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エイミーと旦那さま  作者: トウリン
『伯爵とメイドの攻防』
38/60

二人は違い過ぎるので◇サイドC

 おかしい。

 こんな筈ではなかった。

 しんとした書斎の中、書類を整えるジェシーを頬杖をついて眺めながら、僕はこの三日の間で何度目になるか判らない呟きを、また胸の内でこぼした。


 そう、もう三日が経ったのだ――僕がエイミーに求婚してから。

 それなのに、何も変わらない。

 良くも悪くも、何一つ。


 僕の知る範囲では、男が求婚し、女性がそれを受けると、明らかにその距離感は変化する。いかにも親密な空気を醸し出すものだ。


 それなのに。


 ――何で彼女はあんなに平静なんだ?


 とてもじゃないが、僕といる時のエイミーは求婚してきた相手といるという雰囲気ではない。

 これ以上はないというくらい完璧な『主人に仕えるメイド』だ。

 エイミーはまだ返事をくれていないから、厳密に言えば、まだ婚約は成立していない。つまり、確かに、彼女の態度は正しい。


 ――でも、僕は「妻になって欲しい」と言ったんだぞ?

 愛を告白したも同然な男を相手に、あれほど淡々としていなくてもいいではないか。


 僕の求婚に対してエイミーがどんな反応を示すか、一応、いくつかパターンは考えた。

 だが、僕の中にあったそれらはどれも、基本的には承諾路線ばかりだったのだ。

 予想と大きく外れているこの展開に、さすがに一抹の不安を覚える。

 もしかしたら、その場で返事を要求しなかったから、からかわれたと思ったのか? だが、冗談で求婚するほど僕が軽薄な男ではないということは、エイミーも解かってくれている筈だ。

 大丈夫、求婚自体は、ちゃんと受け止めてくれているに違いない。

 悶々とそう結論付けてはみるが、結局、では何故エイミーがあんな態度を取っているのかというところに戻ってしまう。


 僕にとっては、エイミーに求婚することはもう二年間も考えに考えてきたことだけれど、彼女にとってはそうじゃない。

 エイミーには、考え、頭の中を整理する時間が必要なのだということくらいは、いくら浮き足立っている僕にだって判断がついた。だから、この三日間は返事を催促することなく、触れるのだって挨拶程度のものに留めている。


 ――でも、それにしたって、彼女の方は僕の想いを知っているわけで。


 確かに僕たちの間には身分の差という壁はそびえたっているが、恋愛は、惚れた方が『負け』だ。想いを注ぐ側よりも注がれる者の方が、断然立場は強い。

 僕が想いを告げた時点で、二人の個人的な関係は圧倒的にエイミーの方が有利になったのだ。

 この状況、他の女性なら良いように男を振り回すだろう。

 甘えて、愛の言葉をねだって、賞賛を求める。

 男の方は、彼女の愛を得る為にいいように操られる。

 僕自身はこれまで誰かの愛を求めて行動したことはなかったが、少なくとも、社交の場で目にしてきた恋愛遊戯は、そういうものだった。


 ……そう――恋愛『遊戯』だったのだ。

 僕が今までに見聞きしたり、僕自身が実際に経験したりしてきたことは。


 恋とは駆け引きであり、ただただ楽しむもの。

 失敗しても、いくらでも代わりを探せばよいもの。

 こんなにもままならず――ままならないことが苦しく、こんなにも成功よりも失敗する可能性の方が高く――失敗することが恐ろしいものではなかった。

 恋愛『遊戯』では常に僕は勝者で、相手を翻弄するのは、いつでも僕の方だった。


「たまには僕を振り回すような女性に巡り合ってみたいものだよ」


 まだ若くて愚かだった頃、悪友たちにそう言い放ったこともある。


 ――女性に振り回される、僕。


 つい、笑ってしまいそうになる。いや、実際に小さな笑いが漏れてしまった。

 今まさに、そういう状況に陥っているのではないのか?

 エイミーは、僕を振り回している。

 けれどそれは、彼女への僕の想いを盾にしたものではない。

 ……いっそそうしてくれれば、僕も思うように迫れるのだけれどもな。


 人の気持ちをもてあそぶなんて、エイミーにはそんなことができないのは判っている。そんなことは、頭の片隅をよぎらせることすらできないだろう。

 彼女は、愛を受け取ることでなく、与えることでこそ喜びを覚える子だ。

 エイミー自身が何とも想っていない相手から「愛している」とちやほやされても、全然嬉しくないに違いない。

 それよりも、彼女が想っている相手に静かに愛を注ぎ、尽くす――そうする方が、遥かに幸せを感じるのだろう。


 エイミーは、そういう子なのだ。

 ずっと彼女の傍にいて、彼女のことを見てきたのだから、そんなことはよく解かっている。


 ――けれど、それにしたって、少しくらいは『求愛されている女性』らしいところを見せてくれてもいいんじゃないか?

