嵐の予兆◇サイドC
僕の領地で作られるワインについて相談したいことがあると言ってきたその男は、商人だった。
名前はアシュレイ・バートン。最近商業界に台頭してきているバートン商会の長男だ。
僕よりも三つほど年下だが商才は確かで、世界各地を飛び回って商いの手を広げているらしい。バートン商会の成功は彼の力によるところが大きいと、もっぱらの噂だ。
アシュレイは物腰の柔らかい男だが、柔和なだけで成功を収められるわけがない。絶えることのない笑顔の奥に、芯の強さと才気が見え隠れする。
そんな彼とやり取りをし、僕の要望と彼の要求、その両者の釣り合いが取れたところで手を打った。
「では、できたもののうちの五割をバートン商会にお任せいただけるということで、よろしいですね?」
「ああ、それでいこう」
僕が頷くと、彼はニッコリと晴れやかに微笑む。
「ありがとうございます。ボールドウィン家のワインを国中に広めてみせますよ」
「楽しみだ」
バートン商会との間の取り決めに関する契約書にサインをし、僕はそれを彼の方へと押しやった。アシュレイは内容を検め、しわにならないように丁寧に鞄にしまう。
「いずれは、国外からもこちらのワインを求める声があがると思いますよ」
「国外? それはまた大きく出たな」
僕が笑うと、アシュレイは飄々とうそぶく。
「決して実現不可能なことではありませんよ。交通機関はどんどん発達していますからね」
と、不意に屈託のなかった彼の表情が曇った。
「まあ、今は少し時期が悪いですけれども」
「時期――あれか」
「はい。だいぶ、きな臭くなってきているようですよ」
アシュレイの言葉に、僕はソファの背にもたれてまぶたを閉じた。
商人は世の動きに敏感でなければならず、情報収集に長けている必要がある。彼が若くしてこれほどの成功を収めているのは、特にそれが際立っているからなのだろう。
今、アシュレイが言及したのは、国境沿いの小競り合いのことだ。
この国は、長い間、海を挟んだ隣国と交戦状態にあった。大きな戦争ではない。だが、百年近くもの間、兵士は各地の砦に送られ続けていたし、国境線は常に描き換えられていた。
それが形ばかりの収束を迎えたのは、六年前のこと。
甚大な被害を出しながらも一番の要所となる砦を我が国が押さえた。
そこは相手国の海路の要となる港町でもあり、その砦を確保することは我が国への侵攻を妨げるのに大きな効果がある。あるいは、逆に、そこを拠点として先方へ攻め込むのにもとても有用な地でもあった。
当時新しく即位したばかりだった我が国の王が積極的な侵攻を望まなかった為、それから目立った戦火は上がらずに済んでいたのだが。
「マルロゥ砦」
不意に聞こえたその名前に、僕は思わずビクリとする。
「あそこがまた危ないらしいです……どうかなさいましたか?」
僕の顔を見たアシュレイが、眉をひそめた。
「大丈夫だ」
「ですが、顔色が――」
身を乗り出して僕を窺うアシュレイを、片手を振って追いやる。
「何でもない――君は、どこからその情報を?」
僕たち貴族にも、まだ正式な報せは届いていない。噂でそこはかとなく漂ってくる程度なのだ。
僕の問いに、彼は肩をすくめて答える。
「商売仲間からですよ。戦争をしていても、ボクたち商人には関係ありませんから」
「逞しいな」
「そりゃもう。……あちらさん、あの砦を取り返そうと本腰を入れてきているらしいですよ。かなりの数の兵が動き始めていて、流れを見ていると、どうもマルロゥ砦を目指しているようなんです。我が国もあの辺の地理やらに詳しい将校を招集して備える必要があるという意見が出始めているとか……」
キリ、とこめかみの辺りが痛んだ。
あの砦がこの国のものになってから、六年が経っている。
――それを六年『も』と言うべきか、六年『しか』と言うべきか。
