまく動かなくて、それだけ言うのが、やけに大変でした。
旦那さまに触れていただくのは、心地良い。
一時の気の迷いだと判っていても、妻に――ずっと傍にいてもいいとおっしゃってくださったのは、うれしい。
旦那さまの腕の中にいると、ずっとそのままでいたくなります。
――本当は、キスも。そっと重ねられる唇はとても心地良くて、幸せで。
「そんなふうに思ったり感じたりしては、いけないのに」
ああ、眠い。
急に強い眠気が襲ってきて、もう、目蓋を上げておくのが一苦労です。
「別に、受け入れてもいいと思うんだけどなぁ」
そんな言葉とともにアシュレイさんの手が伸びてきて、わたしを抱え上げました。
「旦那さまは、今、お疲れなだけなんです。すぐに、また以前の旦那さまにお戻りになります。そうしたら、もっと、相応しい方と……」
わたしを運ぶアシュレイさんの腕の中でなんとかそれだけ口にして、それから先は、何も判らなくなってしまいました。
*
「エイミー、起きて」
不意に肩を揺すられ、わたしはパッと目を開けました。
ここ、は?
上を見れば、狭い空間で。
どうやら、馬車の中のようですが。
旦那さまとお出かけしていたでしょうか?
一瞬混乱したわたしに、隣からまた声がかけられました。
「目は覚めてる? 歩けるかい?」
そこに座っていらっしゃるのはアシュレイさんです。
そう言えば、何かお仕事をいただけないかと思って、彼の元へ赴いたのでした。
「すみません」
人前で居眠りをしてしまうだなんて、失礼極まりないことです。
――でも、何故、馬車の中なのでしょう。お店でお話していたはずなのに、いつの間に馬車に?
戸惑うわたしをよそにアシュレイさんは馬車から降りて、手を差し出されました。
「さあ、降りて。もう遅い時間だしね」
「ここは?」
彼に続いて馬車から出ると、そこは一軒のお屋敷の前でした。
「ここはね、君の隠れ家」
「隠れ家?」
「まあ、僕の店で働いてもらってもいいんだけど、それじゃぁすぐに伯爵に見つかっちゃうだろう? その点、ここならそう簡単にバレないから。ちょうど彼女も人手を欲しがってたし」
そんなお言葉が終わる頃には、もうわたしたちはお屋敷の玄関の中に立っていました。
「こんばんは、バートン様」
静かな声とともにわたしたちを迎えてくださったのは、四十歳前後ほどの、女性です。背筋を伸ばして、とても落ち着いた感じの方です。
「やあ、アメリア。遅くに済まないね」
「構いません。その方は?」
「エイミー・メイヤーというんだ。しばらく置いてあげて欲しい。エイミー、こちらはアメリア・ハートさんだよ。ここの責任者なんだ」
――責任者……? ご主人、ではなく?
アメリアさんは、細めた目でわたしの身体を上から下まで見つめられました。何かを探すような、とても鋭い眼差しです。
「こんばんは。はじめまして。エイミー・メイヤーと申します」
取り敢えず、疑問は横に置いて腰を下げて挨拶をすると、アメリアさんの眉がピクリと上がりました。
「……そんな必要はなさそうに見えますが?」
「ああ、保護はね。ただ、訳あって、しばらく人目に付かせたくないんだ」
「さようですか。では、預かりましょう」
必要?
保護?
不思議な言葉ばかり出てきますが。
眉をひそめていると、アシュレイさんがクルリとわたしに振り返りました。
「じゃあ、話は付いたから、ここでゆっくりしておいで」
ここで?
大きなお屋敷ですが、どなたかの――このアメリアさんのメイドになるのでしょうか。
旦那さまではない方の、メイド……
ほんの少し、ためらいが頭の中を走った時、すかさずアシュレイさんがかぶりを振りました。
「ああ、誰かのメイドをするわけじゃないよ。まあ、掃除やら食事やらは作ってもらうと思うけど。別に、誰かを『主人』にするわけじゃないんだよ」
そのお言葉に、どうしても安堵してしまいました。
お世話になっておいて恩知らずも甚だしいですが、やっぱり、旦那さま以外の方にお仕えするのは、苦しいです。
何となく申し訳ないような気がしてうつむいてしまったわたしの頭の上に、ぽんと大きな手のひらがのせられました。
「君のことを全然解ってあげようとしないなんて、確かに、伯爵は戦場でネジを一本落っことしてきちゃったんだろうね」
「旦那さまが悪いのではありません」
「悪いとは言わないけど……まあ、僕としても、伯爵にはそろそろ正気に返ってもらわないと次の儲け話を持っていけないからね」
ちょっと、失礼なおっしゃりようではないですか?
ムッと見上げたわたしに、アシュレイさんはニッコリと笑顔を返してこられます。
そうして、フッとその眼差しが優しげに細められました。
「いい機会だから、君も少しゆっくり考えてみてごらん。君の中にある気持ちを」
わたしの中にある、気持ち……?
それはもう、はっきりしていますが。
眉根を寄せたわたしの頭を、アシュレイさんはもう一度ポンポンと軽く叩いて。
「ああ、そうだ。週に一度、『元気です』って手紙で教えてよ。店宛に送ってくれれば、ボクのところに届くから」
そう残して、帰っていかれました。