 僕の口から小さなため息がこぼれる。

 あまりに彼女が素っ気ないから、こちらから一歩踏み込むこともできやしない。

 抱き寄せても逃げていきはしないということは、僕に触れられるのが嫌だというわけではない筈だ――多分。

 中には、日常的に使用人に手を出している腐った貴族もいる。そして、使用人はそれを拒めない。

 だが、エイミーなら、嫌なら嫌だとはっきり言うだろう。

 使用人に対してそんなことをしてはいけません、と、説教だってするに違いない。

 そうしないということは僕の行動を受け入れてくれているというわけで、即ち、僕たちの関係はただの『雇用主と使用人』というものではないと思ってくれているということになるんじゃないか?


 ――全然、そんな雰囲気ではないけれど。

 そんな、理性という名のもう一つの心の声が、すかさず突っ込んでくる。

 この上なく正しいその声に、今度は、特大のため息になった。


「どうかされましたか」

 いつの間にかうつむいていた顔を上げると、ジェシーが書類を整える手を留めて僕に目を向けていた。

 ジッと見つめてくる視線は、鋭い。

 灰色の瞳が、今は殆ど銀色に見えた。


 ――ジェシーとの付き合いは僕のもの心がつく前からのものだから、よくわかる。

 これは、僕のことを気遣ってというよりも、僕が隠していることを見抜こうとしている眼差しだ。


 一瞬、ごまかそうかと思った。

 けれど、ジェシーをごまかせるわけがない。

 特にここ二、三日ばかり――つまり僕がエイミーに求婚してから、彼のその目は一層鋭さを増している。

 悪あがきをしてみたところで、今ぶちまけるか、それとも明日ぶちまけるか、という違いしかないだろう。


「……エイミーに求婚したんだ」

 僕が『求婚』という単語を言い終えた時点で、バサバサと音がしてジェシーの手の中にあった書類の束が床に散らばった。

 狼狽した彼の姿というのは、かなり希少価値が高い。少なくとも、僕は未だお目にかかったことがなかった。


 一瞬固まったジェシーだが、さすがに回復が速かった。彼は丁寧に書類を拾って、背筋を伸ばすと、おもむろに咳払いをする。

「――今、何と?」

「だから、エイミーに、僕の妻になって欲しい、と告げたんだ」

「……」

 ジェシーは、彼らしくもなく押し黙っている。

 何故、ジェシーはそんなに呆然としているんだ? 僕が彼女に求婚するつもりだったということは、彼には言っておいたのに。


 眉をひそめてジェシーを見つめていると、彼はたっぷり一分はかかってから気を取り直すようにもう一度咳払いをした。

「妻に、ですか」

「ああ。前からそうに言っておいただろう?」

「確かに、伺ってはおりました」

 言外に「賛成はしていませんでしたが」という声が聞こえてくるようだ。

 それは無視して、僕は身体を起こすと椅子の背にもたれて肘掛けに腕を置き、両手を組んだ。余裕たっぷり、何の問題もない、という態度を装う。

 そうして、射抜くような眼差しを注いでくるジェシーに、何気ない素振りで、訊く。


「ジェシーは、求婚してからどのくらいで返事をもらった?」

「その場で」

 サクッと返ってきたその一言に、僕は狼狽した。

「――その場で……?」

「はい。私どもは、もう迷う余地などございませんでしたから」

 彼のその台詞は、エイミーは迷いまくっているのだろうと言わんばかりだ。


 いや、だがしかし、迷うのと拒むのとでは、その間に天と地ほどの開きがある。

 エイミーは、拒んではいない。

 ――今は、まだ。


 内心の狼狽を組み合わせた手に力を込めることで押し潰した僕に、そのわずかな動きで全てを見抜いたかのように、ジェシーの目が少し和らいだ。彼は、呆れを含んだ声で続ける。

