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エイミーと旦那さま  作者: トウリン
『伯爵とメイドの日常』
25/60

見解の相違◇サイドA

 最近、若干、旦那さまが挙動不審です。

 いえ、突然歌い出したりとか、夜中に徘徊したりとか、そんなふうに際立って変な行動を取られるというわけではないのですが。

 ふと気付くと、どうして今そこに? という状況で、部屋の入り口や廊下の片隅に立っておられるのです。

 今もまた、廊下のモップ掛けをしているわたしの背中にヒシヒシと視線を感じてなりません。

 普通、使用人がこうやってお掃除などをしているところは、旦那さまのお目には入らないようにしています。いつもならこの時間、旦那さまは書斎でお仕事をなさっているか、どこかへお出かけなさっているかなのですが。

 こちらは旦那さまが廊下をウロウロしていないような時間を選んでやっているというのに、旦那さまの方が出てきてしまうのです。


 ――何なのでしょう、いったい。

 こんなふうに一挙手一投足を見張られていたら、とても仕事がやりにくいです。わたしが何かしてしまってそれについておっしゃりたいことでもあるのかと思いましたが、思い返す限り、咎められるほどの失敗をした記憶はありません。

 三日間ほどは我慢してきましたが、もう限界です。


 わたしはクルリと振り返って、窓の所に寄りかかっている旦那さまに目を向けました。モップを置いて歩み寄っていくと、わたしがそうするとは思っていなかったのか、旦那さまは身体を起こして少し目を見開きました。

 普通の速度で歩いてお傍まで行こうとしたのですが、わたしが近くまで行くと、何故か旦那さまは少し後ずさりされたのです。


 眉をひそめて距離を詰めると、また一歩、後ろに下がります。

 そうやって、ちょうど腕を伸ばして届くかどうか、という間隔を保っています。


 ――やっぱり、おかしい……

 旦那さまの方から来られる時は、わたしにはちょっと近過ぎると感じられるくらい、近くに来られるのに。


 ジッと旦那さまを見つめると、特に思うことはないということを示すように、ニコリと微笑まれました。

 でも、その笑顔、どこか不自然ではないですか?

 そうは思いつつも、仕方がないので、話すには少し遠いような距離を置いたまま、わたしは用件を切り出しました。


「旦那さま、わたしが何かしましたか?」

「え?」

 ズバリと切り出すと、旦那さまはキョトンと目を丸くされました。まるで何を言われているのか解からない、というふうに。


 無意識……?

 散々ウロウロしていたのは、特に意味のない、無意識の行動だったのでしょうか?

 それとも、わたしの気にし過ぎ?

 思わず眉間に皺を寄せてしまいましたが、その疑問を振り払うように胸の中でかぶりを振りました。

 いいえ、そうではありません。明らかにわたしの仕事中にお姿をお見かけする頻度は高くなっています。少なくとも倍増はしています。わたしがここに来てからの六年の中で比べてみたら、絶対です。間違いありません。


 胸を張って見上げると、わたしを見返す旦那さまの目がほんの少しだけ緩んだように感じられました――ほんの少し、微笑まれたように。

 それが何だかとても優しげで、一瞬、わたしの頭の中の何かが止まったようにふわりとなってしまったのを、慌てて引き締めました。


 そう、旦那さまの変な行動を三日間も我慢していたのは、このせいもあるのです。

 いつの頃からか覚えていないのですが、最近、旦那さまのふとしたことに、わたしの頭がぼんやりしたり、心臓が変なふうに脈打ったりと、身体のあちこちが奇妙な反応を示すようになってしまったのです。

 旦那さまの傍にいるといつも、というわけではないのですが、何がきっかけなのかが判らないのであまり近寄らないようにしていたのです。


 それなのに、旦那さまが……


 わたしはこっそりと深呼吸をして、もう一度旦那さまを見上げました。

 ほら、今は全然普通です。何ともありません。

 ちょっとホッとして、もう一度お訊ねしました。


「わたしがすることを、見張ってらっしゃるでしょう? わたしが何かしましたか?」

「見張ってなど……」

 言いかけて、旦那さまは片手で口元を覆って気まずそうに目を逸らされました。

「旦那さま?」

「あ、いや……本当に、君に非はないよ。ただ、見ていただけなんだ」

「そう、ですか?」

「ああ。何でもないんだよ」

 頷いて、少し微笑まれます。

 何となく釈然としませんが、旦那さまがそうおっしゃるならそうなのでしょう。


「申し訳ありません、わたしの気にし過ぎでしたね。仕事に戻ります」

 深々と頭を下げて、道具のある所に戻ろうと向きを変えました。旦那さまの視線が気になって動きが鈍くなってしまってましたし、こんなふうに余計な時間を過ごしてしまったしで、仕事が遅れ気味です。

