秘密◇サイドC
「セディ様? その耳はお留守でいらっしゃいますか?」
報告書を読み上げていたジェシーのその台詞に、僕はハッと我に返った。
「ああ、ごめん、ちゃんと聞いていたよ。それでいいと思う。良いようにやってくれ」
そう答えた僕を、ジェシーが微かに眇めた目で見つめてきた。
「最近……どうもお気がそぞろな時が多いように見受けられますが、お疲れでしょうか?」
「そうかい?」
「ええ。そうですね……流感に罹られた頃からかと」
僕は内心ギクリとしながら表面は微笑みを浮かべて首をかしげた。
「ああ、病み上がりだからね。この年になると体力の回復が鈍るらしい」
「さようでございますか? ならば一度医師に診ていただくよう手配をしなければなりませんね」
「ああ、いや、それほどは悪くないよ。大丈夫。そのうち治る。わざわざ医師にご足労いただくほどじゃない」
「ならばよろしいのですが」
姿勢を正したまま眉一つ動かさないジェシーのその視線に、何故だろう、僕がまだ子どもだった頃、いたずらをすると同じように見下ろされていた事を思い出した。ジェシーは立っていて、僕は椅子に座っている。その所為で、目線がちょうどその頃と同じ感じになっているからだろうか。
「何だ?」
今立ち上がるのも不自然だ。居心地悪く小さく咳払いをして、僕はそのまま彼を見つめ返した。
何か不手際でもしたのだろうかと内心首をかしげながら。
彼はそんな僕に無言のまま視線を注ぐだけだ。
幼い頃に染み付いたモノは過去のものになったと思っていたが、意外に根深く頭の中に残っているらしい。かつて僕を『指導』していた頃のものと近しい眼差しに、ジワジワと緊張が高まっていくのが感じられた。
だが。
「いえ、別に」
ジェシーから返ってきたのは短い一言だけだ。
あんなに意味有りげな目で睨んでおきながら、それはないだろう。
そう思いはしたが、下手に突っ込んだらまさに藪蛇だ。ジェシーという蛇に噛み付かれるどころか丸呑みにされかねない。
「そうか。……報告は以上だね?」
「はい」
「じゃあ、お茶にしようか」
習慣でそう口走り、僕は一瞬固まった。
お茶にすることに問題があるわけではない。仕事は終わった。午後三時を少し過ぎた時間はお茶にするのに相応しい。小腹も空いてきた。
では、何が問題なのかと言えば――それを用意する人間だ。
僕がお茶を望めば、当然エイミーが準備をしてくれる。それはもうきっちりと、丁寧に。
だが、非常に、いたたまれない気分になるのだ。
彼女が、決して、僕と目を合わそうとしないから。
いや、全て僕が悪いのは解かっている。
流感で寝込んだ、あの日。あの時僕がしでかしてしまったことが、全ての元凶だ。
けれど、自分が悪いということが解かってはいても、あの子に目を逸らされると、正直、きつい。目を逸らされるだけでなく、危うく手が触れそうにでもなるとパッと逃げられるのだ。
僕が彼女にしたのは、多分、キスだけだ。そうであることを、切実に願う。
いくら熱で呆けていたとはいえ、僕の理性はそれ以上の事をするのを防いでくれたと信じている――そうでなければ、困る。
だが、一つ、大きな問題がある。
……エイミーは、あの時より前にキスをしたことがあるのだろうか。
――ある筈がない。
つまり、あの子にとっては初めてのキスだったのだ。
それなのに、その貴重なひと時を、僕はおぼろげにしか覚えていない。柔らかかったに違いない唇の感触も、霞がかかっているかのようにぼんやりとしか、覚えていないのだ。彼女がどんなふうに反応したのかも。
これまで重ねて来たキスで令嬢方が応えてきた姿に、エイミーを重ねようとしてみた。
――全く、想像もできない。
やはりエイミーは嫌がっていたのだろうか。だから、僕を避けている……?
