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エイミーと旦那さま  作者: トウリン
『伯爵とメイドの日常』
23/60

あなたの大事な人◇サイドA

 のんびりとした午後のひと時。


「セディ様が女の方をお連れになるんですって!」


 使用人部屋の休憩室で他のハウスメイドの方々とお茶を飲んでいたわたしの耳に、マーゴさんのそんな声が飛びこんできました。


「え? 女性? 個人的に?」

 信じられない、という声でそう言ったのは、ドロシーさんです。わたしも、同じ気持ちでした。ティーカップを持ち上げかけた手が、途中で止まります。


 ――旦那さまが、女性を……?


 その時わたしのお腹の辺りがモヤッとして、頭で考えることなくお茶を一口含んでいました。いえ、二口、三口と。

 あっという間に中身を飲み終えてしまったカップをソーサーに戻して、わたしはマーゴさんを見つめました。淹れたてだったお茶はまだとても熱くて、火傷をした舌がジンジンと疼きます。


 このお屋敷に女性がお見えになることは、けっして珍しいことではありません。

 お屋敷でパーティーを開いたら、一晩で何十人というご婦人方が来られます。

 けれど、旦那さまが個人的にお一人だけをお招きするということは、今までありませんでした。


「それ、どこのご令嬢なの?」

「セドリック様のご友人のラザフォード様の妹君ですって。二十五歳だけど、まだご結婚なさってないのよ」

 ドロシーさんの質問に答えたのは、色々とよく御存じなシェリルさんでした。


 二十五歳。

 旦那さまは二十八歳ですから、ちょうどよいお年です。

 ラザフォード様はとても整ったお顔立ちをされていますから、その妹君もお美しいに違いありません。


 ……何となく、先ほどと同じところがシクシクと痛みました。そっとさすってみたら、すぐに治まりましたけれど。


 ――その方は、いついらっしゃるのでしょうか。


「で、いつお見えになるんですか?」

 一瞬、知らないうちに声が出てしまったのかと思いましたが、わたしの代わりにそう尋ねられたのはキャリーさんでした。他の人たちも興味津々、という感じです。


 みんなの視線を一身に浴びて、マーゴさんは肩を軽くすくめました。

「三日後らしいのよ。もしかしたらもしかする、でしょう? 快適に過ごしていただかないと」

 その「もしかしたら」、というのは、もしかすると「もしかしたら旦那さまの奥さまになるかもしれない」という意味なのでしょう。

 それは、とてもおめでたいことです。もしも本当に奥さまをお迎えすることになれば、お屋敷中が湧き立つに違いありません。

 旦那さまはとてもたくさんの女性と交際なさっていらっしゃるようですが、ご結婚についてはほんの少しも匂わせたことがありませんでした。

 お年から考えればまだお急ぎになる必要はないのでしょうけれど、先代の頃からずっとお仕えなさっているジェシーさんやマーゴさんは、ずっとやきもきしていたことでしょう。


 ……わたしも、嬉しいです。旦那さまが素敵な奥さまを迎えられて、お幸せになってくだされば。旦那さまはわたしたちにとてもお優しいですから、きっと、奥さまやお子さまにもお優しいはずです。きっと、幸せなご家庭を築かれるはずです。

 旦那さまのご両親は早くに亡くなられたとうかがっています。全然そんな様子はお見せになりませんが、心の中ではお寂しかったと思うのです。早く、大事な、特別な方を得られると良いと思うのです。


「あら、エイミーどうかした? 頭でも痛いの?」

 ふと気付いたように、ドロシーさんがそう声をかけてくださいました。

「いえ、全然。どうしてですか?」

「どうしてって、……なんか元気ないから」

「そうですか?」

 首をかしげたわたしに、ドロシーさんは肩をすくめました。

「まあ、あんたはいつもそんな顔かもね」

 ……『そんな顔』とはどんな顔なのでしょう。


「わたし、そろそろお仕事に戻ります」

 休憩時間はまだもう少し残っていましたけれど、何となくもうその場にはいたくなくて、わたしは椅子から立ち上がりました。

「あら、そうなの? お菓子まだ残ってるのに」

 確かにお皿にはクッキーが何枚か手つかずでありますが、食べたい気が起こりません。わたしはドロシーさんの方へお皿をそっと押しやりました。


「わたしはもうお腹がいっぱいなので、ドロシーさんどうぞ?」

「やった! ありがと」

 嬉しそうなドロシーさんに、変にひんやりと冷えていた胸の中が、ホッと少し温かくなりました。きっと、花瓶を一つか二つピカピカに磨いている間に、もっと気分が良くなります。


