嵐の予兆◇サイドA
今日はお客様がお見えになっていらっしゃるそうです。
このお屋敷にお客様があること自体は珍しくないのですが、何でも、お仕事関係の、商人の方だとか。
商人、つまり貴族の方ではないということで――それは少し、珍しいかもしれません。
お茶の支度を載せたワゴンを止めて、一度深呼吸をしてから、応接室のドアをノックしました。
「どうぞ」
「失礼いたします。お茶をお持ちしました」
扉を開けて、お辞儀をして、顔を上げて――
応接室の中は、何となく、いつもの『お客様がいらっしゃっている雰囲気』とは違う感じがします。
空気が硬いというか、張りつめた感じがして。
――お仕事のお話をしているからでしょうか?
「エイミー?」
旦那さまに名前を呼ばれて、思わずビクリと肩を震わせてしまいました。
「あ、はい、失礼しました」
頭を下げると、旦那さまとお客さまが小さな笑い声を漏らされたのが耳に届きます。
「可愛いね、緊張したのかな?」
笑みを抑えるように口元に拳を当てながら、お客さまがおっしゃいました。
緊張、ではないと思うのですが。何となく立ち入ってはいけないような雰囲気に、つい、足が止まってしまったのです。
「申し訳ありません」
もう一度頭を下げてから、お二人の元に足を進めました。
お客さまは、旦那さまよりもいくつかお若そうです。はっきりとした赤毛は珍しいくらいに赤くて、近くに行くと、温かそうな茶色の目をしているのが見て取れました。
赤毛は短気な方が多いと言われますが、この方は穏やかそうです。
「エイミー、この方はアシュレイ・バートン氏だ。国中を回ってワインの買い付けをしていていらっしゃる。うちのワイナリーの品を扱いたいそうだよ」
「そうですか」
頷きながら、わたしはティーポットを取りました。
確かにボールドウィン家のワインは、パーティーにいらしたお客さまにもとても好評です。
わたしは少しでも飲むとすぐに眠くなってしまうのであまりたしなめませんが、たまにお屋敷でも使用人たちに振る舞われることがあって、そんな時にはみなさんも大喜びなのです。
せっかく旦那さまがお作りになっているのですから、わたしもちゃんと飲んでみたいものです。……いつかは、お酒に強くなれるのでしょうか。
そんなふうに考えながらせっせと支度をしていると、不意にお客さま――アシュレイさまがわたしに向けて声をかけてこられました。
「ここには、いつから?」
何故でしょう、そんなに給仕の手付きが拙かったでしょうか。
思わず手を止めて顔を上げると、わたしのそんな心の声が聞こえたかのように、アシュレイさまは苦笑されました。
「ああ、ゴメン、違うよ。ずいぶん――若そうだと思ってね。でも、かなり手慣れているし、物腰がどこか上品だよね。短期間で身に付く所作じゃないから、どのくらい働いているんだろうって思ってさ。君みたいな感じの子、ボクも欲しいんだけどなぁ」
若そう、と言われても、もうじき十七にはなりますが。
どうも、わたしは、実際の年齢よりも幼く見られることが多いようです。
取り敢えずお答えしようとして口を開きかけたのですが、旦那さまに先を越されました。
「その子は、もう長いことここで私の世話をしてくれているんだよ」
気のせいでしょうか、そうおっしゃった旦那さまのお顔が怒っているように見えます――いえ、怒る、とまではいっていないかもしれませんが……不機嫌? お客さまの前で旦那さまがそんなふうに表情を崩されるのは、珍しいことです。
ですが、そんなにご不快に思われるような会話だったでしょうか。
こっそり首をかしげたわたしの耳に、アシュレイさまの呟きが届きます。
「『伯爵の』世話を? ……へえ……」
そう言ったアシュレイさまは、わたしを見て、旦那さまを見て、またわたしに戻ってきました。その目は、ずいぶんと楽しそうにきらめいています。
――こういう目、何となく、どこかで見たことがあるような……
「――エイミー」
アシュレイさまを見つめていたら、今度ははっきりと機嫌がよろしくないことが判るお声で、旦那さまに呼ばれてしまいました。
いけない、いけない、ボウッとしている場合ではありません。
お二人はお仕事のお話をなさっていらっしゃるのですから。
「申し訳ありません、失礼いたしました」
できる限り素早くお茶をお二人の前に差し出して、一礼しました。そうして、そそくさとお部屋を後にします。
退出前にチラリと旦那さまに目を走らせると、もういつもと変わらないご様子でアシュレイさまとお話をされていました。
