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エイミーと旦那さま  作者: トウリン
『伯爵とメイドの攻防』
37/60

二人は違い過ぎるので◇サイドA

「エイミー、何かあったの?」

「!」

 書斎で暖炉の上の置物の誇りを払っていたわたしは、不意に声をかけられて、思わずはたきを落としてしまいました。

 声をかけてきた人――ゲイリーさんが、わたしよりも早く身体を屈めてはたきを拾って渡してくれます。


「ありがとうございます」

「ごめん、驚かして。でも、何だかボウッとしていたね。具合悪いの?」

 心配そうに眉根を寄せたゲイリーさんに、わたしは急いで首を振ります。

「いえ、全然」

「そう? じゃぁ、何か心配事?」

 小さく首をかしげると、ゲイリーさんはわたしの顔を覗き込むようにしてそう訊いてきました。


 ――心配事、というか、なのですが。


 何をどう言ったらいいのか、判りません。

 旦那さまがわたしに求婚のようなことをおっしゃられてから、七日が経ちました。いえ、「結婚してくれ」とか「妻になって欲しい」とかいう言葉は、普通に考えたら求婚されたのだと思うのですが、本当にそうだと思う程、わたしの頭はおかしくありません。

 お酒はまだほとんどお飲みになってはいらっしゃらなかったようなので、酔っていたというわけではないでしょう。

 となると、お疲れのあまり、頭があまり働いておられなかったとか?

 一番有り得そうなのは、お帰りなられて早々、わたしをおからかいになった、とか?

 ……最後のものが、いちばんそれらしいですね。

 とにかく、あれが本気であったはずがありません。

 現に、この七日の間、旦那さまから同じお言葉が出てくることはありませんでしたし。

 二、三日の間は、また同じような事を言われてしまったらどうしようかと身構えていたのですが、結局繰り返されることはなかったので、ホッとしていました。


 ――ただ、確かにお口の方は良いのですが、行動が、かなり変なのです。


 今朝も、起こしに伺ったらもうお目覚めで、しかも着替えまで終えられていました。

 それだけであれば、お気持ちを入れ替えられたのだろうというだけなのですが……


「旦那さまは、お身体の具合がよろしくないのだと思います」

「え?」

 わたしの言葉に、ゲイリーさんは眉をひそめています。

「ちょっと、旦那さまの言動が変ではないですか?」

「いや、ボク達には以前と変わらないけど――」

 腕を組んで首をかしげたゲイリーさんはそうおっしゃって、不意にハッと真顔になりました。

「まさか、旦那様、君に何かしたわけ?」

「何か?」


 今度は、わたしの方が眉間に皺を寄せてしまいました。

『求婚』はその『何か』に当たるのでしょうか。

 お世話をする為にお傍に行くたびに、抱き寄せて頬にキスをしてくることも?

 思わずわたしは考え込んでしまったのですが、ゲイリーさんはそんなわたしの肩を鷲掴みにしてきました。眉を逆立てて、ちょっと怖いくらいに真剣なお顔になっています。


「ちょっと、旦那様は一体何を!? まさか、嫌がる君に無理やり――」

「別に、嫌なことというわけでは……」

 それに、無理やり、ということもありません。

 わたしの身体に腕を回しても、それは本当にふわりとしたものですし、キスも頬に触れる程度のものです。わたしのような使用人ではなく、他の、たとえばどこかのご令嬢になさるのであれば、軽いご挨拶くらいのものでしょう。

 第一、嫌だと思えばわたしが一歩下がれば良いだけのこと、避けようと思えば簡単に避けられるのです。

 そういう『軽い』ものなので、あんまりむきになって逃げるのも失礼な気がして、結局そのままになってしまうのですが。


 ……あるいは、本気になって逃げようという気にならないのは、もしかしたら、わたしの中にそれを心地良いと感じる部分があるからなのかもしれません。

 だから、わたしが逃げないから、旦那さまもおやめにならないのでしょう。

 きっと、わたしも悪いのです。


 かぶりを振ったわたしに少し安心したように、ゲイリーさんはホッと息をつきました。

「まだ帰ったばかりだからねぇ。随分長いことお預けだったし……」

 何やらぼそぼそ呟いています。


 帰ったばかりというのは判りますが、お預け、とは?

 わたしが首をかしげていると、それに気付いてゲイリーさんがニコリと笑顔になりました。

「まあ、戦場に行くと、誰でも少しは変になるんだよ。特に、旦那様のお立場ではね」

「旦那さまの――お立場……?」

 わたしがその言葉を繰り返すと、ゲイリーさんは少し沈んだような眼差しになって頷かれました。

「ボクなんかは、命令に従えばいいだけだから、ある意味楽なんだよ。責任とか、背負わずに済むから。旦那様は命令を下す立場にいらっしゃったからね。その命令に従う者全員の命の事を考えなければならないんだ」


 それは、戦争で亡くなった人がいたら、旦那さまが責を負わなければいけないということでしょうか?

 今回の戦いで兵士が何人戦場に行ったか知りませんが、少なくとも、何千人もいたはずです。

 その全員のことが、旦那さまの肩にかかってくるということですか?


