些細で大きなすれ違い◇サイドA
いったい、何が起きているのでしょう。
広場のようなホールの入り口に立って、わたしは頭の中で呟きました。
多分、今日は午後になってからだけでも同じ問いを三十回は繰り返しているに違いありません。
このお城に着いて、馬車から引っ張り出されてからも、少なくとも五回は自分自身に問いかけてみました。
そっと隣を窺えば、旦那さまは多分執事と思われる方と話されています。その笑顔は自信に満ちて朗らかで、使用人であるわたしを隣に立たせていることなど、なんとも思っていないように見えました。
いえ、実際、旦那さまにとってはそうなのでしょう。
ですが――そう。
わたしは、使用人なのです。
こういう舞踏会などではお客様の視界に入らないように、裏で動き回る側のはずなのです。
それなのに、なぜ、こんなドレスを着て、キラキラと輝くシャンデリアの下に立っているのでしょうか。
「さあ、エイミー、こっちだよ」
もう何一つまともに考えられなくて突っ立ったままでいるわたしに、旦那さまは晴れやかこの上ない満面の笑みを向けてこられます。
旦那さまの笑顔を雑巾か何かで拭い取って差し上げたいと思ってしまったのは、初めてお会いした時からこの方、今日が初めてです。
そんなわたしの不穏な心中など全く気付かれていらっしゃらない様子で、旦那さまはわたしの手を腕にかけると、迷いなくさっさと歩き始めてしまわれました。
馬車の中へと駆け戻ってしまいたくなる衝動をこらえながら煌びやかな廊下を歩くうち、気付いた時にはもうとてつもなく広い舞踏室に立たされていました。
舞踏会はいつから始まっていたのか、もう宴もたけなわという感じで、たくさんの紳士淑女が音楽に合わせて優雅に踊っていらっしゃいます。
ボールドウィン伯爵家でも舞踏会が催されることがありますが、ここは王城、豪華さはその比ではありません。
まさに、別世界、です。
旦那さまはともかくとして、わたしはあまりに場違いです。
ふとめまいに襲われて、とっさに伸ばした手が旦那さまの上着の袖を掴んでしまいました。
「エイミー、どうかした?」
どうかしたかと言われても。
何も答えられずにただただ見返すだけでいるわたしに、旦那さまはふと眉をひそめられました。
そうして。
ふいに伸ばされた旦那さまの指先が、わたしの耳をかすめました。
ほんの一瞬だけ触れて離れたその感触にゾクリとして、思わず身震いしてしまいます。
「寒い?」
寒い、というか――
「ちょっと、寒気が……」
そう、寒気、としか言いようがないのですが。
わたしの返事に、旦那さまは何とも形容しがたい奇妙な表情になられました。しばらくそんな複雑な顔をされていましたが、気を取り直そうとするかのように小さく咳払いをして、にっこりと笑顔になられます。
「取り敢えず、一番大事な用件を終わらせてこようか」
「用件……?」
説明を求める意味でかろうじてその一言だけ繰り返しましたが、旦那さまは何もおっしゃってくださらず、わたしの背中に手を回して歩き出されました。
ひしめき合う人たちの間を縫うようにして進む旦那さまに、付いていくのがやっとです。お声をかける余裕なんて、欠片もありません。
わたしと違って旦那さまの足取りは迷いがなくて、どんどん奥へと進んでいきます。
そうして、辿り着いたのは。
「おお、ようやく来たか」
そんなお言葉と共に満面の笑みで旦那さまとわたしをお迎えになられたのは、もしかしなくても、王さまです。
ええ、間違いなく――間違いようのなく。
平民のわたしが手を伸ばしたら届きそうな距離に立てるなど、有り得ないお方のはず。
凍り付いたようになっているわたしを、王さまはしげしげとご覧になられました。
「その娘が、例の――?」
「はい。エイミー・メイヤーです」
旦那さまの頷きに、王さまは何か考え込むように顎ひげをしごいていらっしゃいます。
「『許可』な。必要ないように見えるが?」
「私個人としては不要なのですが、王の一言をいただければ口さがない雲雀達の囀りが少しは静かになるかと思いまして」
「ああ、まあ、それはそうかもしれぬな」
