熱のせい?◇サイドA
冬です。
雪もちらつき始め、グッと寒くなってまいりました。あと数週間もすれば、このカントリーハウスは雪掻きに追われるようになります。
雪の季節で……また、カルロさんのお尻を叩かねばならない時季がやって来てしまいました。
雪掻きは、館の男の人総出でかかります。
まったく、六十歳を超えているガーデナーのダンカンさんも愚痴一つこぼさずやるというのに、カルロさんはスコップを持っている間中、ぶちぶち言い続けるのです。
こなしてくださる量は誰よりも多いのだから、黙ってやってくれたらカッコいいのかもしれませんが。
そう、雪掻きで人手がいるのですが、今年は急に冷え込んできたせいでしょうか、今、館では流感が大流行りなのです。
持ち込んだのは、多分、カルロさん。
村のパブに行って帰ってきた三日後くらいから熱を出して寝込んでしまいました。それから次々と他の使用人にうつっていって、実は二日前まではわたしもお休みをいただいていたのです。それほど高い熱にはならなかったし、別に身体がつらくもなかったのですが、他の人にうつすといけないから、と個室をいただいて閉じ籠っていました。
旦那さまも心配してくださって何度か様子を見に来てくださいましたが、ドアの向こうでお引き取りいただきました。
うつるといけないので、という理由が主でしたが。
実は、それだけではありません。
……最近、何となく、旦那さまのお顔を拝見するのが気まずいのです。こう、旦那さまの半径三歩以内の距離に近付くと、落ち着かない気分になるというか、何というか。
いつからなのか考えてみると、多分、いえ、きっと、あの日からです。
旦那さまの前で子どものように泣いてしまったあの日から、です。
しかも、あの日は、泣いただけではありません。夜にはお庭で眠ってしまったわたしを旦那さまが部屋にお連れ下さったのだとデニスさんから聞かされて――穴があったら入りたい気持ちというのはこういうものだと、身に染みました。
それ以来、旦那さまが視界に入ると思わず目を逸らしたくなってしまうのです。
もっとも、最近の旦那さまはあちこちのパーティーに毎晩のようにお出かけになられていて、殆どお屋敷におられません。きっと、お美しい令嬢方と楽しくお過ごしなのでしょう。
わたしとしてはホッと一息、のはずなのですが……何故でしょう、何となく、お腹の辺りにモヤッとしたものがしつこく居座っているのです。
「……ふう」
知らないうちにこぼれてしまったため息に、眉をひそめました。
別に、旦那さまがお出かけ先で何をされていようと、気にすることはないではないですか。
立ち止まって自分にそう確認していると、後ろから声がかかりました。
「おや、エイミー、渋い顔をしてどうしたのだね?」
呼びかけに振り返ると、そこに立っていたのはハウススチュワードのジェシーさんでした。
「何でもありません」
「そうか」
ジェシーさんは器用に片方だけ眉を持ち上げて、わたしを見下ろしてきます。
「ジェシーさん、何か?」
朝食のカスでも口元に付いているのかと手を上げたわたしに、ジェシーさんは面白そうに微かに頬を緩めました。
「大丈夫、何も付いていないよ。そうそう、セディ様がまだ起きて来られないのだよ。流石にもう昼をまわってしまうからね、もう一度声をかけてきなさい」
「……わかりました」
一瞬、ほんの一瞬だけ、行きたくないな、と思ってしまいました。けれど、そんなわけにはまいりません。
頭を一つ下げて、わたしは旦那さまのお部屋に向かいました。
時間をかけて行ったらわたしがお起こしする前に目覚められるのではないかな、と期待したのですが、残念ながら、あっという間に着いてしまいました。
少し迷って、まずは普通にノックをしてみます。
反応ありません。
もう少し強く叩いてみましたが、やっぱりお返事ありません。
仕方がないのでドアを開けてみると中は真昼の光で溢れていましたが、こんもりと布団は盛り上がっていて、旦那さまがまだお休みなのは明らかです。
ベッドに近付く途中で、床に脱ぎ捨てられたお洋服を拾います。と、フワリと良い香りが漂いました。華やかで女性らしい、薔薇の香り。
きっと、昨晩のダンスのお相手からの移り香でしょう。
またちょっと、胃の下あたりがモヤッとしました。
それを消し去るように頭を振って、わたしは羽根布団の間から旦那さまの金色の頭が覗いているベッドに足を進めました。
「旦那さま? 起きてください、お昼です」
そう声をかけながら近付きましたが、もちろん返事はありません。
仕方なく布団の上から肩を揺さぶろうとして手を伸ばし、そこで初めて旦那さまの様子が少しおかしいことに気付きました。
「旦那さま?」
何だか、ゼイゼイと荒い息が聞こえます。そっとおでこに触れてみて、あまりの熱さに思わずパッと手を引いてしまいました。
すごい熱です。
「……大変」
きっと、流感に罹ったに違いありません。
すぐに踵を返して、部屋を出ました。ジェシーさん……いえ、マーゴさんの方が見つけやすいかも。
バタバタと廊下を走るわたしに、すれ違ったゲイリーさんが目を丸くしました。
「どうしたの、エイミー?」
「旦那さまがお熱でマーゴさんはどこでしょう」
「彼女ならキッチンにいたけど……熱……?」
「ありがとうございます!」
首をかしげたゲイリーさんにおざなりに頭を下げて、わたしはキッチンに急ぎました。
「マーゴさん!」
