嵐の訪れ◇サイドA
わたしたちは、三日ほど前に、旦那さまの領地にあるカントリーハウスから都のタウンハウスへと移ってまいりました。
何故、なのでしょうか。
お仕事をする場がタウンハウスになったからと言って、わたしのすることが変わるわけではありません。同じように、旦那さまのお世話をして、お掃除をして……どこにいても、同じです。
ただ、この時期に急に動いたことに、ちょっと戸惑いました。
いつもなら、まだ二、三ヶ月は領地の方にいる筈なのです。
いつもなら、雪がすっかり溶けて、春の匂いが辺りに溢れてからの移動なのです。
なのに旦那さまは、王さまから文書が届いたからと、一週間ほど前に突然、都に移るとおっしゃいました。
慌ただしく準備をして出発して。
道にはまだ雪が残っていて、ぬかるんでいて、馬車はひどく揺れました。
旅の間、旦那さまはとても気遣ってくださいましたが、そもそも、旅慣れた旦那さまならこの時期の移動が快適ではないことは良くご存じのはずです。タウンハウスにも常駐の使用人はいますから、急ぎのご用なら旦那さまだけが先に行かれて、もう少し気候が良くなってからわたしたちに後を追いかけさせるのが常でしたが――そんなところもいつもと違っていました。
いったい、何事なのでしょう。
わたしがお屋敷にお世話になって、六年――もうじき七年。
こんなふうに予定を変えることなんて、ありませんでした。
いつもと違うということに、胸がザワザワします。
「エイミー、エイミー、俺の可愛い小鳥ちゃん? どうした、何だか背中が暗いじゃないか」
不意にそんな言葉がかけられて、わたしは廊下に置かれた壺を磨いていた手が止まっていることに気が付きました。
顔を上げると、そこにいたのはカルロさんです。
「何だよ、エイミー? 旦那様にイタズラでもされたのか?」
イタズラ?
「まさか。カルロさんとは違います」
眉をひそめてわたしがそう答えると、カルロさんは一瞬目を丸くしました。何をそんなに驚いているのでしょう。
「旦那さまはお寝坊だったり子どもっぽいことをなさったりすることはありますが、カルロさんのようなおふざけはなさいません」
呆れながら言うと、カルロさんはホッとしたような面白がっているような、何だか複雑な顔になりました。
「何だ……俺を引き合いに出すから、ついに我慢ができなくなってちょっかい出し始めたのかと思った」
「え?」
「いやいや、旦那様も辛抱強いなぁ、と思ってね。俺だったらとてもじゃないけど無理だわ」
「何がです?」
「まあ、欲しいものを目の前にしていつまで手を伸ばさずにいられるかっていう話で」
そう言ったカルロさんの顔にあるのはニヤニヤと人の悪い笑みです。カルロさんの言葉は何だか的を射てませんが……
「……旦那さまは紳士ですから、カルロさんよりも自制心がお強いのですよ」
「そうかもねぇ。けど、欲しいものを欲しいと簡単に言えないなんて、俺はゴメンだな。お気の毒なこった」
「ですが、旦那さまはお金持ちですから、本当に欲しいと思ったら買えるでしょう?」
「まあ、金じゃなんともできないものが、この世にはあるからなぁ。いや、他のお貴族様なら、それすら金で何とかするかもしれないけど――」
カルロさんが、しげしげとわたしを見つめてきます。
「何ですか?」
「いや……禁欲主義も難儀なもんだな、とね」
禁欲主義、とは誰のことでしょうか。今の会話の流れだと旦那さまということになりますが、その言葉には当てはまらないと思うのですが。旦那さまには女性のお知り合いがたくさんいらっしゃいます。そういうのは、『禁欲的』とは言わないのではないでしょうか?