「そんなこと、ムリです」

 思わず、そうこぼしてしまっていました。

 ゲイリーさんに向けての言葉ではなかったのですが、わたしの声は聞こえていたようです。微かな笑いが耳に届いて、顔を上げると優しげな微笑みがありました。青灰色の目には、理解と共感、そして尊敬の色が浮かんでいます。


「無理なんだけど、旦那様はそうなさらなければいけなかったんだよ。……本当は、誰一人死なせたくなかったんだろうけど、それはそれこそ無理なんだ」

「何人、だったのですか?」

 ――亡くなった方は。

 そう付け加えなくても、ゲイリーさんにはお判りになったようです。


「五十三人、だよ。でもこれは奇跡と言っていいほど少ない数なんだ」


 五十三。

 それが、少ないとはわたしには思えませんでした。


 何も知らないわたしがそう思うのですから、旦那さまはどんなにかおつらいことでしょう。

 そのお気持ちを考えると、胸の辺りに痛みと苦しさの両方が込み上げてきます。

 気付けば、胸元をギュッと握り締めていました。


「旦那様はね、亡くなった兵士の家族全員を尋ねるおつもりなんだよ」

「全員、ですか」

 それは、楽なことではない筈です。

 ただ挨拶をして握手をしてお悔やみを口にして終わるものではないでしょうから。

「……旦那さまは、ご自分を責めていらっしゃるのでしょうか」

 問いかけの形を取っていましたが、わたしにはきっとそうだという確信のようなものがありました。

 そんなことは、使用人に対する普段の旦那さまのご様子から、すぐに判ります。


 ゲイリーさんはそうだとも違うとおっしゃらず、曲げた指の節でそっとわたしの頬に触れて微笑みました。

「もうしばらくの間、ちょっとくらい変でも我慢して差し上げてよ。じきにまた、いつもの旦那様に戻られるから」

「はい」

 コクリと頷くと、ゲイリーさんはうれしそうに笑みを深くされました。

「じゃあ、ボクはもう行くから。仕事の邪魔をしてしまってごめんね」

「いえ、わたしこそ、お話を聞いていただいてありがとうございました」

「話を聞くだけなら、いくらでも。何かあったら、またどうぞ」

 ゲイリーさんは少しおどけたようにそうおっしゃると、ひらりと手を振って部屋を出て行きかけました。が、戸口のところで立ち止ります。


「あ、そうだ。カルロ見なかった?」

「カルロさんですか? だいぶ前に図書館でお見かけしましたが……」

「もういないだろうなぁ。見たらボクが捜してるって伝えておいてよ」

「わかりました」

 頷くと、今度こそゲイリーさんは出て行かれました。


 一人きりになって、機械的に置物にはたきをかけながら、わたしは今のゲイリーさんとの遣り取りをもう一度思い返してみました。


 考えてみたら、わたしが旦那さまと初めてお会いしたのも、やっぱり父の死がきっかけでした。

 この世界でたった独りになってしまって心細くてたまらなかった時に旦那さまが来てくださって。

 抱き上げて「一緒においで」とおっしゃっていただけて、どんなにうれしくホッとしたことか。

 あの時の気持ちを思い出していて、ふと、思い当たりました。


 あの『求婚』は、もしかしたらその延長なのかもしれない、と。


 爵位のある方が平民、それも使用人を妻にだなんて、普通に考えたら有り得ません。

 けれど、責任感の強い旦那さまですから、独りになってしまったわたしの面倒をみなければ、と心に決めておられるに違いありません。今は少し責任感過剰になっているので、何かをすっ飛ばしてあんな話になってしまったのでしょう。

 当初のわたしに対する義務感はもうだいぶ薄らいでいたはずですが、きっと今回の戦いのせいで、何かが変なふうによみがえってしまったのです。あるいは、二年間お留守にされていて、振出しに戻ってしまった感があるのかも知れません。


 ええ、きっとこれです。

 そう思うと、ストンと腑に落ちました。


 わたしはお屋敷に引き取っていただけただけで身に余るほどの幸運だと思っていますし、もう充分面倒をみていただいたと思っています。

 もしも旦那さまがわたしの父の死に対して「償わなければ」と思われたとしても、九年前に抱き締めてくださったことで、充分なものをいただきました。


 雨の中、抱き上げられて、微笑みかけられて、あの時、初めてお会いした旦那さまに思わずしがみ付いてしまいましたが、そうやって誰かの温もりを全身で感じることで、胸の中にぱっくりと開いた傷が癒されたような気がします。