わたしについてのお話のようですが、わたしのことは置いてけぼりです。その遣り取りを理解していらっしゃるのはお二人だけですよね。
わたしのことなのにわたしには解からない会話をされて、ちょっとムッとします。
「取り敢えず、約定通り、余は何でも認めてやるぞ? ああ、何なら、今この場で余から皆に知らしめてやっても良いが」
「そこまでは結構です」
愛想の良いお顔できっぱりそうおっしゃった旦那さまに、王さまはとても残念そうな様子で肩をすくめました。
「遠慮せずとも良いのだぞ?」
「遠慮ではありません。では、陛下。私たちはこのあたりで」
「ああ、そうだな。仲睦まじいところを皆に見せつけていってやれ」
旦那さまにはニヤニヤ笑いを向けておられた王さまでしたが、わたしに向き直られた時には、とても真面目で厳粛なお顔になっていらっしゃいました。
真っ直ぐに見つめられて、思わず背筋が伸びてしまいます。
「エイミー、そなたの父上とは、余も幾度か言葉を交わしたことがある。確かに位は高くなかったが、素晴らしい軍人だったよ。軍人としてだけではなく、ヒトとして、若い者の道標となる男だった。彼の下についた者は皆、今でも彼を尊敬している。彼らも今では上に立つ立場になっていてな、かつてクレイグ・メイヤーから教えられたことを受け継ぎまた伝えているよ」
王さまは、とても真摯なお顔でそうおっしゃってくださいました。
きっと、お世辞などではないのでしょう。
雲の上のお方からお父さんのことを褒めていただくのは、不思議な感じです。
わたしにとってのお父さんは、寡黙だけれども温かくて優しい、ごくごく普通のお父さんでしたから。
「……ありがとうございます」
下げた頭をまた上げると、包み込むようにお優しい王さまの眼差しがありました。その視線が、旦那さまへと移ります。
「幸せにしてやれよ」
「もちろんです」
王さまに対する旦那さまのお声は、少しムッとしているような響きを含んでおられるような。
「さあ、行こう、エイミー」
王さまのクスクス笑いを背中で聞きながら、わたしと旦那さまは御前を後にしました。
王さまにお会いになるのがご用だったのなら、もう帰れるのでしょうか。
そう思って小さく息をつきましたが、旦那さまが向かっておられるのは大きな扉のある出入り口の方ではありません。
むしろ、この広い舞踏室の中央の方に進んでいるような。
そして、そちらの方では、身体をピタリと寄り添わせた何組もの男女が優雅に踊っていらっしゃいます。
「あの、旦那さま……?」
恐る恐るお声をかけてみると、とても良い笑顔が返ってきました。
「僕たちも少し踊ろうか」
何をおっしゃるやら。
わたしにダンスなんてできるはずがありません。
けれど、そう言おうとしたわたしに先んじて、旦那さまはわたしの手を取り腰に腕を回して動き出してしまわれました。
わたしの足運びなんて滅茶苦茶ですのに、旦那さまにとっては全然問題にならないようです。
こんなに人がひしめき合っているのに、旦那さま以外には少しも触れることがなくて、まるでわたしと旦那さましかいないかのようでした。
ずっと床から浮かび上がっているようにふわりくるりと操られているうちに、なんだか不思議な気持ちになってきました。
笑うつもりなんて少しもないのに、自然と頬が緩んでしまいます。
最初のうちは旦那さまの足を踏んでしまわないようにとつま先から目が離せませんでしたが、いつの間にかそんな心配は消え失せました。
ふと何かに引かれるように顔を上げると、すぐ目と鼻の先に旦那さまの顔があって。
わたしと目が合うと、旦那さまはゆっくりと微笑まれました。
それは、とても優しげで嬉しそうな、幸せそうなもので。
それを見た瞬間、何故かわたしの心臓は変なふうに脈打ちました。
何でしょう、この感じ。
胸が無性にドキドキして苦しくて、身の置き所がないような、逃げ出したいのに動けない、色々な気持ちが入り混じってよく解かりません。
旦那さまの真っ青な目を見つめていると、なんだか目眩のようなものも襲ってきて。
――まるで催眠術でもかけられたようで、今また『求婚』されたら、即座にうなずいてしまうかもしれない。