首をかしげたわたしにカルロさんはフッと微笑むと、ポンポンとわたしの頭を叩きました。
「まあ、時期が来たらあの独り我慢大会にご褒美をあげてやんなよ」
――やっぱり、意味がよく解かりません。
わたしが眉をしかめると、カルロさんはニヤッと笑いました。
「傍で見てると面白いから、もう少し引っ張ってくれてもいいけどな。ああいう人がどこまで耐えられるのか、限界まで見てみたい気もする」
そう言うと、わたしに謎を残したまま、カルロさんはくすくすと笑いながら行ってしまいました。
――そんなカルロさんとの意味不明な会話があったその日の夜のことです。
旦那さまが、お屋敷の使用人をみんなお集めになりました。
タウンハウスはカントリーハウスのようにたくさんの人数はいませんが、それでもこんなふうに全員をお呼びになられるのはこれまた今までなかったことで、わたしは心臓がどうしようもなくドキドキしてなりませんでした。
「何なんだろね? エイミー、何か聞いてる?」
そう訊ねてきたのは、ドロシーさんです。ドロシーさんはわたしの後からボールドウィン家に来られましたから、当然、わたしと同じように旦那さまがこんなふうにされるのは経験がありません。
「わたしも、何も……」
「まさか、財政難で一斉解雇、とか」
「まさか」
それは絶対にないでしょう。すぐにわたしがそう返すと、ドロシーさんも肩をすくめて頷きます。
「だよねぇ」
そんなふうにヒソヒソ話をしていたわたしたちでしたが、扉を開けて入ってきた旦那さまのお姿に、どちらともなく口を噤みました。
背筋を真っ直ぐに伸ばした旦那さまのご様子に、いつもと違うところは無いように見受けられます。
心配するようなことは、何もないのかもしれません。
そんな期待を込めた視線を注ぐわたしたちの前に立たれると、旦那さまはグルリとみんなを見渡しました。
そうして、おっしゃったのです。
「しばらく屋敷を留守にすることになった」
と。
*
日曜日になって、わたしはこの六年間で初めて、自分の為の用で外出をしました。毎週日曜日はお休みなので自由にしても良いのですが、特に出かける必要も無かったので、いつもお屋敷の中で本を読んだり、繕い物をしたりしていたのです。
今わたしが立っているのは町外れにある墓地で、わたしの前には二つの墓石がとても仲良さそうに並んでいます。しゃがみ込んで手にした花を一輪ずつお父さんとお母さんの前に置きました。
お昼を少し過ぎた時間ですが、冬空はどんよりと曇って今にも雪がひらひらと舞い降りてきそうです。
「お父さん、戦場って、どんなところなのでしょう?」
手を伸ばして薄らと積もった雪をどけながら、そう問いかけました。冷たさにジンジンと疼く指先を口元に持ってきて、ハァッと息を吐きかけましたがあまり温まりません。
辺りには他に誰もおらず、しんと静まり返った空気には、わたしの声だけが溶けて消えていきました。
お墓の石に声をかけても返事が無いのなんて、もちろん、判ってます。
でも、訊かずにはいられなかったのです。
「旦那さまが、行ってしまわれるんです」
そう呟くと、一気にそれが現実のものとして身に迫ってきました。
お腹の辺りがギュウッと締め付けられるように痛んで、心臓もドクドクと、いつもよりも強く打っているような感じがします。
お父さんが出発されるのを見送った時は、絶対にまた帰ってくると信じていました――お父さんの、必ず帰ってくるよ、という言葉も。
ですが、今は、駄目です。
旦那さまが帰って来られなかったらどうしよう。
旦那さまからお話があってからというものそんなふうにばかり思ってしまって、お仕事中もぼんやりしてしまうことがしばしばでした。
毎朝毎朝、目覚めた時に今日こそは帰ってくると思って、毎晩毎晩、眠りに就く時に明日こそは帰ってきますようにと願って。
そんな日が、またやってくるのです。
あの時はその先にある絶望を知りませんでしたから、ただ無邪気に待っていることができました。約束は違えられることはない、お父さんは必ず帰ってくると信じて。
でも、今は……