多くの兵の命の代わりに手に入れた束の間の平和は、もう破られてしまうのか。
僕はボールドウィン家の当主であり、まだ跡継ぎを作っていない。僕が戦いに駆り出される可能性は、低いだろう。
――しかし。
僕は小さく息をついた。
マルロゥ砦周辺に詳しい者と言われたら、きっと、僕はかなり上位に入る。
――また、あの地へ赴くのか。
国の為に戦うことに、躊躇いはない。国の為――それは即ち民の為になるのだから。
だが、若かった頃にはなかった棘が、今、僕の胸の中にはあった。
それは、一度死を目前にしたことからの怯えなのか、それとも――
コンコン、と、控えめなノックの音が響いた。
その音で僕は我に返り、反射的に声を返す。
「どうぞ」
「失礼いたします」
そう言いながら入ってきたのは、もちろんエイミーだ。
「お茶をお持ちしました」
彼女はお辞儀をして顔を上げると、何故かそこで立ち止まった。
何を躊躇っているのだろう。少し、戸惑っているようにも見える。
確かにアシュレイは初めて会う客だが、エイミーは別に人見知りをする方ではない。どんな客に対してもそつなく応じられる子だ。
「エイミー?」
名前を呼ぶと、彼女はビクリと肩を震わせて僕を見た。うたた寝から目覚めたかのように瞬きをする。
「あ、はい、失礼しました」
そう言って、もう一度、いつものようにお辞儀をする。
エイミーの声は震えていたり、上ずっていたりすることもなく、普段通りのものだった。
どうやら、何でもないようだ。
彼女の動きは愛らしい人形のようで、思わず笑みがこぼれてしまう。と、僕の向かいからも、笑い声が聞こえてきた。
「可愛いね、緊張したのかな?」
アシュレイのその言葉にもエイミーは生真面目に頭を下げる。
「申し訳ありません」
近付いてきた彼女に、前に座っている青年を紹介した。
「エイミー、この方はアシュレイ・バートン氏だ。国中を回ってワインの買い付けをしていていらっしゃる。うちのワイナリーの品を扱いたいそうだよ」
「そうですか」
頷きながら、エイミーがお茶の支度を始める。
幼い頃から繰り返してきたその手技は、公爵家のベテランメイドにも劣らないものだと、僕は思う。
食器が立てる音はほとんど聞かれず、動きは速いのにせかせかした感じは全くない。淀みなく、流れるようにこなしていく。
慣れた彼女の手付きを、アシュレイが観察する眼差しでジッと見つめていた。
――エイミーの一挙手一投足から離れない彼のその視線が、何となく気になってしまう。
別に、どんなに凝視されようが、エイミーがすり減るわけではないのだが……彼の視線を遮ってやりたくなって、身体が疼いた。
そんな僕の胸中などつゆ知らず、アシュレイが口を開く。
「ここには、いつから?」
唐突なその問いに、エイミーがキョトンと彼を見つめ返した。給仕の手が止まって――まるで、次に何をしたらいいのか、突然判らなくなってしまったかのようだ。微かに眉間に皺が寄って、大きな目の中に心許なげな色が浮かぶ。
別に、アシュレイの声にエイミーを責めるような含みがあったわけではない。だが、彼の台詞の何かが、彼女の中に不安を掻き立ててしまったようだ。
それは何なのだろうかと訝しみながら取り成そうとしたけれど、僕よりもアシュレイの方が早かった。
彼は苦笑しながらかぶりを振る。
「ああ、ゴメン、違うよ。ずいぶん――若そうだと思ってね。でも、かなり手慣れているし、物腰がどこか上品だよね。短期間で身に付く所作じゃないから、どのくらい働いているんだろうって思ってさ。君みたいな感じの子、ボクも欲しいんだけどなぁ」
エイミーが、目に見えてホッと表情を緩める。どうやら、アシュレイは彼女が何を気にしていたのか、的確に見抜いたらしい。
冗談めかした、だが、どことなく本気の色もにじんだアシュレイのその台詞に、そしてそれを受け取ったエイミーの反応に、僕の胸がチリッと焼けた。