わたしがお仕事の邪魔をしてしまったかと思いましたが――良かったです。
ホッと胸を撫で下ろし、ワゴンを押しながらキッチンに向かいました。
*
「あ、エイミー、だったね」
廊下の窓ガラスを磨いていると、後ろから声がかけられました。
振り返ってみると、そこにおられたのはアシュレイさまです。
「お帰りですか?」
「ああ、良い契約が結べたよ。ボールドウィン家のワイナリーの物はとても良いから、今まで手に入れられなかった人たちも、皆喜ぶよ。いずれは他の国にも広めていきたいなぁ」
「他の国、ですか」
お屋敷からもほとんど出たことのないわたしには、想像もできません。
「色々なところに行かれるのですか?」
「そうだね、扱っているのはワインだけじゃないから。外国に行ってその地の物を仕入れて、また別の土地で売るんだ。ある土地ではその辺に転がっているような代物が、他では宝物になる。それが面白いんだよ。親には腰を据えて本家で跡を継いで欲しいと言われてるんだけど、なかなかやめられないね。陸路も船旅も、楽しいものだよ」
「そうですか……」
旅から旅へなんて少し怖いですが、実はわたしにも、一か所だけ、行ってみたいところがあります。
海を越えた先。
お父さんが、最後に立っていたところ。
お父さんが最期に目にした空を、わたしも眺めてみたいのです。
そこに行くまでどのくらいのお金と時間がかかるのか判らないのですが、いつか必ず、行くつもりなのです。
「そうそう、さっきは伯爵に邪魔されちゃったけど、エイミーはいくつなの?」
遠い地に思いを馳せていると、不意にアシュレイさまは、先ほどのお話を蒸し返してきました。多分、何でもかんでも興味を持たれる方なのでしょう。疑問に思ったことは、ちゃんと確認しないと気が済まないのかもしれません。
ですが、わたしの年なんて、お知りになってどうするのでしょう。別に隠すほどのことではありませんけれど……
「もうじき十七です」
「え、じゃあ、まだ十六歳? その割にはすっかり身に沁みついている感じだね」
「ここに引き取っていただいてから、六年――じきに七年になりますから」
「引き取って……?」
アシュレイさまは眉をひそめてわたしを見下ろしてきました。
「わたしの父が旦那さまの部下で、六年前の戦いで亡くなったのです。わたしは身寄りがなかったので、旦那さまがこちらにお連れになってくださいました」
「六年前って言ったら、十歳の時か。ふうん……」
この「ふうん」は単なる相槌だけではないような気がします。やっぱり、わたしのような境遇の者は、珍しいのでしょうか。
「何でしょう?」
見上げると、アシュレイさまはニッコリと笑顔になられました。
「いや、大事にされてるなぁ、と思ってね」
「はい。旦那さまは使用人をとても大切になさっておいでです」
そこのところは紛れもない真実なので、わたしは力強く頷きました。と、そんなわたしに、アシュレイさまが小さな笑いを漏らします。
「その中でも、君は特別なんじゃないの?」
「特別……?」
思わず繰り返したわたしに、アシュレイさまは頷く代わりにニッコリと微笑まれました。何となくからかうような響きがその声にはありますが、ほんのわずかでも誤解させてはなりません。
わたしはきっぱりと首を振りました。
「いえ、まさか」
旦那さまが贔屓だなんて、するわけがありません……手荒れのお薬を一人だけいただいてしまいそうになったことはありましたが、あれはわたしが手当てをおろそかにしてひどくしてしまったのを、見かねてのことでしたから。他のメイドが同じようにあかぎれを作っていたら、同じようにお薬をくださったはずです。
……でも、やっぱり、幼い頃から居させているとなると、今のアシュレイさまのように、おかしいなと思う人はいるのでしょうか。わたしのような者がお傍にいると、変な噂が立ってしまうのかもしれません。
そう言えば、とハタと思い付きました。
そう言えば、旦那さまのお友達のラザフォードさまやソーントンさまも、わたしのことで旦那さまをおからかいになるようなことをおっしゃることがあります。
あれは、単に、お友達同士のおふざけだと思っていたのですが……
一つ引っかかってしまうと、どんどん心が重たくなってくる気がします。
まさか、道楽で子どもを引き取っているとか、言われていたり?
わたしはここにいさせて欲しくて留まっていますが、もしかしたら、無理やり働かせているとか、思われていたりするのでしょうか?
