あなたの大事な人◇サイドC
開け放たれた図書室の窓辺に近付き、僕はそこに肘を突く。
眼下に広がるのは、雪化粧に包み込まれた中庭だ。
殆ど白と黒ばかりのその世界に彷徨いこんだ、鮮やかな緋色と、控えめな薄紅色。
半歩ほど下がったところにいる薄紅色へ、誘うように緋色が手を伸ばす。
――緋色のドレスをまとったセレスティアと、薄紅色のお仕着せを身に着けたエイミーだ。
ピタリと寄り添いながら中庭を散策するその二つの色彩に、僕は小さなため息をつく。
ラザフォード家令嬢が屋敷に滞在して五日が経ったが、その間、エイミーは彼女に付きっきりだった。別に、あの子がそうしたがっているわけではない。セレスティアが手放さないのだ。
まったく。
僕は、どうしてこうなることを予測できなかったのだろう。
心の底から悔みながら、僕は二週間ほど前にセレスティアから為された『提案』のことを思い出していた。
*
あれは、ラザフォード家で開かれた舞踏会に出席した時のことだった。
「セドリック様、折り入ってお話がありますの。聞いていただけます?」
セレスティアが僕の腕に手をかけてそう言った時、いったい何の用だろうと思ったものだ。
彼女はいぶかしむ僕を、誰もいない一室に誘った。
妙齢の男女が二人きりになれば、普通なら、艶めいたことが始まるところだ。だが、セレスティアが僕に恋愛遊戯を仕掛けることは、決してない。天地がひっくり返っても有り得ない。
「どうしたんだい?」
セレスティアとは子どもの頃からの仲だから、気心は知れている。それだけに、彼女の『折り入ってのお話』がどんなものなのか、さっぱりわからなかった。そんなふうにもったいぶった言い方をする女性ではないのだ。
セレスティアは手にした扇をしばらく閉じたり開いたりしていたけれど、やがて僕に真っ直ぐ目を向けてきた。
「わたくしに、結婚のお話が舞い込んできましたの」
「へえ。ご両親も懲りないね」
別に珍しい事ではない。女性にとって社交の場に出ることは、即ち夫を探すことでもある。セレスティアにしても、十六の時から散々その話は出ていた筈だ。
――彼女の両親には気の毒なことに、どれ一つとして、実を結ばなかったが。
「流石にこの年になると、父と母も少々切羽詰まってきているようですわ。今回は、なかなか引き下がりませんの」
まあ、伯爵家の令嬢が二十五歳まで未婚となると、親としては不安にもなるだろう。
多少なりとも将来的な見込みがあるのならまだしも、ほぼ絶望的なのだから、尚更だ。
僕は目を細めてセレスティアを見遣った。
豊かな金茶色の巻き毛に、鮮やかな緑色の目。天使もかくやという顔立ち。
彼女に言い寄ろうと機会を窺っている男は数知れない。
望めば、いくらでも良い嫁ぎ先が見つかるだろう。まさに引く手数多だ。
だが、セレスティアには、その容姿と家柄でもどうにもならない大きな問題があった。
彼女自身の、個人的な問題が。
そう、この絶世の美女は、男嫌いなのだ。
いや、正確には、男に対しては何も感じないと言うべきか。ただ、可愛らしい少女にしか食指が動かないのだ。
「いっそ、適当に相手を見繕って取り敢えず子どもだけでも儲けたらどうだ? そうすれば、後は自由にできるだろうに」
僕のそんなセリフに、セレスティアは大きく身震いをした。
「まあ。ならば、セドリック様はお家の為なら筋骨隆々とした殿方と契れると?」
一瞬、そんな場面がチラリと頭をよぎってしまう。
「いや……無理だ」
「でしょう?」
胸を張ってそう返してきたセレスティアに、僕はため息をついた。
「まあ、いつものようにイヤの一点張りにするしかないのでは?」
「ですが、それで今回は凌げても、きっと次から次へと夫候補を連れてくるに違いありませんわ。より一層、執拗に」
「それが親の義務ではあるから、仕方がない」
「そんな義務はさっさと放棄してくださって構いませんのに」
彼女の両親の気持ちもよく解かる僕は、小さく笑うだけにとどめておいた。そして、首をかしげる。
「君の事情が大変なのはわかったけれど、それが僕とどんな関係が?」
そう切り出した僕に、セレスティアはニッコリと微笑んだ。男であれば、誰もが目を奪われる笑みだ。
その笑顔で、彼女はとんでもないことを言い出した。
「わたくしと、お付き合いをしていただけませんこと?」
「……は?」