――初めてのキスを熱で理性を欠いた男に奪われたら、嫌って怒って怯えて当然だ。
自分で自分を罵って、思わず深々とため息をついてしまう。
「セディ様?」
目を上げれば、ジェシーが訝しげにこちらを見ていた。
「ああ、何でもない。お茶はやっぱりいいよ」
「左様でございますか」
ジェシーは小さく頷き、そう返してくる。
単なる八つ当たりと判っていても、彼の泰然とした態度が癪に障る。付き合いの長いジェシーが、僕とエイミーがぎくしゃくとしていることに気付いていない筈がない。判っているのに澄ましているのだ。
「ジェシーも下がっていい」
むっつりとそう言って片手を振った僕に、ジェシーが慇懃に頭を下げる。
「では、失礼いたします」
そのまますぐに部屋を出て行くのかと思ったら、「そう言えば」という風情で不意に彼が振り返った。
「最近、エイミーが妙な事を屋敷の者に訊ねて回っているらしいですよ」
「妙な事?」
「はい」
いったい、何なんだ?
一瞬首を捻った僕が更に詳しく訊こうと顔をそちらに向けた時には、もうジェシーの姿は扉の向こうに消えていくところだった。呼び止める暇もなく、扉は閉ざされてしまう。
中途半端な情報だけ残されて、胸の中がジリジリする。
妙な事、とは、何なのだろう。
ジェシーがそう表現したからには、仕事のことでないのは明らかだ。
頭を巡らせてみても、ふだん口数の少ないあの子が発する質問など、さっぱり思い浮かばない。
落ち着かない気分で立ち上がり窓辺に行きかけて、頭の中に一つの可能性がパッと浮かんだ僕は思わず立ち止まる。
――まさか、この屋敷を出たい、とか……?
僕がエイミーにしてしまったこと。
そして、エイミーが僕を避ける態度。
それを組み合わせれば、あの子がこの屋敷を出たいと思っているのは明らかじゃないか?
ここを辞めて外で働くにはどうしたらいいのかとか、皆に訊いて回っていたのだろうか。
せかせかと足を進めて窓辺に立つ。両開きのそれを押し開けると冷たい空気がサッと入り込んできて、僕は目を閉じてそれを受けた。
血がのぼった頭を雪の匂いがする冷気が包む。
そうしておいて、今思い浮かんだその事について、考えた。
エイミーを手放せるとは、思えない。
ああ、だけど。
もしもあの子が望んだら、僕にそれを拒む正当な理由はあるだろうか。
僕は目を開けて白銀の世界を見渡す。
今目に映るのは中庭だけだけれど、門を越えても僕の領土、僕の世界は遥かに広がっている。
ここでは僕の目と手が行き届かない場所はない。ここにいる限り、あの子は僕に守られる。
だが、ここを一歩出たら――?
エイミーは、この狭い世界しか知らないのだ。意図的ではなかったにしろ、僕がそうしてしまった。
都の下町にどんな人間がはびこっているのかを知らないし、よその屋敷では使用人に対して言葉よりも先に鞭を振るうところもあるのだと夢にも思っていない。
そんな彼女を、どうして外に出せるだろう。
エイミーと話をしなければ。そしてもしもここから出たいというのなら、何としても引き止めないと。
それは、あの子を託された僕の義務だ。そうだろう?
僕は窓枠をきつく掴み、そして室内に振り返る。
この胸の中にあるのは、利己的な願望ではない、彼女の為にそうするのだ、と自分自身に言い聞かせながら。
*
やっぱりお茶が欲しくなったと言った僕に、エイミーがワゴンを押して紅茶一揃いにビスケットを運んでくる。
書斎のサイドテーブルの脇にワゴンを止めると、いつも通り黙々と、支度を始めた。
真っ白なティーカップに深紅の紅茶を注ぐその手付きは流れるようで、全く危なげがない。きっと、どこの屋敷に行ってもメイドとして重宝がられるだろう。
そんなふうに思って眉をしかめ、ふと、何かが違うことに気付いた。
その何かが何だろうと首を捻り、少し考え、判った。
エイミーの雰囲気だ。
ここ数日常に身にまとっていたよそよそしさが消えている。確かに口を利いてはいないが、それは以前からだ。
屋敷の者に訊いて回っていたこととやらと、何か関係があるのだろうか。
僕の中に、ムクムクと不安が込み上げてくる。
お茶の準備が整うと、エイミーはカップとビスケットをトレイに載せて書き物机に持ってきてくれた。
「お待たせいたしました」
その声も、いつも通り。
「……ありがとう」
そう言った僕を見つめ返してきた目も、真っ直ぐに僕に向けられている。
何故だ?
