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エイミーと旦那さま  作者: トウリン
『伯爵とメイドの攻防』
32/60

遠く離れて◇サイドC

「いよいよ大詰めですね」

 緊張感の漂うマルロゥ砦の中の一室で、デニスが配る茶を受け取りながらゲイリーが言った。その隣では頭を抱えたカルロがテーブルに突っ伏している。

「もううんざりですよ。早いとこ、帰りたいもんです」

 そう唸ったカルロは、誰よりも勇猛かつ冷静に一騎当千の戦いぶりを見せているのだが、できることが好きなこととは限らない。誰よりも有能に戦えるからと言って、それが好きなわけではないだろう。特に彼は、日常であれば喧嘩を吹っかけられてもへらへら笑いながらのらりくらりとかわしてしまうような男だ。

 僕は彼のセリフに相槌を打つ。

「来る日も来る日も戦いばかり、というのは確かにうんざりだな」

 が、僕のそんな返しにカルロはかぶりを振った。


「いや、むしろ戦ってる方が気が紛れますって。砦に戻ってやることなくなると、この状況がもう辛くて辛くて」

「だから、戦争が辛いんだろう?」

 カルロの意図が読めずに眉をひそめると、彼は盛大なため息をついた。まさに、この世は地獄と言わんばかりに。

「違いますよ、この、野郎ばっかの状況ですよ。どこもかしこも、むさくるしいひげ面と筋肉ばかり。俺には曲線が必要なんです。谷間とかくびれとか。触れなくてもいい。目の保養だけでいい。もうこの際年齢や外見は問いません。夕方になってひげが生えなければ、それだけでいいです」

「お前は、まったく……」

 絶望の呻き声を上げたカルロに、ゲイリーが冷ややかな一瞥を投げた。それを無視して彼はデニスに目を向ける。


「この際、そうだな……なあ、デニス、ちょっとドレス着てみないか? お前ならイケそうな気がする。まあくびれは無理かもしれないが……いや、胸と腰に布でも詰めればイケるか?」

 その目の輝きは、あながち冗談とも言えないようだ。

 どこかにドレスの一枚や二枚くらい、あるんじゃないか? とか何とか、ブツブツと呟いている。

 確かに、デニスはひげが生えない。本人がそれを気にしているのかどうなのかは謎だが、二十歳もいくつか越えている成人男子に対するものとしては甚だ失礼なセリフを吐いたカルロの前にも、デニスは普段と変わらぬ様子でカップを置こうとしていた。


 ――と、思ったが……


「あち、ちょ、デニス、お前!?」

「スミマセン、手ガ滑リマシタ」

 椅子を鳴らして頭の上に降りかかりそうになった茶を避けたカルロに、あからさまな棒読みでデニスが謝った。

「スミマセンじゃねぇよ」

 ぶちぶち言いながら、カルロは熱湯を避けきれずに赤くなった手の甲に息を吹きかける。だが、当然のことながら、誰一人として彼に同情する者はいなかった。皆、冷ややかな眼差しを向けるのみだ。