自分の耳に入った言葉が理解できず、思わず眉をひそめる。そんな僕に、セレスティアは言葉を足して、繰り返した。
「わたくしと、お付き合いをしていただきたいのですわ。結婚前提、という触れ込みで」
「君と、僕が? 結婚?」
「あら、もちろん、振りですわよ? いくらあなたとでも、無理ですもの」
と、そこで、呆気に取られている僕に向ける彼女の笑顔が、どこか人の悪いものになる。
「セドリック様、最近は随分と『静か』ではありませんこと?」
彼女が言外にほのめかしていることは、充分に伝わってきた。
最近の僕は、枯れている。
こうやってパーティーに出てはいても、淑女方と戯れる気になれないのだ。女性から誘いをかけられても、さっぱり乗れない。下手をするとわずらわしささえ覚えてしまう始末だ。
「お兄様からも伺っておりますのよ? セドリック様の方から粉をかけないどころか、近寄って来る女性から逃げているようにすら見える、と」
「まあ、僕も年を取ったということだよ」
セレスティアの目が、きらりと光る。
「ふふ……そういうことにしておいて差し上げます。それは置いておいて、とにかく、セドリック様も今は女性方に近寄って来られたくないのでしょう? ですから、わたくしと正式なお付き合いをしていると触れ回るのです。わたくしは父と母を安心させられる、セドリック様は虫除けを手に入れる――ほら、一石二鳥でしてよ?」
いかが? と彼女は首をかしげて僕を見つめてきた。
「ただ見合い話をかわすよりも、誰かとお付き合いをしている、という事にした方が時間を稼げますもの。数年したらやっぱりお別れすることになりました、という事にして――少なくとも三年はいけますわ。その頃にはわたくしも三十路前。わたくしの両親も流石に諦めの境地に入り始めると思いますの」
その鮮やかな緑の眼差しを見返しながら、僕は思ったのだ。
彼女の提案に乗るのも悪くないかもしれない、と。
「よし、いいだろう」
僕は安易に頷き、そしてセレスティアと共犯者の笑みを交わしたものだった。
――それがまさか、こんなことになるとは。
窓辺から遥か遠くの二人を見下ろし、深々とため息をつく。
彼女の嗜好のことを、失念していた。
エイミーは、セレスティアの好みのまさにど真ん中だったのだ。
さりげなく、エイミーの次に年が若いドロシーを薦めてみたが、セレスティアは全く興味を示さなかった。年齢的にはいいが、中身的には今一つらしい。彼女のタイプと違うことは明らかだったから、悪足掻きに過ぎないことは、訊く前から判ってはいたのだが。
僕は、ここ数日の間で何度目になるかわからないため息を深々と吐き出した。
エイミーもエイミーで、僕を完全に放り出して彼女に付いて回っている。
彼女も仕事なのだから仕方がないと言えば仕方がないのだが……
「僕を避けている、よな」
口に出してそう呟いてみると、一気にそれは現実味を帯びてきた。
初めのうちは、気の所為かと思っていたのだ。セレスティアに振り回されて、僕のところに近付く余裕がないだけなのだ、と。
だが、一日、二日と経つうちに、どうもそれだけではないような気がしてならなくなってきた。
そこはかとなく、壁のようなものを感じてならない。
これまでにも、時々、あの子との間に距離感を覚えることがあったけれども、それとは何かが違う。単に『避けられている』だけではなく、『拒まれている』ような気がする。
エイミーを捕まえて話をしたいのに、セレスティアに独占されていてはそれもままならない。
彼女の滞在予定は七日間だから、あと二日の辛抱だ。
あと二日で、またエイミーは僕の世話係として戻ってくるし、そうすればきちんと話ができる。
だが――その二日は、あまりに長い。
「ああ、まったく!」
らしくもなく、ぼやく。そうして、もう一度、楽しそうに――見える――散歩を続けているセレスティアとエイミーを眺めやった。
*
――そんな苦難の日々を、なんとかやり過ごし。
ようやくセレスティアが出発する日がやってきて、その日は僕も早々に身支度を整え晴れやかな気分で応接室へと向かった。
七日も屋敷に逗留させたのだから、当分は僕とセレスティアの仲を疑う者は出てこない筈だ。社交界でも僕たちの噂はあっという間に広まるに違いない。
目的は達せられた。