意を決して彼女と向き合おうと肩に力を入れていた僕は拍子抜けする。これでは全て元通り、まるで何もなかったかのようだ。
――そうなのか?
エイミーにキスをしたのは熱に侵された僕の頭が見せたただの夢、あれから彼女の様子がおかしく思われたのは、僕の気の所為。
いいや、まさか、そんな筈はない。
「では、また何かおありでしたらお呼びください」
ぺこりと頭を下げて踵を返そうとしたエイミーを、思わず手を伸ばして捕まえていた。ギュッと握った瞬間、僕の手の中の彼女の指先がピクリと震える。
やっぱり、夢でも気の所為でもない。
微かな、けれどもはっきりと感じられたエイミーのその反応に、僕は確信する。
では何故、彼女は何もなかったふりをするのかという自問には、ろくに考えずとも答えは出た。
もちろん、エイミーは全てをなかったことにしたからだ。
ベッドの上でのキス――僕との。
エイミーにとって、それはそんなに簡単に忘れられるようなものなのか?
そう思った僕の胸に、何か熱く苦いものが充満する。
僕は彼女の目から掴んだままの彼女の手へと視線を移した。
ほんの少し力をこめれば砕けてしまいそうな細い指。その桜貝のような爪の先にキスをしたくてたまらない。そうして、エイミーがどんな反応を見せるのか、見てみたい。
無意識のうちに僕は親指をずらし、唇の代わりにそれに触れていた。
「旦那さま?」
僕を呼ぶエイミーの声が微かに震えているように思われたのは、僕の願望の表れに過ぎないのだろうか。
彼女の手を握ったまま、大きな栗色の目を覗き込んだ。そこにあるのは困惑の色だけで、嫌悪や怯えはないことに心の底から安堵する。
「あの、何かご用でしょうか?」
僕は無言で手を開く。エイミーは束の間僕の手のひらの上に指先を止め、そして胸元に引き寄せるともう片方の手で握り締めた。
そんな彼女の仕草を目で追いながら、僕はカップを取り上げ一口含む。紅茶の香りがまともに喋れるだけの落ち着きを呼び戻してしてくれるのを待って、口を開いた。
「ジェシーから聞いたのだけど、何か知りたいことがあるんだって?」
……我ながら、さりげなく訊けたと思う。
だが、エイミーから返されたのは、思い切り怪訝そうな眼差しだった。
「知りたいこと、ですか……?」
小さく首をかしげて、いぶかしげに問い返してくる。
ごまかしているようには見えない。
屋敷中の者に訊きまわっておいて、僕にはさっぱり訊く気になれないだなんて、いったいどんな質問なんだ?
「色々な人に訊いていたらしいけど」
何気ない口調で、そう付け足した。と、一瞬眉をひそめたエイミーが、次いでパッと「ああ」と言わんばかりの顔になる。
「あれは……もう解決しました」
「解決した?」
いったいどんな疑問で、どんな解決に至ったというんだ?