「まったく……普通は、求婚の前にそれなりの交際期間というものがあるでしょう」

 語尾にはため息が混じっていた。

「エイミーは、大人の男女の間に生まれる感情をまったく理解できていません。それは判ってらっしゃいますね? 十九にはなりましたが、その点ではまだまだ未熟です。ドロシー辺りがせっせと知識と経験談を提供している筈ですが、どうやら耳から耳へと素通りしているようですね」


 ドロシーは二十歳を超えたハウスメイドの一人で、かなり恋愛経験が豊富な子だ。しかも前向き方向に突き進むタイプなので、彼女の話を毎日聞かされていればさぞかし恋愛に対する憧れを掻き立てられるだろう筈なのだが、残念ながら、エイミーには効果がないらしい。


 多分、趣味趣向思考が違い過ぎるのだろう。

 僕はまた、ため息混じりで頷く。

「ああ、解かっている」

「ならば、まずはそこから育てなければならないのでは?」


 もっとな指摘に、抗う言葉などない。

 確かに、普通はそうなのだろう。

 けれど、僕は、先にエイミーを捕まえてしまいたかったのだ。


 妻にしてしまえば、『名』だけは僕のものになる。

 そうしてから、『実』をゆっくりと満たしていけばいい、そう思っていた。


「あの子を妻にしてからでいいと思ったんだ」

「男性として見ていない相手の求婚なんて、受け入れられるものでもないでしょうに」

 また、彼はびしっと痛いところを突いてくる。

 唇を引き結んだ僕に、ジェシーはフッと微笑んだ。

「まあ、想いの形には色々ありますからね。目に見えているものが本当にその通りのものだとも限りませんし。あるいは、思い込んでいるだけだとか、そう思いたがっているだけだとか」

 それは、僕の想いが勘違いだと言いたいのか?


「……僕のエイミーに対する気持ちは、空想や思い込みではないぞ」

 むっつりとそう言うと、ジェシーは小さく微笑んだ。

 何だか、全てを解かっているようなその顔に、腹が立つ。


「サインがいる書類はどれだ?」

 ガラリと話を変えた僕に、ジェシーは器用に片方の眉だけ持ち上げた。その仕草にまたイラッとする。

 だが、ジェシーもこの辺りが話の切り上げ時だと思ったのか、整理し終っていた紙の束を僕に差し出した。


「こちらです」

 結構、分厚い。

 僕は、黙ってそれを受け取り、目を通すと、少し荒っぽい字でサインを残していく。


 ――それきりジェシーは僕の『求婚』に言及することはなくて、僕の中にモヤモヤを残したまま、また数日が過ぎた。


 午前中、三人の兵士の遺族のもとを訪問し、重い心を引きずって屋敷に帰ってきた僕は、一も二もなくエイミーを探した。


 この時間なら、書斎だろうか。

 そう思って向かうと、やはり彼女はいた。

 扉を開けて目に入ってきた姿に、暗く冷えていた僕の胸の中は見る見るうちに温かなもので満たされていく。


「ああ、ここにいたんだね」

 つい、確かめるように、そう声に出して言ってしまう。

 振り返ったエイミーは、右手にはたきを持ったまま、小さく首をかしげた。彼女のちょっとした癖であるその仕草は、まるで小鳥のようだ。


「旦那さま、何かご用でしょうか?」

 エイミーはいつものようにそう尋ねてきたけれど、僕はそれに答える時間も惜しかった。

 真っ直ぐに部屋を突っ切ってエイミーに向かい、最後は腕を伸ばして彼女を引き寄せる。

 怯えさせたくはないからきつく抱き締めることはできないけれど、こうやって腕の中に彼女がいることを感じられると、不思議なほどに安心できた。


 二年前よりも、ほんの少しだけ背は伸びている。それでも彼女は小柄で、僕の中にすっぽりと納まってしまう。

 奇妙な心の動きだとは思うけれど、こうやってエイミーを完全に包み込んでいると、弔問で抱え込んできた無力感が薄らいでいくのだ。


 僕は少し頭を下げて柔らかなエイミーの頬にキスをし、そして顎のすぐ下にある頭のてっぺんにも唇を押し当てた。

 エイミーの身体は温かくて柔らかくて、一度触れてしまうと、腕に力を込めないようにするには自制心を総動員しないとならない。

 だったら最初から手を伸ばさなければいいのかもしれないが、それも無理だ。

 その心境は、天国にいながら拷問を受けているようなものかもしれない。いや、拷問を受けることが判りきっているのに、天国に忍び込むようなものだと言った方がいいか?