 ――屋敷にいる時と変わらないな。


 バカみたいな遣り取りに小さく笑いながらそんなふうに思った僕の胸を、ふと風が吹き抜けていく。まるで、ぽかりと孔が開いているみたいに。

 無意識のうちに、僕は胸元を握り締めていた。


 僕と、カルロと、ゲイリーと、デニス。

 ここにいるのはその四人だけ。

 確かに、彼らの態度は屋敷にいる時と変わらない。けれど、屋敷にいれば、僕にお茶を出してくれるのはエイミーの役目だった。


 それが、今は違う。

 もうずっと、あの子の顔を見ることもできず、声を聴くこともできていなかった。


 ――国を離れて一年八ヶ月。


 エイミーと離れてからは、僕には身体のどこかが欠けているような物足りなさが常に付きまとっている。

 特にこんなふうに緊張感が和らぐひと時などは、あの子に逢いたくてたまらなくなるのだ。


 ――あと少し、あと少しで終わる。


 己の不甲斐なさに苦笑しながら、僕は自分自身にそう言い聞かせた。

 一年以上、散々国境線での小競り合いを繰り返してきたが、それももうじきけりが着く。恐らく数日中に、僕たちは雌雄を決する総力戦へと突入するだろう。

 今までのものとは比べ物にならない戦いになる。

 だが、それさえ終われば、帰れるのだ。国へ――あの子の元へ。


 この二年弱で、エイミーは変わったのだろうか。変わったとしたら、どんなふうだろう。

 もう十八、いや、会える頃には十九歳にはなっている筈だ。

 別れた時は十七で、まだ『少女』だった。だが、十九は、もう一人前の女性だ。


 ――離れていた二年は、僕と彼女の関係にどんな影響をもたらすのだろう。


 僕は湯気を立てるカップを口元に運びながら、遠い地へと思いを馳せた。

 届けられる手紙を読む限り、彼女が変化を遂げた気配は皆無だ。

 大人びたエイミーを想像しようとしても、脳裏に浮かぶのは大きな目と丸い頬に幼さを残した、別れた時の彼女の顔だけだ。


 ――そう言えば、そろそろまた手紙が届く頃だな……


 茶を口に含みながら、そんなことを考えた時だった。

 まるで僕の頭の中の声が聞こえたかのようにデニスが懐を探り、ポケットから封筒を取り出した。

「旦那様、手紙が届いていました」

 手渡されたその封筒の中に入っているのは五枚ほどの便箋だ。そのうちの一枚から、ふわりと何かの花の香りが漂う。僕の手は、無意識のうちに真っ先にそれを開いていた。


 書かれているのは、少し丸みのある、可愛らしい文字。

 内容は――短い。


「それ、エイミーのですよね。相変わらず淡白な……」

 ニヤ付きながら、カルロが言った。僕の手元を覗き込まなくても、わずか三行の中身なのは一目瞭然だ。


 『みなさんお怪我無くお過ごしですか』

 『こちらは何事もありません』

 『お身体にお気を付けください』


 既視感。

 彼女の手紙を読むと、まるでひと月前に戻ったような気分になる。


 ――早く帰ってきて欲しいとか、逢えなくて寂しいとか、あと一言あれば……


 いや、エイミーにそれを望むまい。

 かぶりを振って、愚かな希望を打ち消した。

 そうして、一文字一文字を呑み込むようにして、その『手紙』を読む。


 この戦場に来てから、あの子を思い出そうとする時、真っ先に脳裏に浮かぶのは屋敷を発つ時の姿だ。

 少し離れた所に立っていて、普段は桜色の唇が紅色になる程、きつく噛み締めていた。

 怒っているような顔なのに、何故か今にも泣き出しそうにも見えた。

 もしかしたら、エイミーは帰らなかった父親のことを考えていたのかもしれない。

 あの時、渾身の力を込めて、彼女を抱き締めてしまいたかった。

 抱き締めて、泣かせてやりたかった。

 そうして泣き止んだら、もう一度、ちゃんと帰ってくるからと言い聞かせてやりたかった。あの子の頭の奥の奥まで僕の言葉が浸透するまで、何度も、何度でも。

 けれど、屋敷の者が勢揃いしている前でそんなことができる筈も無くて。


 結局、いつものように笑って手を振ることしかできなかった。


 僕はもう一度、手の中の便箋に目を落とす。その素っ気ない三行を読み返し、それを書いているエイミーを頭に浮かべ、そして丁寧にたたみ直して封筒に戻した。

 こんなにも長い間帰らない僕に、あの子は何を考えているのだろう。

 毎回毎回、何の変化もない、手紙。

 屋敷で給仕をしてくれている時のように、淡々として簡潔な、手紙。

 けれど、文字だけでは判らない。

 あの子の目を見て、声を聞いて、頬に触れたい。

 そうすれば、この三行に隠されたエイミーの気持ちが解かる筈だ。


「早く帰りたいですよねぇ」

 のんびりした声に、僕はハッと我に返る。

 僕の、いやこの場にいる皆の気持ちを代弁したのは、ゲイリーだった。

「まあ、あちらももうそれほど余力は残っていないだろうからな。いざ戦いが始まれば七日が勝負だろう」

 溜め息をつくゲイリーにそう返しながら、僕は気持ちを切り替えてジェシーがしたためた手紙を開く。こちらは、いたって事務的なものだ。ジェシーに任せておけば領土の方は問題ない筈で、万事滞りなしの報告書を読む僕の頭は、ついつい他のことを考えがちだった。