わたしは、もう、大事な人が帰って来ないというのがどんなものか、大事な人と二度と会えないということがどんなものかを、知ってしまいました。
そして、約束は守られないこともあるということも。
それを、まだ、忘れていません――忘れられる筈がありません。
もしも、旦那さまがお父さんと同じように帰って来なかったら……
その『もしも』だけで、わたしの足の下の地面がぐずぐずに溶けてしまったような感じになりました。
イヤです。
ムリです。
耐えられません。
わたしは膝に額を押し付けて漏れてしまいそうな声を押し殺しました。
確かに、旦那さまの元を離れて、他所でお仕事をいただこうかと思っていました。
けれど、元気で過ごしておられるのが判っている旦那さまから離れるのと、帰ってくるかどうか判らない場所へと旦那さまが行ってしまうのとでは、全然違います。たとえ同じくらい距離が開こうとも、全然違うのです。
「旦那さまは、ひどいです」
わたしを、また、こんな気持ちにさせるだなんて。
こんなふうにわたしの大事な人になっておいて、遠くに行ってしまうだなんて。
……きっと、帰って来ないのです。
だって、お父さんと同じところに行かれるのですもの。
ずっと、わたしが望む限り傍にいてくれるとおっしゃってくれたのに。
「ウソつき」
思わず、わたしの口はそうこぼしていました。
と。
「誰がだい?」
恨みがましいわたしの一言に応えるような、優しいお声。
弾かれたように振り返った先に立っておられたのは、その『ウソつき』でした。
『ウソつき』――旦那さまはゆっくりと二、三歩足を進めたところでふと立ち止まり、しゃがみ込んだまま何も言えずに見上げているわたしをしげしげと見つめてきました。そうしてまた、今度は少し足早に近寄って来ると、身体を屈めてそっとわたしを引っ張り上げました。
立ち上がったわたしの両方の肩に、旦那さまの手の温もりがジンワリと沁み込んできます。わたしの両肩に手を置いたまま、旦那さまはジッとわたしを見つめてきました。
わたしに注がれるその眼差しにあるものは、何なのでしょう。口元は、キュッと引き結ばれています。
なんだか、どこか痛みをこらえているような、そんなふうにも見えます。いつも余裕綽綽、どんな時でも優しい笑顔を絶やさない旦那さまの辛そうなお顔に、わたしの胸も苦しくなりました。
少しちゃらんぽらんに見えるぐらいの旦那さまの方が、旦那さまらしいです。
「だん――」
呼びかけようとしたわたしの声は、けれど、途中で喉の奥に引っかかってしまいました。
だって、旦那さまの腕が動いて、わたしの身体が旦那さまのコートにすっぽりと包み込まれてしまったから。そうして、頬に押し当てられた温もりから聞こえてくるゆったりとした鼓動に、耳を奪われてしまったから。
頭の後ろと腰の横の方に、力強くて大きな手を感じます。多分、コートの裾を握っているのでしょう。手のひらではなくて、少しゴツゴツした、拳の感触。
――きついくらいに力がこもっているのに、同時に優しく感じられるなんて、有り得るのでしょうか。
「冷たい」
少し置いて頭の上から聞こえてきた声に、ハッと我に返りました。冷たいのも当たり前です。冷たい空気の中に長い間いた者をコートの下に入れたのですから。
「すみません」
頭の後ろに回された手で頬が旦那さまの胸元に押し付けられているので、もごもごとくぐもった声での謝罪になってしまいました。身じろぎして離れようとすると、回された旦那さまの両腕に力がこもるのが感じられます。
「いいから、ジッとして」
耳のすぐ傍でそう囁かれて、まるで撫でられた仔猫のように、わたしの肩からはふっと力が抜けてしまいました。そうすると、もっとぴったりと、本当にぴったりと、旦那さまにくっついてしまいます。
旦那さまは男の人で、わたしはもう子どもではありません。
こんなふうにしていては良くない筈ですが、ドキドキしているのに不思議と心地良くて、わたしはずっとこのままでいたいと思ってしまいました。
ずっと――いいえ、ほんの少しの間だけでも、構いませんから。
わたしはちょっとだけ頬をすり寄せて、小さなため息をこぼしました。