その小さな痛みは、見逃されがちなエイミーの優雅さを読み取れるほどアシュレイが彼女を見ていたことに対してなのか、僕には判らなかった彼女の不安をいとも簡単に言い当てたことに対してなのか、それとも単純に後半の一言が気に障ったからなのか。
彼の言葉が無性に不快で、そして、そう感じる自分の狭量さが腹立たしかった。
「その子は、もう長いことここで私の世話をしてくれているんだよ」
「『伯爵の』世話を? ……へえ……」
僕の横やりにアシュレイはそう言うと、改めてエイミーを見て、僕を見て、そしてまたエイミーを見た。そして、フッと微笑む。
会ったばかりの人間にも、こんなふうにニヤニヤされる羽目になろうとは。
その目にあるものは、最近になってしばしば僕に向けられるようになった、明らかに状況を愉しんでいる輝きだ。
それが何を愉快がってのものなのか、判らない僕ではない。他の誰かが、例えばブライアンやエリックが僕と同じようなことをしていたら、僕だって笑う。
僕の胸中にある想いを閉じ込めていた包みは、かなり綻びつつある。僕がエイミーをどう想っているか、屋敷の中には、薄々……いや、かなりはっきりと察している者もいるだろう。
――一番気付いていないのは誰あろう、一番悟って欲しいエイミーなのだ。
そしてそのエイミーは、今、まじまじとアシュレイを見つめている。僕がいるのに、彼女の目には一見誠実そのものな商人の姿しか入っていない。
いや、そんなふうに考えるのはナンセンスだ。
彼女は、彼を、ただ見ているだけ。
ああ、クソッ。
エイミーの眼差し一つでこんなに胸の中がざわつくなんて――末期だ。まったく、情けない。
「――エイミー」
紳士らしくない罵りは辛うじて口の中にとどめておいて、僕は装った穏やかさでエイミーに呼びかけた。名前を呼ばれた彼女は、ハッと我に返ったように大きく瞬きをする。
「申し訳ありません、失礼いたしました」
何だか今日のエイミーは謝ってばかりだ。
そんなふうにいつもと少し違うところが、やけに気になる。
まさか、アシュレイのせい、とか……?
バカげた考えが頭の中をチラリとかすめていく。まるで、夜会で時たま見かける、妻の些細な言動に目くじらを立てる嫉妬深い夫のようではないか。
二人に気付かれないように、静かに深呼吸をする。
僕の挙動不審な様子には気付いたふうがなく、エイミーはてきぱきとお茶を二人の前に置くと、また一礼して、そそくさと部屋を出て行った。
エイミーを見送った僕は、扉が閉まるのを待って、横からヒシヒシと注がれる視線に向き直る。
「……何だ?」
そうするつもりではなかったのだが、むっつりとした声になってしまった。
そんな僕に、アシュレイがきらりと目を輝かせる。
「いいえぇ、何でもないですとも」
口笛でも吹き始めそうな口調でそう言ってのけた彼を、僕はじろりと睨み付けた。
が、アシュレイはそんなものどこ吹く風という風情で紅茶を飲み干し、立ち上がる。
「さて、ボクの望みは叶いましたし、美味しい紅茶もいただきましたし、そろそろ失礼させていただきましょう――あ、お見送りの方は要りませんよ」
人を呼ぼうとベルに手を伸ばした僕の機先を制して、アシュレイが片手を上げた。そのままスタスタと扉の方へと歩いていく。
ドアノブに手をかけたところで、彼は不意に肩越しに振り返った。
「……ああ、そうそう。ボクは手のひらに収まるような栗色の小鳥よりも、豪華絢爛、煌びやかな孔雀の方が、好みなんです」
アシュレイはにっこり笑うと、僕に反論を許さず廊下へと消えてしまった。
はきはきとした彼がいなくなると、途端に部屋に静寂が降る。
「孔雀だって、雌は茶色だ」
思わずボソリと呟いたところで、アシュレイが開けたままにしていった戸口からジェシーが顔を覗かせた。
「……セディ様?」