 少し急がなければ。

 けれど、そう思って歩き出したところで、不意に腕を取られました。声をあげる暇もなく後ろに引っ張られて、よろけてひっくり返りそうになります。


 ――転ぶ……

 思わず目をつぶった瞬間、背中が何かに当たりました。それは硬くてちょっとやそっとではびくともしなそうで、わたしが体勢を立て直してしゃんと立つと、すぐに離れていきました。

 よろけたのは、旦那さまが急にわたしの腕を引っ張ったせいです。眉をひそめて振り向いたら、もう先ほどと同じように少し距離を取ったところに立っていました。

 まるで、わたしには指一本触れなかったかのように。


「何か、ご用ですか?」

 首をかしげてそう訊ねると、旦那さまは少し困ったようなお顔になられました。

「用、というか……その……訊きたいことがあるんだけど、いいかな?」

 いいかな、と言われてもイヤですとは言えませんし、そもそも質問の内容が判らないのに良いも悪いもないと思うのですが。

「何でしょう?」

 仕方がないのでそうお返事をしましたが、旦那さまは更に口ごもりました。しばらく何か言おうとして止めてを繰り返したかと思うと、ようやく、意を決したというふうにわたしを見つめてこられます。


「君は、将来のことをどう考えているんだい?」

 思わず、目を丸くして旦那さまを見返してしまいました。


「……しょうらい?」


 その言葉を繰り返したわたしに、何やら渋い顔で頷きます。

「そう。まさか、ずっとここでメイドを続けるという訳じゃないだろう? 結婚とか、考えたことはないのかい?」

 これは、もしかして、もうそろそろこのお屋敷を出て行く時期だよと、おっしゃりたいのでしょうか。一瞬、身体の中の血液が氷水に変わったかのような心持ちになりました。

 でも、この間、わたしが「出て行った方がいいのか」と尋ねた時、いてもいいとおっしゃったはずです。


 あの時から、何かが変わってしまったのでしょうか?

 変わったとしたら、何なのでしょう。

 もしかして、セレスティアさまのことでしょうか。旦那さまは、あの方とは何もないと言っておられましたけれど、やっぱり……


 急に、頭と、胸と、お腹が、シクシクと痛みを訴え始めました。

 まるで、流感に罹った時のように――いいえ、やっぱりあれとは違います。あれよりも、もっと、ギュッと締め付けられるような、息苦しい感じで。


 わたしはぼんやりと旦那さまを見つめました。

 そもそもわたしがこのお屋敷で働けているのは、旦那さまのご厚意によるものなのです。親もいない、わたしの身元を保証してくれる人も誰もいなくて、街のまともな商家で雇ってもらえたらものすごく幸運なくらいなのです。


 わたしの身分と立場では、こんなに良いところでは働けません。

 普通なら……


 思考停止状態に陥ったわたしは、何度か名前を呼ばれているのにも、しばらく気付きませんでした。

「……イミー、エイミー?」

 名前を呼ばれ、指先で頬に触れられ、わたしはハッと我に返りました。

 いくつか瞬きをして頭をはっきりさせてから、旦那さまを見返します。


「はい?」

「大丈夫かい?」

「だいじょうぶです。少しぼぅっとしただけです」

 旦那さまは何かを窺うような眼差しでわたしを見つめながら、手を身体の脇に戻して拳を握り締めました。そして、また同じ質問を、形を変えてしてきます。


「君ももうじき十七歳だろう? そろそろ自分の家庭を持つことを考えても良い頃合いじゃないかと思うのだが」

「わたしは……全然考えていませんでした」


 ――ずっと、このお屋敷で旦那さまのお世話をしていくのだと思っていましたから。


「全然? 全然、結婚のけの字も考えたことが無いのかい?」

 そう念を押してきた旦那さまの眉間にはしわが刻まれています。何故そんなに難しいお顔をされるのでしょう。

 そう思いながら、わたしは旦那さまのおっしゃることを考えてみました。


 このお屋敷を出て、誰か男の人と結婚して――

 そうしたら、その方のことを『旦那さま』とお呼びするようになるのでしょうか。


 目を上げて、思わずまじまじと、今目の前にいる旦那さまを見つめてしまいました。


 この旦那さまではない誰かを、『旦那さま』と――?