しばらくは、僕も彼女も静かな日々を過ごせるようになるだろう。
ろくにエイミーの声も聴けず欲求不満には陥ったものの、その苦労は報われる。
喜び勇んで足を踏み入れた応接室では、セレスティアが相変わらず見た目だけは清楚な佇まいで、僕を待っていた。
「ごきげんよう、セドリック様。お名残惜しいですが、屋敷に帰りますわ」
名残惜しいのは、ひとえにエイミーがいるからだけだろう。そんなつぶやきは胸の中に留めておいて、僕は心の底からの笑みを浮かべて、答える。
「僕も寂しくなるよ」
「わたくしもですわ。このお屋敷も、もう伺うことはないでしょう」
もちろんだ。
僕は、心の中で満面の笑みと共にそう返す。そんな僕の胸中を知ってか知らずか、セレスティアは更に続けた。
「それでですね、モノは相談なのですが」
「何だい?」
たいていのことは応じてあげようと鷹揚に頷いた僕は、しかし、続いた彼女の台詞で固まった。
「エイミーを、わたくしにくださいませんこと?」
「……は?」
言葉が、耳を素通りした。
思わず眉をひそめると、セレスティアは小さく首をかしげる。
「わたくし、いずれ修道院にでも身を寄せようかと思いますの。その時に、何人かお気に入りの侍女を連れて行く予定ですけれど、エイミーも是非一緒に――」
「駄目だ」
今度は最後まで言わせず、一蹴した。
「あら」
「エイミーは僕の――メイドだ。欲しいと言われてやれるものではない」
声が強張っているのが判ったが、取り繕うことはできなかった。だが、そう言いながら、もしかしたらエイミーはセレスティアの申し出を受け入れるかもしれないという疑念が浮かぶ。
この七日間、エイミーはセレスティアにずっとくっついていた。僕といるよりも彼女といる方が良いと思っているということは、ないのか……?
もしもそうなら、それを拒む正当な理由が僕にあるだろうか。
そんな考えに捕らわれた僕に向けて、セレスティアは気遣わしげな眼差しになる。
「ですが……このままでは貴方もお辛いのではなくて?」
「辛い?」
何がだ?
彼女の質問の意図が読み取れず、僕は眉をひそめる。
エイミーを手放すこと以上に辛いことなどないだろう。彼女の申し出こそ、僕にとってはとんでもない事だ。
だが、そんな胸の内をセレスティアに打ち明けられるほど、彼女と親しくはない。
押し黙った僕を、セレスティアは無邪気に見つめている。そして、爆弾を落とした。
「エイミーは、セドリック様の大切な方でしょう? ただのメイドではなくて、特別に想ってらっしゃるのでは?」
一瞬絶句し、僕は強張った笑みを浮かべる。
「何を――」
「あら、ごまかすのは無しでしてよ? 貴方があの子に向ける眼差しを見ていれば、一目瞭然ですもの」
「……僕はあの子の保護者のようなものだ」
そう答えた僕に、セレスティアは何よりも雄弁に「呆れた」と語る目を向ける。
「それはごまかしていらっしゃるの? それとも、本当に気付いておられませんの?」
揶揄するような彼女のその問いかけに、答えることができなかった。僕がムッと唇を引き結んでいると、セレスティアが小さくため息をつく。
そうして、言った。
「あの子もそうですわ」
「え?」
「エイミーも、貴方のことを好いていますわ」
「まさか!」
思わずそう声を上げてしまう。だが、二の句を継げずにいる僕に、セレスティアがまたため息をついた――今度は、わざとらしく。
「あの子の眼差しに気付かないなんて、セドリック様の女性経験もたいしたものではございませんのね」
皮肉を耳から耳へと聞き流す。
――エイミーが? 僕を?
慕われているのは、わかっている。しかし、エイミーの言動を振り返ってみても、僕に対して異性に向ける類いの好意を抱いているようには思えなかった。
エイミーが壁を作るのは、その所為だろうか。主人に恋心を抱くのは正しい事でないと、そう思っているから?
もしもそうなら……
胸に微かな希望が湧き起こる。
だが、その希望を掻き立てた張本人が、僕の言葉を待たずに今度はそれに冷や水をかける
「でも、貴方とあの子では身分が違い過ぎますもの。決して結ばれない二人が近くにいるのは、苦しいだけでしょうに。エイミーはまだ自分の気持ちに気付いていないようですから、今のうちに距離を置いた方がよろしいのではなくて?」
――決して結ばれない。
やはり、そうなのだろうか?