僕の名前を口にした彼は、戸口で眉をひそめている。僕は眉間に皺を寄せて彼に片手を振った。
「何でもないよ。何か用か?」
「都から、文が届きまして」
「そうか」
小さく頷き、僕はジェシーが差し出しているトレイの上に置かれた書簡を取る。そうして、そのまま彼の横を擦り抜けて廊下に出た。
僕は日に日におかしくなってきているようだ。
無意識のうちにエイミーの姿を求めて歩きながら、思う。
――君みたいな感じの子、ボクも欲しいんだけどなぁ。
あんな台詞。
アシュレイがああ言ったのは戯れに過ぎないという事は、判っている。だが、それが判っていても、容認できるかどうかはまた別の話だ。
あの子をちゃんと僕のものにしないと、客の前にも出せやしない。僕以外の男がエイミーを欲していると想像しただけで、まるで宝を奪われるドラゴンのように平静ではいられなくなってしまうのだから。
ため息が漏れる。
幼い頃から、僕は感情よりも理性が勝っていた筈だった。
クレイグの、エイミーの父親のことで決断しなければならなかった時も、結局は合理的に考え、決断を下した――さほど時をかけずに。
実際、今でも投資や領地のことでは、ちゃんとまともに頭が働いている。
まともではなくなるのは、エイミーが絡んだことだけだ。
あの子のことでは感情がコントロールできなくなるし、道理よりも自分の望みを優先させてしまいそうになるし、駄目だ無理だいけないと思うことでも諦めることができそうにない。
僕は、エイミーに幸せになって欲しいのだ。
だけど、僕は、『誰か』がエイミーを幸せにするところを見たくない。
あの子が幸せならば、というキレイごとは、もう口には出せない。
エイミーに幸せになって欲しくて、それを他の誰かに委ねることができないのであれば、僕自身でそれを成し遂げなければならない――そうしたい。
だが。
数日前のエイミーの言葉を、あの子の考えを思い起こし、またため息が溢れた。
と。
僕は足を止めた。
廊下の角の向こう側から、話し声がする。アシュレイと……エイミーだ。
「――推薦状なしでも雇ってあげるよ。ああ、何なら、ボク専属のメイドでもいいよ? あちこち連れて行ってあげるから」
ムカッとして声のする方へ足を踏み出そうとした瞬間、聞こえてきた言葉に愕然とする。
「いいえ、メイドはイヤです」
アシュレイの、小さな笑い声。
「わかったよ、じゃあ、売り子とかね」
「ありがとうございます」
そうして去って行く足音は、一つ。
それが完全に消えたころ、僕はようやくいつの間にか詰めていた息を吐き出した。そうして、踵を返してきた道を戻る。
今の会話は、なんだ?
先日、エイミーは、結婚はしないと言った。
そして今は……「メイドは、イヤ」。
もしかして、僕はずっと嫌なことをあの子にさせてきていたのか? 今までそんなふうに見えたことはなかったが、実は仕方なく僕の傍にいたのだろうか?
確かに、幼い頃からこの屋敷にいたエイミーには、他に道はなかったのかもしれない。
だが――売り子、だと?
メイドは嫌で、売り子はいいのか?
確かに、最近の都では職業を持つ自立した女性も増えてきているという。
エイミーは、そういう人生を望んでいるのか?
僕は彼女を庇護したい。
しかし、彼女はそれを望んでいない。
「じゃあ、どうしたらいいんだ?」
僕はきつく拳を握り込む。と、手の中の紙が、クシャリと音を立てた。
初めてその存在に気付き、手を開く。そこにあるのは都からの――王城からの書簡だった。
封を切り、中の手紙を取り出す。
透かしで王家の紋章が入れられた便箋に書かれている文字を、目で追った。
二度。
何度読み直そうとも、そこに書かれていることは、明白だった。
「ああ……クソ」
今度こそ、僕は真摯にあるまじきその言葉を口から吐き出す。
手の中の紙をもう一度見つめ、そして、再びそれを握り締めた。
――くしゃくしゃになるほどに。