ふと、そんな考えが頭の中をよぎってしまったのは、いったいどういう加減でしょう。
とっさにまた顔を伏せて、時々ドレスの裾から覗く爪先に視線を集中させました。
しばらく踊りを続けましたが、さっきまでの楽しさはなくなっていて、早く終わらないかとばかり思ってしまいます。
そんなわたしの胸の中の声が聞こえたのか、少し唐突な感じで、旦那さまの足が止まりました。
「エイミー、疲れた?」
反射的にかぶりを振りかけましたが、疲れたと言えば帰らせていただけるかもしれません。
「はい、少し」
「そうか。じゃあ、あちらで休もう」
――まだ、帰れないのですね。
優しいのですが有無を言わさぬ旦那さまの手が腰に回され、踊りの群れから離されました。
「ちょっとここで待っておいで。何か飲み物を持ってくるから」
こんなところに独りで残されるのは、甚だ不安です。ですが、行かないで下さいと申し上げるわけにもいかず、黙ってうなずきました。
旦那さまは束の間わたしの頬に手を触れて、何を思われたのか、空いている方の頬にそっとキスを落とされました。もしかしたら、わたしの不安が透けて見えてしまったのかもしれません。
「……すぐ戻るからね」
顔を上げた旦那さまはそうおっしゃって、足早に離れて行かれました。
――旦那さまが行ってしまわれてから、ほんの数秒後。
「失礼、お嬢さん。僕と踊っていただけますか?」
誰とも目が合わないようにうつむいていたはずだったのに、そう声をかけられてついそちらに向いてしまいました。
そこにいらっしゃったのは、わたしよりもいくつか年上の男の方です。
「よろしいですか?」
もう一度尋ねられても、どうお答えしたらよいのか判りません。
お断りしたいですが、そうしても良いのでしょうか。
それとも、それはとても失礼なこと?
わたしはここに旦那さまと来ているのですから、間違いを犯しては旦那さまの恥になってしまいます。
「さあ、参りましょう」
黙っていたら手を取られ、踊りの輪の中へと連れ出されてしまいそうになりました。
焦って手を振りほどこうとしたところへ、横から声がかかります。
「あら、エイミー」
振り返るより先に、わたしの手を握っている手がその男の方のものから、もっと繊細な、レースの手袋に包まれた女性のものに取って代わられました。
手から腕、腕から肩へと辿っていくと、そこにいたのは――
「セレスティアさま……」
お名前を口にすると、セレスティアさまはあの艶やかな笑みを返してくださいました。
この方は、以前に旦那さまとお付き合いをなさっていらっしゃった方です。そう言えば、あれきりご無沙汰でした。
あの時、旦那さまは、セレスティアさまとは何もないのだとおっしゃっておられましたが……
「久しぶりね。相変わらず可愛らしいわ。あら、ごめんなさいね。わたくしたち、積もるお話がありますの」
後半は、わたしに声をかけてこられた男性へ向けたものです。彼は諦めたように苦笑して、小さな一礼と共に去って行かれました。
セレスティアさまは一歩下がってわたしを眺め、どことなく満足そうにうなずかれました。
「とても良くお似合いね。メイド服も可愛らしいけれど、そういう姿も素敵だわ。セドリック様のお見立てかしら?」
……お褒めのお言葉はうれしいですが、このような格好がわたしにそぐっているとは思えません。
うつむくと、視線を感じます。
黙ったままのわたしにお気を悪くしたふうもなく、セレスティアさまはあたりを見回されました。
「それで、エイミー。セドリック様はどちらかしら? こんなところであなたを一人にさせておくなんて、狼の群れの中に子羊を放り込むようなものでしてよ。考えなしもいいところですわ」
セレスティアさまは旦那さまに対して憤慨されているようで、滑らかな眉間に今はしわが深く寄っています。
「旦那さまは、あちらに飲み物を取りに行ってくださって……」
「あら、そうでしたの? なら、すぐにお戻りなのね」
そうおっしゃって、旦那さまがおられる方へと首を巡らせたセレスティアさまの目が、スッと細められました。
「……まあ。山猫の群れに捉まってしまったようですわ」
――山猫?
