ある日の朝食◇サイドC
ああ……また、こんな時間か。
目蓋を通して目を射てくる明るさに眉をしかめながら、まだぼんやりとしている頭で呟いた。
カーテンが全開にされた窓から燦々と降り注ぐ陽射しは、どう見ても、朝というより昼のものだ。
だいぶ前にエイミーに一度起こされたことは覚えているのだが、どうやらまた二度寝をしてしまったらしい。
いつものこととは言え、何となく、エイミーに対して後ろめたいというか、何というか、そんな気分になる。言うなれば、宿題が終わらぬままに家庭教師の訪問を待っている時の気分というか。
欠伸をかみ殺しながらベッドを下りて、エイミーが用意してくれた着替えに手を伸ばした。と、そこでノックの音が響く。
この音はエイミーではないから……ジェシーか。
「入れ」
着替えながらそう返すと、姿を現したのはやはりハウススチュワードのジェシーだった。手に、いくつも書類を持っている。
「おはようございます、セディ様」
「おはよう、ジェシー」
「朝早くに申し訳ありませんが、至急、確認していただきたい書類がございます」
『朝早く』。
この時間でそんな言葉をエイミーが聞いたら、眉をひそめそうだ。きっと、いつものように生真面目な顔を保ちつつ、納得いかない、という色をあの大きな目に浮かべるのだろう。
その顔を想像して、思わず忍び笑いを漏らしてしまう。
彼女の表情はあまり変わらず、思ったことをあまり口にも出してくれないが、何を考えているかは結構読み取れるのだ。
「何か?」
「いや、別に」
いぶかしげに片方の眉を上げたジェシーを適当にごまかして、書類に手を伸ばす。
「見せてくれ」
それは、地方の領地にあるワイン畑で病気が発生し、収穫が平年の半分以下に落ち込みそうだという報告だった。もう少しで収穫だったというのに、気の毒な。
「税を免除してやれ」
「減額ではなく?」
「免除でいい。来年どうなるか、判らないだろう? 必要ならこちらから援助してやれ」
「承知いたしました。さっそく、そのように手配します」
「頼む」
と、書類をジェシーに返そうとしたタイミングで、再び扉が叩かれる。
この音は、エイミーだ。
「入っていいよ」
入ってきた彼女は、朝食のトレイを手にしている。
「おはよう、エイミー」
「おはようございます、ジェシーさん」
「食事だね。では、こちらは片付けるとしようか」
「ありがとうございます」
ペコリと頭を下げたエイミーに、ジェシーは目元に微かに笑みを刻んでいる。普段、滅多に表情を崩すことのないこの堅物のハウススチュワードが。
彼は僕の祖父の代からこの家に仕えてくれている。
僕がよちよち歩きの子どもの頃でさえ、ジェシーは笑顔を見せることなどなかった。
そんな彼が、エイミーに対する時だけは顔の筋肉が緩むのだ。
そして、釣られるように、エイミーもまた、微かに――本当に微かにだが――笑んでいる。
僕の前では、エイミーはいつも生真面目な顔だけだ。今も、こちらに向き直ったら、途端にその笑みはすっかり消え失せてしまっている。
何となく面白くない気分でいる僕の前にエイミーは朝食を置き、紅茶に取り掛かる。
慣れたその手つきを眺めていたら、ソレに気が付いた。
「エイミー、ちょっと手を見せてごらん」
「何ですか?」
「いいから」
いぶかしげな顔で、それでも彼女は僕の手に自分の手を重ねてきた。
小さく、ひんやりとした手。
その指はあかぎれで深く割れていた。水仕事に手荒れは必発だ。予防の為に、使用人たちにはオイルを配っている筈なのだが。
彼女の手を取って黙ったままでいた僕に、エイミーが言う。
「汚れてませんよ?」
顔を上げると微かに眉根を寄せた彼女の顔があった。
「え? ああ、いや、痛そうだな、と思ってね」
言いながら、その深いひび割れに触れる。僕のものの半分もないのではなかろうかという彼女の手に、そんな傷は痛々しすぎる。
僕が触れて痛かったのか、彼女は身じろぎをすると手を引っ込めようとした。
「すみません、見苦しいですね。手袋をしてきます」
その台詞に、思わず手を握ってしまう。あんまり力を込めたら、痛い筈だ。だから、そっと、だが、振り解けない程の力で、握る。
「でも、手袋をしたところで、治るわけではないだろう?」
「見えなくはなりますよ?」
そういうことではないのだが。
見えなくても、痛みは残るだろうに。
「そうじゃなくて、だな……」
仕事熱心なのはいいが、もう少し、彼女自身の事も構って欲しいものだ。毎週日曜日は休みにしているが、彼女は変わらず屋敷の中にいるし、仕事以外の時間も、お仕着せのままだ。
二、三着は娘らしい服を用意させているし、成長に応じてちゃんと作り変えるようにも言っている。着る服はある筈だ。
だが、僕は、彼女がそれらを身に着けている姿を、まだ見たことがない。
可愛らしい顔立ちをしているのだから、もう少し自分を飾れば、男たちも黙ってはいないだろう。きっと、引く手数多だ。
そう思って――その光景を頭に思い浮かべたら、何故かムッとした。
いや、それはまずいな。
数が多ければいいというわけではない。量よりも質だ。エイミーの夫になる男は、経済力があり、包容力があり、見目も良く――何より、彼女を深く愛する者でなければ。
数ばかり寄ってくれば、中にはろくでもない男もいるだろう。エイミーを信じてはいるが、もしかしたら、そんな奴にコロリと騙されてしまうかもしれない。それは、駄目だ。
そんな奴にはやれない。
この子は僕の――
「セディ様。彼女には他に仕事がありますから」
「ん? ああ、すまない」
不意にかけられたジェシーの声に、ハッと我に返った。包んだままのエイミーの手を、放す。解放された彼女は隠すように両手を後ろに回すと、数歩後ずさった。
「じゃあ、ご用がありましたらお呼びください。食器は後で下げに来ます」
「頼んだよ」
ペコンと頭を下げるエイミーを、手を振って送り出す。
ふと隣に目を移すと、ジェシーも彼女を見送っていた。その表情は、らしくなく、柔らかい。
「君には笑うんだな、あの子」
何となく胸の辺りをジリジリさせながらそう言うと、ジェシーは片方だけ眉を持ち上げて僕を見下ろしてきた。
「なんだ?」
「いえ、何も。恐らく、父親と重ねているのでしょう」
ジェシーは、肩を竦めながらそう言った。
「父親……」
その言葉は、僕の胸の中に苦い思いを走らせる。
「セディ様、どうかされましたか?」
「いや――」
眉をひそめたジェシーに、僕はかぶりを振る。ジェシーを含め、屋敷の者は皆、彼女の父親が亡くなっていることを知っている。
だが、その死に様を知る者はいない――僕以外には。
僕だけが、冷たくなっていく手の力の強さを、知っている。
僕だけが、声なき声に込められた懇願を、知っている。
僕だけが、最期の最期まで僕の目を見据えていたその眼差しに潜んだ、狂おしいばかりの祈りを、知っている。
六年、いや、じきにもう七年が経とうとしている、あの出来事。
いつの間にか、そんなにも過ぎていた。
黙り込んだ僕に、ジェシーは静かに一礼し、部屋を出て行く。
僕は、エイミーの幸せを『願う』のではない。
彼女を幸せにするのは、僕の『義務』だ。
それを心に刻みつつ、彼女が淹れてくれた紅茶を、口にした。