 わたしはみなさんに頭を下げて、その場を後にしました。


   *


 その方がいらっしゃったのは、マーゴさんがおっしゃったように、それから三日後のことでした。

 馬車からふわりと降り立ったその人は、とてもとてもお美しい方でした。

 金茶色の髪は艶やかで、離れたところからでも緑色だと判るその目はまるで旦那さまがお持ちになってるブローチの緑柱石のようです。舞踏会などでお綺麗な方をたくさん見てきましたが、その方ほど目を奪われてしまう方はいらっしゃいませんでした。


「この方はセレスティア・ラザフォード嬢だよ。ほら、僕の悪友のブライアンの妹君だ。似てないだろう?」

 いたずらめいて微笑んだ旦那さまと並んで立たれる様子は、一枚の絵のようです。

 とてもお似合いのお二人に、何故でしょう、わたしのお腹の辺りがまた痛いような締め付けられるような、変な感じになりました。


 何だろう、と首をかしげているうちに、すぐに消えてしまいましたが。


 まあ、いいです。


 セレスティアさまは気取りのない方で、わたしたちをグルリと見渡してニッコリと微笑まれました。

「ごきげんよう、わたくし、出不精なものであまりよそのお屋敷にお伺いすることはございませんの。何か失礼がありましてもお許しくださいね?」

 まるで銀の鈴を振るようなお声です。

 お世話をさせていただくのがわたしたちになるからでしょうか、セレスティアさまはさらりと流した視線をわたしたちハウスメイドが立つところで止めると、一段と艶やかな笑顔になられました。何となく、目が合ったような気がしたのは、気のせいでしょうか。


「では、セレスティア、こちらへ」

「はい、セドリック様」

 旦那さまはセレスティアさまのお背中に手を添えられていて、連れだって歩くお姿も、親しげです。

「エイミー、お茶をお出しして差し上げて」

 旦那さま方が応接室に向かわれると、ぼんやりとお二人の背中を見送っていたわたしを呼びとめて、マーゴさんがそうおっしゃいました。

「はい」

 頷いて顔を上げると、マーゴさんはまじまじとわたしを見つめていらっしゃいます。


「何か?」

「いや、ちょっと……何でもないよ。キッチンに行って準備をしてきなさい」

 マーゴさんは小さく笑って首を振ると、わたしの背中を押しました。

 何だろう、とは思いましたが、マーゴさんは言うべきことはきちんと口に出される方です。きっと、たいしたことではないのでしょう。

 キッチンではすっかりお茶の準備が整っていて、待ち構えていたキッチンメイドのハナさんがポットにカップとソーサー、お菓子が乗せられたワゴンをわたしに寄越しました。


「じゃあ、粗相のないようにね。もしかしたら、旦那様の大事な人になるかもしれないんだから」

「はい」

 ハナさんの気負いがわたしにもうつったようで、何となく肩に力が入ります。


 応接室に着いたら、小さく深呼吸をしてからノックをしました。

「失礼します」

 扉を開けて、中に入って――青と緑の眼差しをいっぺんに向けられて、ちょっと足が止まってしまいます。

「ああ、エイミー、ありがとう。どうした? こっちにおいで」

「すみません」

 声をかけられてまた歩き出しましたが、お二人の視線を受けていると、何となくぎくしゃくしてしまいます。


「この子はエイミー、うちの……ハウスメイドだ」

 紹介していただいて、わたしはセレスティアさまに向かってお辞儀を一つ、いたしました。身体を起こすと緑色の目がキラキラと楽しそうに輝いていて、あまりのまぶしさに瞬きをしたくなってしまいます。

 少し怯んでしまったわたしに、セレスティアさまが立ち上がり、優雅な動きで近付いてこられました。

「あらあら、まあ――」

 わたしのすぐ前にお立ちになったセレスティアさまはすらりと背が高くて、何だか良い香りがします。どこからか小さな舌打ちのようなものが聞こえた気がしましたが、この場にそんな無作法をなさる方はいらっしゃいません。気の所為だったのでしょう。


 頭半分ほど背が高いセレスティアさまを見上げていると、優しく微笑み返してくださいました。

「ふふ、可愛らしいメイドさんね」

「あの、お茶を……」

 言いながらポットからお茶を注ごうとしましたが、それより先に、セレスティアさまが両手を伸ばしてわたしの頬に触れてきました。さわさわと撫でてくる指先は、びっくりするほど柔らかくてすべすべしています。