 そう思って、また気が付きました。


 ああ、そうか。

 もしかしたら、今の旦那さまも同じような心境なのかもしれません。

 おつらくて、誰かにしがみつきたいようなお気持ちなのだとか。


 だったら、わたしには旦那さまを抱き締め返すくらいの気構えが必要なのでしょう。

 二年間も離れていたせいか、昔は全然平気だったのに、戻られてからの旦那さまだと触れられると何となく緊張してしまいます。

 けれど、旦那さまのお気持ちを和ませるには、そんな子どもっぽい照れのようなもの、感じている場合ではありません。


 次からは、もっと頑張らなければ。

 そう、決意を新たにした時でした。


 カチャリと扉が開く音がして、わたしが振り向くより先に響いた声が、それが誰なのかを教えてくれました。

「ああ、ここにいたんだね」

 一瞬、胸の中でトクンと鼓動が跳ねるのを感じます。

 これも、以前はなかったことです。

 旦那さまのお声を耳にしたり、お姿を目にしたりすると、脈や体温が一割増くらいになる感じなのです。


 わたしは気付かれないように小さく深呼吸をしてから、振り向きました。

「旦那さま、何かご用でしょうか?」

 その質問にはお答えにならず、午前中の間お出かけになっていた旦那さまは、つかつかと足早に近付いてきます。広い書斎を横切るのに何歩もかからず、部屋の一番奥にいたわたしは、気付いたらいつものように旦那さまの腕の中に包まれていました。


 上着から、ふわりと『外の匂い』がします。

 今日も、誰かのご家族の所へいらっしゃっていたのでしょうか。

 先ほどのゲイリーさんとのお話を思い出して、胸がツキンと痛みます。

 わたしがジッとしていると、旦那さまが動く気配がして、まず頬に、そして頭のてっぺんに、キスが落とされました。

 旦那さまの腕は、これもいつものように、けっしてきつくはありません。抱き寄せられても、旦那さまとわたしの間には、腕が一本入る程度の隙間があります。


 わたしは少し迷ってから、はたきを持っていない方の手を旦那さまの背中に回しました。その手を動かして広い背中をそっと撫でてみます。と、旦那さまが微かに身じろぎするのが伝わってきました。

 大きな身体が一瞬強張って、次いで肩の力がフッと抜けて、代わりにわたしの背中と腰に置かれていた腕には力がこもって、いつもよりもきつく広い胸に引き寄せられました。

 二人の間にあった隙間が無くなって、胸からお腹がピタリと旦那さまの硬い身体にくっついてしまいます。

 旦那さまの胸に押し付けられた頬に何枚もの服の布地を通してドクドクと脈打つのが伝わってきて、喉が詰まったような気がしました。


 鼓動も、温かさも、香りも、旦那さまはわたしとは全然違います。

 それらに包まれていると不思議と心地良いのに、なんだか落ち着きません。

 また上の方で旦那さまが動いて、わたしの耳に何か温かくて柔らかなものが触れました。


 くすぐったい。

 けれど。


 何か色々意識した途端、今度はわたしの身体の方が強張ってしまいました。

 こんなふうに反応してはいけないと思っても、自分ではどうにもできません。


 と、すぐにそれを感じ取られたのか、パッと旦那さまが腕を解かれました。

「ああ、ごめん」


 その『ごめん』は、何に対してのものなのでしょうか?

 きつくしたから?

 旦那さまに寛いでいただくはずだったのに、そんな些細なことで気を遣わせてしまうとは。


「全然平気です。痛くも苦しくもありませんでしたから」

 かぶりを振ってそうお答えすると、何故か旦那さまは苦笑されました。

「……そう、なら良かった」

 こんなことを気にされるということは、まだまだ、旦那さまにとってわたしは小さな子どものようなものだということなのでしょう。でも、もうわたしは、ちょっと力を入れられたくらいでどうにかなってしまうような年齢ではありません。

「もっときつくてもだいじょうぶです」

 ――少なくとも、身体的には。

 けれど、そうお伝えすると、旦那さまはいっそう変なお顔になりました。


 強いて言うなら、甘いと思って口にしたものがすっぱかったような?

 あるいは、贈り物の箱を開けたらびっくり箱だった、みたいな?


「旦那さま?」

「ああ、いや、何でもないよ」

 旦那さまは気を取り直すように小さく首を振って、笑顔になりました。


 でも、その笑顔は無理やり作っていらっしゃいませんか?

 わたしがその疑問を口にする前に、旦那さまは一歩お下がりになりました。

 ……何となく逃げようとしているように見えるのは、きっとわたしの気のせいでしょう。


「じゃあ、また後で」

 そうおっしゃると、旦那さまはクルリと向き直ってそそくさと行ってしまいました。


 わたしの何かがいけなかったのは判ります。

 けれど、いったい、何が?

 いつもと違うことといった旦那さまの背中を撫でたことですが、泣いている子どもとか震えている仔犬とかを見たら、撫でて慰めますよね?


 ――もしかしたら、そんなふうに思ったことが不遜だったのかもしれません。


 また、ゲイリーさんにお話を伺うべきでしょうか。

 でも、今の一連のできごとを頭の中で反芻してみると、急に人に話すのは気まずいことのように感じられてきました。いえ、気まずいというのとは、ちょっと違うかも……

 きっとこれは旦那さまの行動がおかしいせいで、それさえ元に戻ればわたしも以前のようになれるはず。


 ……戻らなかったらどうしよう?


 頭の片隅で囁いたそんな声は、聞こえなかったことにしました。


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