釣られてそちらへ目を向けると、五、六人の女性に取り囲まれた旦那さまのお姿があります。
どの方も皆、とてもお綺麗です。
わたしとは違って、いかにもこの場にふさわしい方たちばかりです。
そもそも比べるのが愚かというものなのですが、ふぅっと気持ちが沈みこんだ気がしました。
ついつい肩が下がってしまうわたしをよそに、セレスティアさまが腕を絡めてこられます。
「さあ、エイミー。セドリック様を救出しに行きましょう」
「でも、旦那さまのお邪魔をしては……」
「何を言うの。今日のセドリック様のパートナーはあなたでしょう?」
わたしのためらいを高らかに笑い飛ばして、セレスティアさまは歩き出されてしまいます。
人込みを縫いながら旦那さまの下へと向かう間も、セレスティアさまのお口は止まることがありません。
「セドリック様も、だいぶ以前のあの方に戻りましたわね。帰ってこられたばかりの頃は、もう、暗くて湿っぽくて。やっぱり癒しの源が傍にあると回復も早くてよ」
癒しの源……
――今、旦那さまの周りにいらっしゃるような、ご婦人方のことでしょうか。
最近は、お戻りが夜遅くになることはありませんでしたが、お出かけの時にはきっと色々な方とお会いになっていらっしゃったのでしょう。
急に、旦那さまのお近くに行きたくなくなってきました。
「エイミー? どうかしまして?」
こちらに背を向けている旦那さま方のすぐ傍まで来て立ち止まったわたしに、セレスティアさまが怪訝そうな目を向けてこられます。
この胸の中のもやもやした思いをうまく説明できなくて、促されるまま足を進めようとしました。
けれど。
「……で、あの方はどちらのご令嬢ですの? あたくしたち、誰もまだお見かけしたことがなくて」
旦那さまの前にいらっしゃる方のその問いかけに、肩をすくめられたのか、お笑いになったのか。
小さく旦那さまの肩が揺れます。
「彼女は私の恩師であり命の恩人でもある方のご令嬢だよ。彼女の父上は初陣で何も知らなかった私に一から全てを教えてくれたんだ。それに、それだけではない。彼は、私たちの部隊を護って命を落とされたんだよ。どれほど言葉を尽くしても表しきれないほどの大恩ある方だ。私は彼と、必ず彼女を幸せにすると約束してね」
ざわめきの中、旦那さまの声ははっきりとわたしの耳に届きました。
恩師。
命の恩人。
――約束。
ああ、そうでした。
旦那さまにとって、わたしのお父さんはとても大事な人。前にも、そうおっしゃっていたではないですか。
つまり、それは、端的にまとめてしまうと『義理』と『義務』ということです。
そう言えば、旦那さまが戻られてすぐの頃、旦那さまがわたしに『求婚』された時、わたしは、そのお言葉の裏のお気持ちをそんなふうに考えたことがありました。
先ほどの旦那さまがおっしゃっていたことは、それを裏打ちするものです。
少し、わたしもおかしなことを考えそうになりましたが、そうなる前で良かった、です。
――ええ、本当に。
わたしはくるりと踵を返し、その場から遠ざかりました。
「エイミー?」
セレスティアさまの呼びかけが聞こえましたが、止まれません。
歩きづらい踵のある靴が許してくれる限りの速さで歩き、気付くと、いつの間にか、バルコニーに立っていました。
わたしの他には誰もいません。
独りきりです。
手すりに両手を置いて大きく息を吸って、吐き出します。
薄手のドレスに夜気はヒンヤリとしていますが、頭をすっきりさせるにはちょうど良いものでした。
もう一度、頭の中で先ほどの旦那さまのお言葉を繰り返してみます。
わたしは、旦那さまの『恩師』で『命の恩人』である者の、娘。
旦那さまは、お父さんと、わたしを幸せにすると『約束』した。
――だからこその、『求婚』なのですね。
それがご自分の義務、為さねばならないことだと思われているからこそ、あんなふうに強引に、がむしゃらにことを進めようとされていたのでしょう。
――そんな必要なんて、これっぽっちもありませんのに。
わたしは今でも充分幸せです。
旦那さまのお世話をして、旦那さまのお役に立つことができていれば、それで良いのです。