 エイミーのこと、そして数日中にあがる筈の戦いの火の手。一たび火花が閃けば、それはあっという間に燃え上がるだろう。


 ――果たして、僕はエイミーとの約束を守れるだろうか。

 ふと、そんな暗い考えが頭の片隅に起こる。


 僕は必ず帰るとあの子と約束をした。

 あの時は、本気だった。今も、是が非でも守る心づもりだ。

 だが、戦争では、得てして個人の望みとはかけ離れた結果が避けられない時もあるものだ。


 もしも、僕が帰れなかったら。


 エイミーは、ひどく傷つくだろう。

 弱気の虫は一度忍び込むとどんどん数を増していく。

 こんなふうに将である僕が気弱なことを考えていると、軍の士気が落ちる。良くない事であることは百も承知だが……


 そんな負の螺旋に陥りかけていた僕は、読み飛ばしていたジェシーの手紙の中に普段は見ない単語を見つけて、ハッと目を奪われた。


 『エイミー』。

 いつも事務的なことしか書かれていない彼の文章の中に、何故か彼女の名前が出てきた。


 ――彼女に、何か……?


 眉をひそめて読み進めるうちに、僕は思わず便箋を引き裂いてしまいそうになった。何とかそれをこらえて文面に目を走らせる。読み終えたら、もう一度。


「セドリック様?」

 奥歯を噛み締めた僕に、デニスが気遣わしげに声をかけてきた。

 その声はちゃんと耳に届いていたけれど、手紙の内容に気を取られて返事をするどころではない。

 読み終えた僕は、それをグシャリと握りつぶす。

「あの――領地で何か不具合でも……?」

 ゲイリーが恐る恐る声をかけてくる。

 領地で問題が起きたなら、ジェシーが何とかしてくれるだろう。これは、彼の力も及ばない最悪の事態だ。


 僕は、呻いた。


「エイミーに、虫がついた」


「……は?」

 この手紙を書いている間のジェシーの様子を、僕はまざまざと頭に思い浮かべることができる。したり顔でほくそ笑むその顔も、まるで見てきたように鮮明だ。

 遠く離れた地でこんなことを教えられても、僕にどうすることもできないことはジェシーだって判っている筈だ。にも拘らず、総攻撃をかけようというこの時に、わざわざエイミーがどこぞの警官と親しくしているなどと書いてきたのは、僕に発破をかけようとしているからに他ならない。


 僕はギリギリと歯噛みする。

 手紙には、年は二十六、警官という荒事を生業にしているが性格は至極穏やかで実直、申し分のない好青年だと書かれていた。


 ――『好青年』。


 屋敷で働く者の人選は、全てジェシーに任せている。

 そして今まで、一度たりとも、彼がその人柄を見誤ったことはない。

 つまり、老練で厳格なハウススチュワードが認めるほどの、良い人間なわけだ――エイミーが出会ったという、その『虫』は。


 ――ならば、万が一の時には彼女を任せられるのでないか……?


 僕の頭の片隅で、理性がそう囁いた。


 だが――


 理性なんぞ、空の彼方に投げ捨ててやる。


「……さっさと帰るぞ」

 ジェシーの目論見は、見事果たされた。癪に障るが、先ほどまでの僕の後ろ向きな考えは、彼のこの報告で一掃された。

 たとえどんなにいい男だろうと、エイミーを他の男の手に委ねるなど、ごめんだった。

 草葉の陰でそっとエイミーの幸せを見守るなど、僕にはできない。

 僕はあの子の幸せだけでは満足できない。エイミーの幸せと僕の幸せ、両方を手に入れる。

 彼女の幸せの渦中に、僕も居たいのだ。それが僕の幸せなのだ。


 ――その為には、一刻も早くそして無事に戦いを終わらせてしまわなければ。


 顔を見合わせる三人をよそに、僕は決意を新たに硬く拳を握り締めた。


   *


 砦の城壁の見張り台から、グルリと眼下を一望する。

 ずらりと並ぶのは士気も盛んな兵士たちだ。戦という熱に浮かされて、その目はぎらついている。陽炎のように揺らめく高揚感が、はっきりと見て取れそうだ。

 数千の眼差しを一身に受けて、僕は大きく息を吸い込む。彼らは、僕の言葉を待っていた。

 彼方へ目を移せば、そこにはやはりひしめく黒山が見える。

 防御態勢を万全に整えた上でのおよそ一年に渡る小戦の連続で、僕たちはこちらの手勢を減らすことなくあちらに損害を与え続けてきた。当初は我が軍の倍近くいた敵軍は、今や半減している。


