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エイミーと旦那さま  作者: トウリン
『伯爵とメイドの日常』
21/60

秘密◇サイドA

「誰かと間違えてキスをするって、男の人にはよくあることですか?」


 ……お屋敷の男の人たちに訊いてみました。


「いや、まさか、有り得ないでしょ。まずキスできる距離に近付いた段階で、香りで判るから。それで気付かなくても、抱き締めたら間違えようがないし、キスしても判らないだなんて言語道断だよ。別の誰かと間違えるなんて、女の子に失礼すぎるって。俺なら絶対、有り得ない」


 ――これは、カルロさん。


「だけど、急にどうしたの? ……ああ、エイミーちゃんもそういうお年頃かぁ。興味出てきたんだ? あ、なんなら俺で試してみる? うまいよ? 大丈夫、初心者向けにしてあげるから」


 にっこり笑って伸ばされたカルロさんの手をかいくぐって、わたしはその場を後にしました。


   *


「え……間違えて? うぅん、そうだなぁ。真っ暗だったりしたら間違えるかもしれないけど……でも、そもそも二人っきりで会うとかするなら、もちろん付き合ってる子でしょ? 付き合ってる子ならだいたいどこにいるか把握してるはずだから、思いも寄らない場所でばったり会う、とかはまずないし、彼女と鉢合わせするような場所にバラバラに行くなんてないだろうし、キスする状況になるような場所に行ってその子とはぐれるようなことになるわけないし……ごめん、そういう場面が全然想像できない。第一、そもそも、言葉も交わさず顔も見ずにキスだけとかは、ないんじゃないかな。だから、間違えようがないよ」


 ――これは、ゲイリーさん。


「君からそんな質問が来るとは思わなかったけど……ああ、またドロシー辺りから何か聞いたんだね? 君にはまだ早いよ。時期が来たら旦那様がちゃんと良い人を見つけてくれるって。そりゃもう吟味して」


 安心させるように深々と頷いたゲイリーさんに、最近馴染みとなった胸のモヤモヤが何故か復活してきて、わたしはその場を後にしました。


   *


「私が女性として触れたことがあるのは奥さんだけだからね。四十年、彼女しか触れたことがないから、多分間違えないと思うけれどね」


 ――これは、ジェシーさん。


「――もしや、誰かに何かされたのかい? その『誰か』は、私の知っているひとかな? まさか――」


 スッと狭まったその眼差しに知られたくないことまで見抜かれてしまいそうで、わたしはその場を後にしました。


   *


「キスをした事がないので判らないが、ヒトの顔の造りは基本的には同じなのだから気付かないかもしれない」


 ――これは、デニスさん。


「確かめるにはある程度のデータが必要だな」


 ……何だか『データ』の一つにされそうな気がして、わたしはその場を後にしました。


 結局みなさんの意見はバラバラで、質問に対する「これ」といった答えは、見つかりませんでした。

 普段の言動が似ていたら考えることも似ているでしょうから、カルロさんの答えが一番『正解』に近いのかもしれませんが。少なくとも、ジェシーさんやデニスさんは違いますよね、きっと。

 旦那さまも香りで女性を判別できそうですが、きっとあの時は流感で鼻が詰まっていたのでしょう。


 ……ああ。思い出したら何だかまたカッカとしてきました。


 ――わたしがこの質問の答えを探し求めることになった発端は、流感騒ぎの時の、アレです。


 流感の猛威は過ぎ去って、この一週間、熱を出した人はいません。けれど、わたしの胸の中のモヤモヤは未だに居座っているのです。

 いえ、別にキスをされたことをずっと怒っているわけではありません――多分。

 だって、お茶の時間にメイド仲間の皆さんがなさるお話の中には、雇い主にひどい目に遭わされてもっと『どん底』まで落とされてしまう人も出てくるのですから。

 ええ、熱に浮かされてのキスの一つや二つ――実際にはもっとたくさんだったかもしれませんが――くらい、いつまでも怒っているようなことではありません。


 そのはずです。

 そのはず、ですが……


 きっと旦那さまは何も判っていらっしゃらなかったのだから、わたしもさっさと忘れるべき――とは思うのですが、何だかやっぱり頭の隅に引っかかったままで消え去ってくれません。