「ふわふわだわ」

 おっとりとした夢見るようなお声でそうおっしゃって、わたしの頬をつまんだり潰したりなさります。


 これは、いったい、どうしたら良いのでしょう。

 戸惑っているうちに片方の手が頬を離れて、うなじの辺りにやってきました。


「栗色で大きな目。まるで小鹿ね。その髪、下ろしてみてもいいかしら?」


 ……何となく、ちょっと、怖いです。


 思わず後ずさりそうになったところで、ようやく旦那さまがお声をかけてくださいました。

「セレスティア、その子に仕事をさせてやってくれないか?」

「あら、ごめんなさいね」

 セレスティアさまはニッコリと微笑まれると、ふわりとドレスを膨らませて旦那さまの方へと向き直りました。


 ――セレスティアさまの肩越しにチラリと見えた旦那さまの目がいつもと違うような気がしたのは、気の所為でしょうか。

 いつもより、何というか、少し冷たい、と言いましょうか……


 わたしの手が遅いからかと思いましたが、次にわたしと目が合った時には、いつも通りの旦那さまで、無意識にホッと息を漏らしてしまいました。


「申し訳ありません、すぐにご用意いたします」

「ゆっくりでよろしくてよ。その可愛らしい手に火傷なんてしないでね?」

 セレスティアさまはわたしの手をそっと包み込んで、そうおっしゃってくださいました。

「はい、ありがとうございます」


 お美しいだけでなく、とてもお優しいお方です。

 もしも旦那さまとご結婚なさったら、きっと旦那さまを幸せにしてくださるに違いありません。

 そうなれば、わたしも嬉しいです。

 旦那さまはわたしを幸せにしてくださいますから、旦那さまにも幸せになっていただきたいのです。その為にわたしにできることがあるのなら、できる限りお手伝いさせていただきたいのです。

 わたしにできることといったらお世話をさせていただくことくらいですから、ちゃんとこなさないと。

 お茶の準備をするわたしに微笑みながら、セレスティアさまは旦那さまの方へ行かれると、何かを囁かれたようでした。


 そんな二人のご様子はお似合いでいらっしゃって――とても仲睦まじげで。


 そのご様子を見ていると何故か胸が苦しくなって、わたしは、思わず目を伏せてしまいました。そのまま手だけを動かし続けます。

「どうぞ」

 テーブルの上にお茶とお菓子を置いて、一歩下がります。

「ありがとう、エイミー」

 旦那さまの、いつもと同じ温かな笑顔。

 いつもと同じなのに、わたしはキュッと胸が縮まったような痛みを覚えました。

「もう少し、ここにいてくださる?」

 わたしでもうっとりしてしまいそうな微笑みを浮かべながら、セレスティアさまがそうおっしゃいました。でも、まさか、使用人のわたしがそんなことをするわけにはいきません。

 けれど、お断りするのも無作法な気がして口ごもってしまいましたが、今度も旦那さまが取り成してくださいました。


「エイミーは忙しいんだよ。無理を言わないでやってくれ」

「あら、残念ですこと」

 くだけた口調の旦那さまに、セレスティアさまが艶やかな笑顔で返されました。慣れた雰囲気の遣り取りは、親しげです。このお屋敷にお連れになったのは初めてですが、きっと、ラザフォードさまのお屋敷ではよくお逢いになられていたのでしょう。


 ――やっぱり、この方は旦那さまの大事な方……?


 不意に、熱に浮かされたいつかの旦那さまのお声が頭の中によみがえってきました。


 ――僕の、大事な……


 あの先に続いていたのは、セレスティアさまのお名前だったのでしょうか。

 二人きりになられたら、あんなふうに愛おしげに呼び合われるのでしょうか。


 チクチクと痛む胸元をとっさに握り締めたわたしに、セレスティアさまがまた向き直りました。

 誰もが見惚れてしまう微笑みを浮かべたままで。


「またお話しましょうね」

「……はい」

 扉のところでもう一度お辞儀をして、部屋を出ます。扉を閉める直前に、軽やかなセレスティアさまの笑い声が聞こえてきました。


 気付かないうちにわたしは小走りになっていて、それに気付いたことで足が止まります。

 わたしは、あの部屋から早く遠ざかりたかったみたいです。

 あの部屋から――旦那さまから……?


 ――こんなふうに旦那さまから早く離れたいと思ったのは、初めてのことでした。

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