 数的には、こちらがやや優勢。

 物資的には、あちらがやや優勢。

 そして、地理的には我が軍が圧倒的に優勢。


 負ける戦いでは、ない。


 全員が死力を尽くせば、必ず勝てる。一人一人が死ぬ気で敵を倒せば、必ず勝利はこの手に転がり込んでくるだろう。

 だが、それは僕が望むところではなかった。


 かつて僕は十五人の兵士を率いて戦い、その中の貴重な一人を喪った。

 今の僕はその数百倍の兵士を率いなければならないが、その中の誰一人として失うつもりはなかった。

 そう、もう、誰の夫も、父も、息子も、兄も、弟も、恋人も、死なせはしない。


 一度目を閉じ、また開く。

 そこに居る男たちは『兵士』ではない。皆、『誰かの大事な人』だ。


 僕は詰めていた息を声にして発した。

「諸君、これまでよく頑張ってくれた。見ての通り、今回は敵も総力をあげて挑んでくるだろう。だが、これに勝てば、我々はしばしの平和を手に入れることができる筈だ」


 轟く喊声。


 それがざわめき程度におさまるのを待って、僕は続ける。

「我々は、勝利する。だがそれは、ただ勝つだけでは足りない。我々が手に入れなければならないのは、『圧倒的な』勝利だ」

 一度切り、僕の言葉が彼らに浸透するのを数秒待った。

 シンと静まり返って、一人一人の呼吸の音を聞き取ることすらできそうだ。突き刺さるような視線が、痛い。


 僕は、再び口を開く。

「君たちが戦うのは、何の為だ? 国の為――そこに住む君たちの大事な人たちの為だろう。彼らの為なら、自分は死んでも構わないと思うかもしれない」

 さざめきは、各々が漏らした同意の囁きだろう。

 僕は、頷いている彼らを睥睨する。

「だが、そんなものは自己満足だ」

 きっぱりと言い切った僕に、ざわめきはどよめきに変わる。戸惑ったように互いに顔を見合わせる兵士たちに、僕は畳み込むようにして続けた。


「どうやったら勝てるのか――それは、私が考える。君たちは生きることを考えろ。私の指揮の下では、誰一人として死ぬことを許さない。どんなにみっともなくとも、生き足掻け。敵を屠ることよりも、己を生かすことを考えろ。君たちを待っている者がたとえ一人でもいるのなら、腕を失おうが脚を失おうが生きて帰れ。我が身を犠牲にすれば誰かが助かるなどということは考えるな。君たちが栄誉の為に命を落としたとしても、喜ぶのは君たちのことなど名前すら知りもしない者ばかりだ。君たちが大事に想っている者は、君たちが守りたいと思っている者は、君たちが戻ることを願っている。自分自身を生かすことだけを考えろ。そうすれば、皆が生き残ることになる。それが即ち、我々の勝利となるのだ」


 死なない程度に戦い、そして勝利をもたらせなど、矛盾しているかもしれない。

 だが僕は、戦いが終わった後に屍が山と積まれた光景を目にする羽目には陥りたくなかった。


「君の為なら死んでもいい」なんて、少しも『君の為』になっていない。

 大事な人の為に戦うのならば、生きて帰るということ、それが一番重要なのだ。


 僕は、エイミーの為を想うからこそ、死ねない。

 僕が帰らなければ、きっとあの子は泣いてしまうから。

 エイミーはすでに一度、喪う悲しみを味わった。それを、よりによってこの僕がもう一度あの子に食らわせるなど、絶対にしたくない。


 僕は、もう一度兵士たちの顔を見渡した。

 今の彼らの目の中にあるのは、さっきまでの高揚した熱狂ではなく、もっと堅固な何かだった。


 士気は落ちてしまったか?


 いや、そうではない。

 彼らの闘志は少しも衰えていない。


 僕は、そっと微笑んだ。


 そして、大きく息を吸い込み。


 腹の底から声を張り上げた。


「では、全軍進撃せよ!」

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