 いずれにせよ、エイミーに関わることだけは、やめておけばいいのにという理性の囁きはほとんど役に立たないのだ。


 あと三十秒だけ、という引き伸ばしを三回ほど繰り返した頃だった。


 不意に、腕の中のエイミーが動いた。

 僕がこうしている時に彼女が動くのは、初めてだ。

 戸惑いながらも腕を解くことはできずにいる僕の背中に、小さな手が回る。


 控えめな、抱擁。

 その手が、そっと僕の背中をさする。

 片方だけなのは、右手にははたきを持っているせいだろう。


 そんなもの、床に落として両腕で抱き締めて欲しいと思う。

 けれど、僕が何か言ったり動いたりしたら即座にエイミーはその動きを止めてしまいそうだった。


 たくさんの女性と抱擁を交わしてきたけれど、こんなふうに指一本の動きでも僕をおかしくさせるのは、エイミーしかいない。

 息をひそめた僕の中で、鼓動だけが速まっていく。


 もどかしい。

 じれったい。

 けれど、そんなふうに感じさせる彼女が、そんなふうにしか動けない彼女が、愛おしくてならない。


 エイミーが僕の身体に片腕をまわしたことで、ほんの少し、二人の距離が縮まった。

 細心の注意を払って保っていた距離が、崩れる。その距離ならば、かろうじて理性の手綱を握っていられるだろうという距離が。

 彼女の手がおずおずと僕の背中というか脇腹の辺りを撫でて――小石ほどになっていた自制心は、一瞬にして砂と化した。


 エイミーの背中と腰に回した手に力を込めて、彼女の柔らかな身体を自分に押し付ける。

 届く範囲、絹のような彼女の髪にいくつもキスをする。

 前かがみになっていっそうきつく抱き締めると、華奢な彼女の身体がわずかに反った。


 肌に、直接触れたい。

 けれどたとえほんの少しでも、身体を離したくはない。

 だから、僕は彼女の頭に頬を寄せ、かろうじて届いた小さな耳に唇で触れる。柔らかな耳朶を、そっと食む。


 途端。


 ビクリとエイミーの身体が跳ねた。

 その動きで、僕の頭が一気に冷える。


 ――やり過ぎた。


 その一言が脳裏をよぎると同時に、僕は彼女から腕を引きはがしていた。

「ああ、ごめん」

 掠れた声でそう言ってはみたけれど、何と間の抜けた台詞だろう。

 こんなふうに理性を失うなんて、きっとエイミーを怯えさせた。


 目を反らして、僕は前髪を掴む。

「ごめん」

 もう一度繰り返した。


 が。


 次に聞こえた彼女の言葉に、愕然とする。

「全然平気です。痛くも苦しくもありませんでしたから」


 全然平気?

 痛い? 苦しい?


 ――問題は、そこじゃないだろう?


「……そう、なら良かった」

 呟くように、何とかそれだけ返した。

 僕に、他にどう言えたというんだ。

 あまりの『脈のなさ』にその場にくずおれそうになった僕に、今度は別方向の衝撃が加わる。


「もっときつくてもだいじょうぶです」

 僕は思わず口の中で呻き声を上げる。


 なんで、そんな、僕の理性を粉々に砕くようなことが言えてしまうんだ?


 ――答えは簡単だった。


 彼女の中に、僕の中に燃え盛っている炎のような欲求が欠片もないからだ。


 僕とエイミーは、あまりに違い過ぎる。

 身分云々の話ではなく。


 がっくりと肩を落とした僕にエイミーが心配そうな声をかけてくる。

「旦那さま?」

 覗き込んでくる目の中にも、僕のことを案じる光があるだけで、嫌悪や軽蔑はない。


 ――少なくとも、あんなふうにしても嫌がられてはいないということだな。


 それが救いになるのかどうなのか。

 救いなのだと受け取るべきだと自分自身を鼓舞して、僕は何とか笑みを浮かべた。

「ああ、いや、何でもないよ」

 かぶりを振った僕に、エイミーが更にいぶかしげな眼差しになる。


 これ以上追及されたら、どんどん泥沼に沈み込んでしまいそうだ。

 僕は更なる彼女の声掛けを封じるべく、一歩下がった。

「じゃあ、また後で」

 それだけ残して、書斎から撤退する。


 僕は、負け戦というものは経験したことがない。

 ないが――惨敗した時にはこういう気分になるのだろうと、しみじみと思った。


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