 旦那さまは正気ではなかったのです。だから、あれは猫にでも引っかかれたようなものに過ぎないのです。そう思っているのに、旦那さまを視界に入れるたびにムカムカがよみがえってしまうのです。

 いえ、厳密にいうと、ムカムカとは少し違うかもしれませんが。


 旦那さままで五歩以内くらいに近付くと、やけに脈拍が速くなって、顔が熱くなります。それに、旦那さまの金髪が見えると目を逸らしたくなるというか――けっして見たくないわけじゃないのですけれど。

 わたしは旦那さま付きのメイドなわけですから、こんなことでは仕事に支障も出てきます。

 みなさんから「いや、そんなのよくあることだよ」というお答えをいただければすっきりするかもしれないと思ったのですが、期待は裏切られて否定的なご意見ばかりになってしまいました。


 なので、未だに、わたしの胸はすっきりしないままなのです。


   *


「まあ、決まった答えはないだろうねぇ。で、誰にされちゃったの?」

「ですから、一般論として、です」

「ああ、そうか、一般論ね、一般論」

 わたしの抗議にニヤニヤしながらそう言い直したのは、ガーデナーのスティーブ・エドウィンさんです。スティーブさんはまだ若くて二十歳を少し越えたくらいの男の人です。

 ガーデナーにはもう一人いて、こちらはダンカン・カートライトさん。


 ダンカンさんとスティーブさんは師弟関係にあるそうです。なんでも、ダンカンさんが整えたお庭に感動して、スティーブさんが弟子入りしたのだとか。スティーブさんは実は結構いいお家柄のご子息で、ご両親の反対を押し切って飛び出してきたとかいう噂もあります。

 気さく過ぎるほど気さくな方なのですが……その噂は本当なのでしょうか。

 もう一人のダンカンさんはわたしのお父さんと同じくらいの年です。あまりしゃべらなくてどっしりした感じなところも、何となくお父さんと似ています。そのせいか、一緒にいるとホッとする方なのです。


 少し離れたところにいるスティーブさんと言葉を交わしながら、わたしは休憩の準備を終わらせました。

 寒い中のお庭仕事は大変ですから、わたしはマーゴさんに言われてお茶の差し入れを持ってきたところでした。身体が温まるように紅茶には生姜と蜂蜜を少し、入れてあります。

「お茶の支度ができました。ダンカンさん、スティーブさん、どうぞ召し上がってください」

 先にベンチに来たのは近くにいたスティーブさんで、紅茶を受け取りながらチラリとわたしを見るとクスクス笑いを漏らしました。

「しっかし、やばいね、そいつ。まさかカルロじゃないだろ? もしもそうなら旦那様に知られたら殺されちゃうよ」


 ――その旦那さまがしでかしたことなのだとは、口が裂けても言えません。

 わたしはスティーブさんを無視して、続いて腰を下ろしたダンカンさんに紅茶を差し出しました。ダンカンさんは小さく頷いてカップを受け取ってくれます。


 中庭には雪が厚く積もっていて、ダンカンさんたちは重さで枝が折れてしまわないようにと、植木から雪を落としているところでした。こんなに広い庭を二人で手入れするなんて、何て骨の折れることでしょう。

 今は白と黒ばかりですが、この雪が溶けて春が来るとお二人が植えた色とりどりのお花が一斉に咲き出して、それはそれはきれいなのです。その時が待ち遠しくてなりません。


 わたしのお父さんも、鉢植えをいくつも育てていました。

 亡くなったお母さんが大事にしていたものだったそうです。お父さんが兵士のお仕事で留守にする間にその花たちの世話をするのは、何より重要なわたしの使命、でした。それは今もわたしのお部屋にあって、ダンカンさんには時々手入れの事で相談に乗ってもらっています。

 わたしの鉢植えは冬には枯れたようになってしまうので少し不安になりますが、春になって見る見る元気を取り戻してくれるとお父さんとお母さんが戻ってきたような気持ちになって、とてもうれしくなるのです。


 春を想いながら白銀の世界を見渡していたわたしに、不意にダンカンさんが低い声で何か言いました。


「はい?」

 最初は聞き落としてしまって、ダンカンさんに目を向けて訊き返します。

「君はキスそのものが嫌だったのか?」

「いいえ――あ……」

 思わず答えてしまいました。けれどダンカンさんは何も言わず、面白そうな顔をしているスティーブさんをジロリと横目で睨み付けると紅茶をすすり、また口を開きました。

「では、何が嫌だったんだい?」


 『何』が?