自問にふける僕の腕に、セレスティアがそっと手を置いた。
「わたくし、貴方は良いとして、エイミーが悲しむ姿は見たくありませんわ」
「セレスティア……君は本当に自分を偽らないな」
そんなところは、時々羨ましくなる。
唇をすぼめてのその言い様があまりにも彼女らしくて、僕は思わず小さな笑みを漏らしてしまった。それに釣られるようにして、セレスティアも微笑む。
「エイミーのことについては、取り敢えず今回は引きさがりますわ。セドリック様も、少しお考えになってみてくださいな。いつでもわたくしはお力になりますから。何かあったら、おっしゃって下さいまし」
その言葉に、僕は何も返すことができなかった。
*
そうして、セレスティアは来た時と同じように、艶やかに去って行った。
代わりに、いつもの生活が戻ってくる。
夕食も終え、就寝前の身支度の為の湯を持ってきたエイミーが、ペコリと頭を下げた。
「では、他にご用はありませんか?」
耳に馴染んだ、久し振りの台詞。
――あまりに久し振りに感じられて、返事をするのを忘れた。
「旦那さま?」
エイミーの声が、いぶかしげな響きを帯びる。
「ああ、ごめん。大丈夫だよ」
「そうですか。では、失礼いたします」
もう一度お辞儀をして部屋を出て行こうとする彼女を、気付いた時にはもう呼び止めていた。
「エイミー」
扉に手をかけた彼女が、振り返る。
「はい?」
真っ直ぐに、大きな目が見返してきた。
そこに、どんな色があるだろう?
僕はエイミーに歩み寄り、三歩分ほどの距離をおいて立ち止まった。
「君は、セレスティアをどう思った?」
「……お優しくてお美しくて、とても素敵な方だと思います」
彼女の瞳は揺らがない。
そこにどんな想いがあるのかが、判らない。
「彼女が僕の妻になるとしたら――どう思う?」
ズルい問いかけだった。充分に、自覚はある。だが、彼女に揺さぶりをかけてみたかったのだ。
その問いを口にしながら、僕は目を凝らしてエイミーを探った。
沈黙。
そして。
チラリと一瞬彼女の顔をよぎった、微かな陰。
見間違いかと思うほどあっという間に消え去ってしまったからはっきりと掴むことはできなかったが、それが僕の言葉を喜ぶものではなかったのは確かだった。
それをキレイに拭い去り、エイミーが答える。
「旦那さまの大事な方でしたら、一生懸命お仕えさせていただきます」
生真面目に、淡々と。
だが、どこか苦しげに?
その言葉が本心からのものでないとしたら。
――そう、なのだろうか。セレスティアが言ったような気持ちを、エイミーは僕に抱いてくれているのだろうか。
けれど、兄や父親のように慕っている者が女性を連れてきても、女の子は同じように嬉しくはない気持ちを抱くものではないだろうか。
僕は確かにたくさんの女性と恋愛のようなものを楽しんできたが、その経験はエイミーにはさっぱり役に立っていない。彼女たちの考えていることはガラスのように透けて見えたが、エイミーは分厚い壁の向こうに隠れている。
――どうやったら、その壁を壊せるのだろう。
たとえば、抱き締めたら? 抱き締めて、柔らかそうなその唇に、キスをしたら?
君のことを、娘や妹のようにではなく、一人の女性として大事に想っていると伝えたら、どうだろう?
「旦那さま?」
不意に呼ばれて、我に返る。
気付けばエイミーのすぐ傍まで近付いていて、片手が彼女の頬に触れていた。
すぐに離すべきなのはわかっていた。けれど、見上げてくる栗色の目に吸い寄せられるように、意思に反してもう片方の手も上がり、両手でエイミーの頬を包み込んでしまう。
そうして少し頭を下げて、唇ではなく、ふわりとした彼女の前髪に口付けた。
「……セレスティアとは、本当は何でもないんだ。彼女と結婚することは、絶対にないよ」
ジッとエイミーの目を見つめながら、告げる。
「何故、そんなことをわたしにおっしゃるのですか?」
その声、その眼差しに安堵の色があるように感じられたのは、僕の欲目だろうか。親指で、そっと頬を撫でる。
「何故?」
怪訝な面持ちとなったエイミーに、僕は彼女の一言を繰り返して小さく笑った。
「ただ、君に知っておいて欲しかったんだよ」
名残惜しく手を放し、一歩後ずさる。
「さあ、もうお行き。明日からはまた元通りの日々だよ」
「はい。お休みなさいませ」
エイミーはいつもと変わらぬ様子でそう言って、今度こそ部屋を出て行く。
独りになった僕は、そこに残る彼女の温もりを閉じ込めるように、両手をきつく握り締めた。
そうして、考える。
僕はこれからどうすべきなのか――どうしたいのか、を。
あるいは、そのどちらを優先できるのか、を。