一日の始まり◇サイドC
「旦那さま、おはようございます」
覚醒途中の耳に入ってきたのは、大人の色気は皆無な、まだ幼い甘さが残る女性の声。
ボールドウィン家の現当主であるこの僕、セドリック・ボールドウィンの朝は、毎日彼女――ハウスメイドのエイミーの声で始まる。
彼女のその声は、何故か僕の脳みそに到達しやすいらしい。どんなに前夜が遅かった時でも、彼女がそうやって入ってきただけで、僕はスッと目が覚める。
わずかに舌足らずなのだが、これは初めて会った時からずっと変わらずそうだから、幼いからというよりはそういう喋り方なのだろう。
エイミーは、何というか、『しっかりした子』だ。
彼女が十歳の時に、訳あって、僕がこの家に招き入れたのだが、その頃から、あまり変わっていない。いや、背は伸びたし、体つきや顔立ちがずいぶんと娘らしくなったところは変わったが、子どもの頃から生真面目で大人びていて、今も昔も『こんな感じ』だ。
「旦那さま、おはようございます」
もう一度、エイミーが繰り返す。どうしようか、起きてやってもいいのだが……
「旦那さま、起きてください。朝です」
迷っていたら、揺すられた。小さくて温かな手を肩に感じる。
決めた、もうしばらく粘ってやろう。
「……もう少し……」
「朝ご飯ができてます。冷めちゃいますから、早く食べてください」
言うに事欠いて、『食事』か。小さな子どもじゃあるまいし、それで齢二十八の男がやる気にはなれないな。
「……どうして君は、そう色気がないんだい? 『セディ、起きて、お願い』って言ってごらん?」
試しに、言ってみた。だが、返ってきたのは、やはり色気の欠片もない口調だ。
「シーツを被っていらっしゃるので、耳元がどこか判りません。旦那さま、目が開いたなら、起き上がってください。また眠くなってしまいますよ?」
「そんな起こし方じゃ、やる気が出ない」
シーツの下で寝返りを打って、枕に顔を押し付ける。いかにも、「まだ寝かせておいてくれ」と言わんばかりに。
が、しかし。
次の瞬間、バサリと音がして、一気に背中がひやりとした空気にさらされた。首だけねじれば、両手でシーツを掴んだエイミーが、生真面目な顔つきで見下ろしているのが目に入る。
「……やあ、エイミー」
彼女は、小鳥のように小さく首をかしげて、言った。
「お目覚めになりましたか?」
――男の半裸を目にして、それだけか?
「……君のそういうところを可愛いと思うけど、僕はいい年をした男で、君はうら若き乙女なんだよ? もう少し、恥ずかしい、とか思ってもいいんじゃないのかい?」
「子どもの頃からしていることですから。でも、そろそろ寒くなってきましたから、パジャマをお召しになって休まれた方がいいと思いますよ? 風邪をひきます」
子どもの頃は良いとして、今の彼女は十六だ。上半身だけとはいえ、男の裸を見たら、「きゃあ」とか何とか、言って然るべきではなかろうか。少なくとも、平然と見下ろしてしまうというのは、妙齢の娘としては、どうかと思う。
僕が思わず漏らしたため息に、エイミーは怪訝そうに微かに眉をしかめると念を押すように言った。
「では、お目覚めになったようなので、わたしは失礼させていただきます」
頭を一つ下げて出て行こうとする彼女に、ついついいつもの悪い癖が出てしまう。
気付けば、ひらりと翻ったエプロンの端を指の先でつまんでいた。
「……旦那さま……?」
眉をひそめて見下ろしてくるエイミーに、ご令嬢方には好評な甘い笑みを投げてみる。そうやって笑いかければ、十人中七人は頬を染め、残りの三人は僕の腕の中に身を投げ出してきてくれるものなのだが。
「何でしょう? 何か他にご用でも?」
訝し気な眼差しと共に、そんな台詞。
――まあ、エイミーだからね。
そこはかとなく迷惑そうなその表情に、僕のいたずらの虫が疼きだした。
迷惑よりも、困惑する彼女の顔を、見てみたい。
「エイミーは十六になったんだろう?」
「はい」
頷いた彼女の目を見つめながらエプロンの裾にキスをする。
――反応なし。
やっぱり、手ごわいな。
「十六なら、もう少し違う起こし方を覚えてもいいんじゃないかな」
「違う起こし方?」
どうやら、少しは気を引けたらしい。
「そう。男を気分良く目覚めさせる方法を教えてあげるよ」
蕩ける笑みを浮かべてそう続けた僕だったが、エイミーはさっくりと切り返してくる。
「それをしたなら一分でベッドから出てくださいますか?」
――一分か……
めげずに今度は彼女の小さな手を取り、その指先にそっとキスをする。
人差し指と、中指と、薬指には少し長めに。
「それは無理かな。多分、少なくとも三十分は必要だ」
「では結構です」
即答。
一瞬にしてエイミーの興味が消え失せたのが、手に取るように分かった。
「今後の役に立つよ? きっと、どんな男だって一発だ」
今度は、小さなため息。
全然意外でも何でもないが、僕の手管はエイミーにはさっぱり効果を発揮しないらしい。
そろそろ引き時かな。
そう思った時だった。
「わたしがお起こしするのは旦那さまだけです」
「……僕だけ?」
「はい」
何のためらいもなく、エイミーは頷いた。
彼女は一生、僕以外の男を起こすことがないというのか?
僕以外の男と朝を過ごすことがない、と?
ずっと、僕の傍にいる、と?
そう思ったら、何故か、口元が緩んでしまった。
が。
「わたしがお仕えするのは旦那さまだけなのですから、旦那さまに対して役に立つ方法があったら教えてください」
てきぱきとそう言ったエイミーの口調には、甘さなど欠片もなくて。
深い意味などほんの少しもなかったのだと、よく判った。
こっそり苦笑した僕の手の中から、するりと、彼女の手が擦り抜けていく。
その小さな温もりを手放した途端、なんだか妙に何かが足りないような、空虚な感覚が胸の片隅に生まれた。
ほんの微かに、だったが。
「とにかく、ジェシーさんが書斎でお待ちになっていますから、早く起きてくださいね?」
彼女はそう言うと、一礼して今度こそ本当に部屋を出て行った。
独りになった寝室で、僕はクシャリと前髪を掴んで苦笑する。
まったく、ハウスメイドとしては有能だが、女性としては少々育て方を間違えたようだ。
十六と言えば、想う相手の一人や二人はいてもよい年頃の筈だ。いや、早い子なら、将来を誓った男もいるだろう。だが、あんな調子では、エイミーにはまだまだ先の話だ。五年経ってもあんな感じのままかもしれない。
そう考えて、ホッと息をつく。
――ホッと? 息をつく?
何故、そんなふうに思ったのだろう。まるで、彼女が行き遅れ予備軍であることを、喜んでいるようじゃないか。雇い主として、使用人の幸せを考えてやらなければならないというのに。
エイミーに相手を探す気がないというのなら、僕がいい男を見つけてやるのは義務のようなものだ。
だが……何故か、気が乗らない。
妙だな。あの子の幸せを祈っているのは、今も昔も変わりがないのだが。
もしかすると、これが、『娘に恋人ができたことが面白くない父親の心境』というものなのだろうか。
僕は頬杖をついて、しばし考えた。しかし、答えは出ない。
まあ、いい。
いずれにせよ、まだ先の話だ。エイミーは、まだまだ子どもなのだから。
頭を振りつつ僕は寝台から下り、彼女が用意してくれた着替えを手に取った。