 無理です。

 わたしにはできません。

 なので、旦那さまの真っ青な目を見つめて深々と頷きました。


「はい、全然」

「――今後、考えることもないのだろうか」

「多分」


 わたしの返事に、何だかものすごく奇妙なお顔になりました。

 困っているような、どこか苦しそうな、そんなお顔に。


 わたしがそんなお顔にさせているのですね、きっと。


 不意に、セレスティアさまのことが頭に浮かびました。あの方がこのお屋敷をお去りになる前日、わたしに残されたお言葉が。


 ――もしもセドリック様のお傍にいられないような事になったら、わたくしの所にいらっしゃい。

 セレスティアさまはそう言われました。セレスティアさまと旦那さまの間で何かお話をされて、それでわたしのことが取り沙汰されたのでしょうか。

 街中から引き取ってきた子どもをそのまま使用人にしているというのは、もしかしたらあまり外聞が良くないことなのかもしれません。わたしごときのことが身分の高い方々の間で話題になるとも思えませんが、貴族という人々は何かと醜聞好きだと聞いたことがあります。


 もしかして、何か尾ひれはひれが付いて変な噂になっているとか……?

 メイド仲間のドロシーさんも、時々とてつもなく信じがたいような噂話を仕入れてくることがあるのです。普通に考えたらまず有り得ないでしょう、というようなお話を、お茶の時間にまことしやかに口にされたりします。


 そんなふうに、わたしのことが変な噂の元になっているとか……?

 もしもわたしが何か旦那さまのご迷惑になっているのなら――ここ数日の旦那さまのおかしな行動も、筋が通るのではないでしょうか。


 わたしは思わず両手をきつく握り締めました。

 確かにわたしももうじき十七歳。もう大人、一人でも生きていける年です。

 旦那さまはお優しいから、旦那さまの方から辞めて欲しいとは言えないでしょう。わたしから、暇乞いを願い出るべきでしょうか?


 だけど。


 わたしは旦那さまのお顔を見上げました。

 このお屋敷を出ることを、旦那さまのお傍を離れることを思うと、胸の辺りが苦しいような感じになります。


「エイミー?」

 わたしを見下ろしていた旦那さまの眼差しが、心配そうな色を帯びました。わたしの不安が、透けて見えてしまったのかもしれません。

 この六年間、ずっと、何も変わらずにいたけれど、わたしが知らない間に、何かが動き出していたのでしょう。まるでいつの間にか急に大きな車輪が回り出してしまったような、そんな感じがしましたが、それはきっと、わたしにはどうにもできないのです。


 わたしは目を伏せて、思いました。

 今度のお休みに、街に出てみよう、と。

 毎週日曜日にはお休みがいただけるのですが、今まではお屋敷の外に出たことはほとんどありませんでした。その必要がありませんでしたし、そうしたいとも思いませんでしたから。

 けれど、少し街に出て、外を見てみましょう。外の人はどんなふうに暮らしているのかを見て、わたしにできそうなことがないか、探してみましょう。


 ずっと子どものままで変わらずにいられれば良かったのですが、そういうわけにはいかないのです。

「お仕事に戻ってもいいですか?」

 お顔を見たらまた苦しくなってしまうような気がして、視線を下げたまま、わたしは旦那さまにそう訊きました。


「エイミー……そうだね、仕事の邪魔をしてすまなかった」

 お許しが出て、わたしは伏せた頭をペコリと下げて、一歩後ずさります。と、視界の隅にチラリと旦那さまの手が入ったかと思うと、わたしの頬をかすめるように動きました。指先がほんの少しだけ触れた場所が、まるで火で炙られたかのように感じられます。

 頬にかかった後れ毛を払ってくださったのだと気付いた時には、もう旦那さまはわたしに背中を向けておられました。

 離れていく旦那さまを見ているとホッとして、そして同時に寂しいような、心細いような、そんな気持ちになりました。


 普段もよくある、別に珍しくもなんともない場面なのに、なぜそんな気持ちになったのかは解かりません。

 ――解かってはいけないような気がしたし、解かりたくも、ありませんでした。


 わたしは小さくため息をついて、掃除道具が置いてある場所まで小走りに戻り、いつも通りの仕事に戻ります。

 いつも通りのことをしていれば、心もいつも通りに凪いでくれると思ったから。


 モップを掴んで、床に押し付けて。

 汚れが消えるのと同じように、わたしの心の中の訳の解からないモヤモヤも全て消え去ってしまえばいいのに。


 切実に、そう願いました。

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