――飲水には、気持ちを落ち着かせる効果があるはずだ。
やきもきしながらまた一口紅茶を飲み、僕は小さく咳払いをした。
「何を知りたかったんだい?」
微笑みながら、問い掛けた、が。
「言いたくありません」
にべもなくはねつけられて、取り繕った平静はいとも簡単に吹き飛んだ。思わず立ち上がり、低い声で重ねて問う。
「ここを、出て行きたいのかい? そのつもりなのか?」
「え?」
唐突な僕の変化に、きょとんと、呆気に取られたようにエイミーが目を見開く。その驚きは、隠していた思惑を見透かされた為なのか、それとも全く思いも寄らないことを訊かれた為なのかは、判らなかった。
数歩近寄り、手を少し伸ばせば触れることができる距離で足を止め、僕はエイミーを見下ろした。
彼女はいくつかゆっくりとした大きな瞬きをする。と、不意に、その視線を僕から逸らした。
「その方が、よろしいのでしょうか」
囁くような声がかろうじて僕の耳に届いたけれど、一瞬、意味が呑み込めなかった。
「?」
「わたしは、お暇をいただいた方が良いのでしょうか」
エイミーが顔を上げ、今度ははっきりとそう問い掛けてくる。
――何をバカなことを。
そう言いたかったが、咄嗟に声が出てこなかった。
「旦那さまには、とても良くしていただきました。もしもお暇をとおっしゃるのなら――」
「まさか! 僕がそんなことを言うなんて、どうしてそんなふうに思ったんだ!?」
思わず両手を伸ばしてエイミーの頬を包み込む。目を逸らさせないように、柔らかな温もりをしっかりと捉えた。
「僕の方から出て行けなんて、絶対に言わない。僕から離れろなんて――絶対に言うものか」
額が触れ合うほどの距離で断言した僕に、エイミーの視線が微かに揺れる。そこに安堵の光が灯るのを、僕は確かに見た。
安堵―― そう、こんなに間近に顔を寄せていても、彼女は僕に安心している。
僕に対してエイミーが抱いているのは、どんな気持ちなのだろう。
単なる雇い主?
兄や父に対するようなもの?
きっと、そうなのだろう。だからこそ、こんな距離にいても安心するし、キスをしてもなかったことにできてしまう。
エイミーが僕の腕の中で安らいでくれるのは、嬉しい。
それは偽らざる僕の本心だ。
けれど、華奢な身体をこの腕で骨が砕けんばかりに抱き締めて、決してなかった事にはできないようなキスをしてしまいたいとも、思ってしまう。
もしもそれを実行すれば、僕がエイミーをどんなふうに想っているのか、すぐに知れてしまうだろう。
もしもそうなれば、エイミーはどうなるだろう? 兄とも思っていた人が、ただの一人の男に過ぎないとわかってしまったら?
今度こそ、小鹿のような無垢なその目に嫌悪の色が浮かぶのかもしれない。
あるいは、うっとりと恋に浸った眼差しで僕を見つめるようになるのかもしれない。
――分の悪い賭けに挑む勇気はなかった。
僕はエイミーの額にそっと口付け、手を放す。そうして、穏やかな声を心がけて、告げる。
「いいかい、エイミー。君が――君の方から出て行きたいと言わない限り、僕は君をどこかへやったりはしないよ。誓っただろう、傍に居る、と」
「……はい」
ほんの少しの間を置いて、エイミーはコクリと頷いた。その間に小さな頭の中で何を考えていたのか、知りたいような、知りたくないような、相反した気持ちがせめぎ合う。
僕はもう一度、今度は彼女の頬にキスをして、一歩後ずさった。
「引き止めて悪かったね。さあ、もう行きなさい」
「はい。失礼いたします」
ふわりとスカートを翻らせ、エイミーが僕に背を向ける。それを引き止めたくて疼く手を抑え込み、椅子へと向かった。
彼女がドアを閉めると同時に、ドサリと椅子に身を落とす。
僕は、エイミーの保護者だ。
彼女を育て、護り、導く者。
言うなれば、彼女の人生の傍観者。そうあるべきだった。
エイミーが僕に恩義を感じ、僕が彼女の雇い主――支配者である以上、僕から彼女を求めてはいけないのだ。彼女は僕を拒めないのだから。
あのキスをなかった事にしようと考えたことが、今のエイミーが僕に対して抱いている気持ちを何よりも雄弁に表している。
いつか僕は、エイミーにとって『優しい庇護者』以外の存在になれるのだろうか。男としての僕を見せても、受け入れてもらえるようになるのだろうか。
その日が来るまでは、この想いを知られるわけにはいかない――たとえその日が永遠に来ないとしても。
エイミーには、何の負い目も感じて欲しくないから。
僕は小さな箱に押し込めるようにして、くすぶる気持ちを閉じ込めた。
そうして幾重にも箍をかけ、胸の奥へとしまいこむ。
そんな箍、きっとすぐに弾け飛んでしまうくせにと頭の片隅で嘲笑う自分の声は、聞こえなかったふりをした。