中には、孤児を連れてきて奴隷のように働かせる貴族の方もおられるとドロシーさんが話していらっしゃいました。
まさか、旦那さまがそんなふうに思われていたりするのでしょうか?
いえ、旦那さまの人となりをご存じであれば、そんなふうに思う方がいらっしゃるはずがありません。
では、やっぱりわたしの方の問題でしょうか。
わたしはメイドとしてちゃんと働いているつもりでしたが、上流階級のことについて、誰かに教わったわけではありません。旦那さまもお屋敷のみなさんも、これまでのわたしの言動について何もおっしゃいませんでしたから、全然問題ないと思っていました。
ですが、やっぱり、わたしには貴族のメイドとして何か足りないところがあるのかも……
これまではわたしが子どもでしたから、大目に見られていたに違いありません。
だけど、わたしももう十七歳。幼い子どもではないのです。
そこで、わたしはふと気づきました。
そう言えば、この間の旦那さまの、わたしの身の振り方に対するあのお言葉。
今になってあんなふうにおっしゃってきたことが、わたしの考えを裏付けています。
これまでこのお屋敷に訪れたお客さま方の前で、わたしは何かおかしなことをしてしまっていたのかもしれません。
そんなわたしを使っていることが、旦那さまを貶めてしまっているのかも……
でも、きっと、わたしに問題があっても旦那さまはおくびにも出さないのでしょう。
――わたしは、旦那さまに恥ずかしい思いをさせてしまっていたのでしょうか?
それは良くありません。
断じて、良くありません。
やっぱり、あのことを実行に移さないといけないのかもしれません。
何だか、頭の中がグルグルと変なふうに回り始めた感じです。
「エイミー、エイミー、大丈夫かい?」
心配そうなアシュレイさまのお声で、我に返りました。目を上げると、声と同じように、案じる眼差しがあります。
「アシュレイさまは商家の方なのですよね?」
唐突に尋ねたわたしに面食らったようですが、それでもアシュレイさまは頷いてくださいました。
「まあ、商いを生業にはしているね」
「では、誰かを雇う時は、どのようにしているのですか?」
「はい?」
アシュレイさまは目を丸くして、足を踏みかえるようにして姿勢を正しました。そうして、わたしを真っ直ぐに見下ろしてこられます。
「お店の人は、誰かが『雇って欲しい』と言ってきたらすぐに雇ってくださるものですか?」
「いや、それは……ある程度の身元確認は必要だなぁ。紹介状とか推薦状とか」
「推薦状……」
もしもよそで働きたいと言ったら、旦那さまは書いてくださるでしょうか。
旦那さまは、「弱き者は助けるべし」という方です。けれど、わたしはもう弱くも幼くもないのです。
もしもわたしのせいで旦那さまに恥をかかせているのなら、大変です。
いつまでも旦那さまのご厚意にすがっておらず、そろそろ、独り立ちしなければ。
「君は、このお屋敷を出たいのかい?」
『出たい』――?
「いいえ、出たくはありません」
「なら、そんなことを考える必要はないじゃないか」
「『したいこと』と『しなければならないこと』は、同じじゃありません」
アシュレイさまを見上げて当たり前のことを口にすると、胸がキリキリと痛みました。勝手に手が上がって、疼くみぞおちの辺りをさすります。
「君は……気付いていないのかい?」
気付くって――
「何に、ですか?」
首をかしげたわたしを、アシュレイさまは呆れているような憐れんでいるような、表現し難い眼差しで見つめてきました。そうして、小さなため息のようなものをこぼします。
「今日初めて目にした者でも、三分もすればはっきりと見て取れたというのに……あの人も気の毒なことだ」
アシュレイさまはそう呟きましたが、『気の毒』とは、誰が……?
眉をひそめたわたしに気付くと、アシュレイさまはその言葉を掻き消すようにニッコリと笑われました。
「君が幼すぎるのか、それとも彼が大事にし過ぎたのか……まあ、もしも本当によそで働きたくなったら、ボクの所に来るといいさ。ちゃんと、君の旦那さまと充分に話し合ってからならね。推薦状なしでも雇ってあげるよ。ああ、何なら、ボク専属のメイドでもいいよ? あちこち連れて行ってあげるから」
「いいえ、メイドはイヤです」
メイドは、旦那さまの元でしかしません。旦那さま以外の方にお仕えするなんて、できませんから。
お断りの仕方が、きつくなってしまったかもしれません。
アシュレイさまは一瞬目を丸くして、そして笑い出されました。
「わかったよ、じゃあ、売り子とかね」
「ありがとうございます」
そう言って、わたしは深々と頭を下げました。