そうさせてくださっているだけで、旦那さまは充分にお父さんとの『約束』を果たせているのです。
だから、別に、『妻』になる必要なんてないはずです。
奥さまには、先ほどセレスティアさまがおっしゃったように、ただ傍にいるだけで旦那さまを癒してさしあげることができるような方がふさわしいのではないのでしょうか。
わたしのように、お世話をさせていただくことで初めてお役に立てるような者ではなく。
そんな当然のことを考えて、なぜか、ため息がこぼれました。
急に寒くなったような気がして、ふるりと身体を震わせた、その時。
「エイミー?」
低く静かな声で名前を呼ばれ、全身が固まりました。そちらに向き直らなければ、と思っても、なぜか身体が思うように動きません。
手すりに両手を置いて庭を見つめたままでいると、両の肩に手が置かれました。その温もりが誰のものなのか、お姿を目にしなくても判ってしまいます。
くるりと方向転換させられると、すぐ傍に心配そうな青い目がありました。
「エイミー、こんな所にいたら冷え切ってしまうじゃないか」
旦那さまはそうおっしゃって、脱いだ上着をわたしの肩に掛けてくださいます。そうして、眉根を寄せました。
「こんな場所で独りきりになっては駄目だよ。人目がないとバカなことをしでかす輩が山ほどいるんだからね」
そうおっしゃる旦那さまの目は、わたしの頭の中を覗き込もうとしているかのように、ほんの少し眇められています。切り込んでくるようなその眼差しに居心地が悪くなって、つい、目を逸らしてしまいました。
と、両肩にあった旦那さまの手がするりと動いて、頬を包み込んできます。優しいけれども断固とした力がそこには込められていて、旦那さまと視線が合うように顔を仰向けられてしまいました。
「エイミー。さっきの僕の考えを聞いていたんだろう? 僕がどうしたいかは、もう解かっているんだよね?」
低いのに、否が応でも耳に届いてしまう声。
旦那さまのお考え。旦那さまがなさりたいと思っていること。
それは、わたしを幸せにするという、お父さんとの約束を果たすこと。
「はい」
答えると、旦那さまはホッと小さく息をつかれました。
「なら、僕が求婚したことを覚えているだろう? それを受け入れてくれるんだよね?」
念を押すように繰り返すそのお言葉には、うなずけませんでした。
わたしの沈黙をどう受け取られたのか、また少し、旦那さまの目が細められます。
「身分差というところを考えると誰かの家に養女に入ってもらうという手もあるけれど、君にはクレイグ・メイヤーの娘のまま僕の妻になって欲しいんだ。君にとって、お父さんのことは大きな誇りだと思うから」
ええ、旦那さまのおっしゃる通りです。
わたしにとってお父さんは自慢のお父さんで、お父さんの娘であることは誇らしいことです。
でも、旦那さまのそのお言葉は、わたしの中の確信を強めるものでもありました。
――旦那さまは、お父さんの娘であるわたしに強い義務感を覚えているのだということを。その義務感から、お父さんとの約束を果たす手段として、『求婚』してくださったのだということを。
それは、正しいことではありません。
だから、真っ直ぐに旦那さまの目を見てお答えしました。
「そんな必要はありません」
「……え?」
「わたしに求婚なんて、必要ありません。旦那さまは、旦那さまにふさわしい奥さまをお迎えください。わたしはずっとお傍にいさせていただければ、ずっとお世話をさせていただければ、それで充分幸せです」
きっぱりとそうお伝えすると、わたしの頬を包んでいる旦那さまの指先に力がこもりました。
「君はそれでも平気なんだ? 僕が誰か他の女性と結婚しても?」
そのお言葉で、きれいな女性に取り囲まれた先ほどの旦那さまのお姿が頭をよぎります。
途端に、みぞおちの辺りが火に炙られたような気がしました。
平気、ではないかもしれません。けれど、平気にならなければなりません。
「なぜ、わたしが気にするのでしょう?」
目を逸らさずにはっきりとそう申し上げた瞬間、旦那さまの頬が、まるでどこかを抉られたかのように歪められました。