 あの時あったことは、旦那さまがわたしを抱き締めてキスしてきたこと。

 旦那さまの声と触れ方は、腕の中にいる人がまるでとても大事なものであるかのように、優しいものでした。


 ――けれどそれは、わたしではない誰かを想ってのことなのです。


「エイミー」

 静かな声で名前を呼ばれ、わたしは我に返りました。いつの間にかダンカンさんがわたしを見ていて、お父さんをお思い出させるその眼差しに、目の奥がツンとします。

 わたしをみつめていたダンカンさんは、少し、微笑みました。

「まずは、何が嫌だったのかをはっきりさせなさい。そして、何故それが嫌だったのか、そのことをよく考えなさい。どちらの答えも君の中にある筈だから、ちゃんと考えればいつか見つかる」


「何が、いやなのか……何故、いやなのか……」

 繰り返して、みます。


 『わたし』の視点で考えてみたことは、ありませんでした。

 ――わたしは、何がいやだったのでしょう?


 考え込んだわたしの前で、カップをベンチに置いたダンカンさんが立ち上がります。見上げると、もう笑顔はありませんでした。でも、ダンカンさんはむっつりしていても目が温かいのです。

「紅茶、おいしかったよ。ありがとう」

 低い声でそう言って、わたしの横を通り過ぎながら、ポンポンと、背中を叩いていきました――まるで、励ましてくださっているかのように。

「さって」

 その声に、ゆっくりと動くダンカンさんの背中を見送っていたわたしは、もう一人のガーデナーに振り返りました。スティーブさんはニッコリと笑い返してきます。

「ボクも仕事に戻るとしよ。お茶美味しかったよ。エイミーちゃんも頑張ってね」

「はい」


 そうですね、わたしにもお仕事があります。まずはそちらを頑張らなければ。


 冷たい空気を吸い込んで、少し溜めてみました。それをホッと吐くと真っ白な雲になります。


 あの時、わたしがいやだったのは、何だったのでしょう?

 キスは、本当に、いやではなかったのです。

 とても、驚きました。

 でも、いやではなかったのです。


 では、何故、胸が痛むのでしょう?


 ――ああ、そうだね。僕の、大事な……


 不意に、あの時の旦那さまの囁きが耳によみがえりました。

 この上なく、愛おしそうな、声。

 チクリと、またわたしの胸が疼きました。


 ああ。

 もしかしたら。


 あんなふうに呼びかける誰かが旦那さまにはいらっしゃるのだということが、いやだったのかもしれません。


 旦那さまは、いつもわたしに優しく微笑みかけてくれるから。

 旦那さまは、わたしの傍にいるとおっしゃってくれたから。


 ――旦那さまにあんな声を出させる方がいらっしゃるのなら、あの約束は果たされることはないのでしょう。


 きっと、それが痛いのです。


 旦那さまにはとても良くしていただいているのに、これ以上を望むだなんて欲張り過ぎです。痛みは、こんないやな自分に無意識に気付いていたからでもあるのでしょうか。

 望んだものは決して手に入らないということを知ってしまった痛み。

 充分過ぎるほどに与えてもらっているのに更に多くを望むわがままな自分に気付いてしまった痛み。

 だけど、それらを痛いと思うことは、不当な事なのです。


 怪我というものは、痛む理由を知った方が痛みは和らぐものです。だから、この疼きもそのうち和らいでいくはず。


 わたしは、胸の前でギュッと両手を握り締め、心の中でその『痛み』に絆創膏を貼りました。

 何枚も、何枚も。

 そうやって包み込んでしまえば、いつか痛みはその下で溶けて消えてしまうものです。


 ――今までは、そうでした。


 小さく鼻をすすると、冷たい空気のせいでしょうか、鼻の奥がツンとします。

 首を反らして見上げた先に広がる曇天が、ほんの少しだけ、にじんで見えました。

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