キッチンに駆け込みながらそう言うと、マーゴさんの他に中にいたコックのジーンさんとキッチンメイドのハナさんが驚いたように振り返りました。
「どうしたの、そんなに慌てて。珍しいね」
面白がっているように眉を上げながらそう言ったマーゴさんに、わたしは息を整えながら伝えます。
「旦那さまがすごいお熱で……」
「おやまあ」
マーゴさんから返ってきたのは、呑気なそんな声でした。
「お苦しそうなんです」
「きっと流感ね。お屋敷の中には殆どいらっしゃらなかったのに、いったいどこでもらってこられたのやら」
「マーゴさん」
どこか楽しげなマーゴさんに、わたしは思わずムッとした声を出してしまいました。
「大丈夫、すぐにお医者さんを呼ぶから。でも、あんたのそんな顔、初めて見たかもね」
クスクスと笑うマーゴさんは、不謹慎だと思います。ふと気付けば、他の二人も同じような顔をしていました。
「笑いごとじゃ、ないんですよ? ものすごい熱でした。あんなに熱かったら、頭がおかしくなってしまいます」
「判った判った、じゃあ、これを持っていって」
引きつった口元は、笑いをこらえているのが見え見えです。でも、そう言いながら、マーゴさんは大きめのボウルに水を入れて、わたしに差し出しました。
「取り敢えず、寒そうでなかったら布団を剥いで、濡らしたタオルで身体を拭いて差し上げて。首の回りを冷やしてあげると熱が下がり易いのよ。わたしはお医者さんの手配をしてくるから」
「わかりました」
わたしは頷いて、水をこぼさないように慎重に、けれどもできる限り急いで旦那さまのお部屋に取って返しました。
ベッドサイドにボウルを置いて、旦那さまの様子を窺います。きつく目を閉じていて、やっぱりとても苦しそうに見えました。
昔、お父さんも流感に罹ったことがあって看病したことがありますが、あの時のお父さんよりもつらそうだからでしょうか、眉間に皺を寄せた旦那さまを見ているとわたしの胸も痛くなってきます。
「旦那さま?」
声をかけたら唸るような声で返事をしてくださったように聞こえましたが、うなされているだけなのかもしれません。
少しお布団を剥いでみました。熱がこもって、何だか湯気が立ちそうです。
「ちょっと、失礼します」
一応一声かけて、肩に手を置いて横向きになっていた旦那さまの身体を仰向けにしました。寝間着をお召しでないので、拭きやすそうです。
そうしておいて、バスルームから取ってきたタオルを水に浸してお顔と首、胸元を拭って差し上げると、気持ちが良いのか、ホッとしたように眉間のシワが浅くなりました。
旦那さまはだらしがないことはあっても隙はない方です。そんな旦那さまのこんなお姿を目にするのは、奇妙な感じがします。
何度も同じことを繰り返していると、だんだんと旦那さまの呼吸も楽になってきたようでした。
けれど、旦那さまのお熱はずっと高いままで、水はあっという間に温くなってしまいます。
三回目に水を取り替え、一際冷たいタオルで触れた時でした。
パッと旦那さまの目があいて、わたしを見るとゆっくりと幾度か瞬きをされました。
「エイミー……?」
わたしに向けられたその青い目はやっぱりぼんやりとしていて、本調子とは程遠そうです。声も少しかすれていて、わたしの名前を呼んだあと、小さく咳をされました。
「お熱があるんです。おつらいでしょう?」
言いながら、もう一度タオルを冷たい水に浸して、旦那さまに向き直った時でした。
わたしが何か面白いことを言ったわけでもないのに旦那さまは柔らかく微笑まれていて、それを目にした瞬間、わたしの心臓はキュッと縮まったような気がしたのです。
旦那さまは、基本笑顔です。
いつもの笑顔と今の笑顔の何が違うのかは判りませんが、何だか違う気がします。
「お拭き、しますね」
旦那さまの視線から目を逸らしつつ、身を乗り出した時でした。
濡らしたタオルを持った手を取られ、次の瞬間、ガッチリと旦那さまに捕まっていました。
いったい、これは、どういうことでしょう?
頬にピッタリと押し付けられている旦那さまの胸は、とても熱いです。こんなに熱があるというのに、わたしの頭の後ろと腰の辺りに添えられている手はとても力が強く、腕を突っ張って離れようとしてもビクともしません。
不意に頭の上で旦那さまが動く気配がして、首筋に熱い吐息を感じたかと思ったら、何か柔らかなものが触れてきました。
くすぐったさに、背中がビクンとします。
と、それが刺激になって、この事態の理由に思い当たりました。身体をよじって旦那さまの目を見ようとしましたがそれは叶わず、仕方がないのでそのままの恰好で訴えてみました。
「旦那さま、わたしはエイミーです。誰かとお間違えです」
そう、きっと、昨日のパーティーでお会いになったご令嬢と間違えていらっしゃるに違いありません。熱のせいで頭が働いていらっしゃらないのでしょう。
わたしの声が聞こえたのでしょうか。旦那さまの動きが止まりました。と思うと、わたしの頭の後ろにあった手が離れて今度は顎の下に回ってきて、そっと顔を持ち上げてきます。
旦那さまはやっぱりボウッとした目でわたしを見つめ、そしてまたふわりと笑顔になりました。
「ああ、そうだね。僕の、大事な……」
かすれた、小さな囁きは最後まで聞き取れませんでした。けれど、その声の響きに胸がザワザワします。
「旦那さま――」
その変な感覚を無視して旦那さまをたしなめようとしたのですが、次に起きたことで、わたしの頭の中は真っ白になりました。
旦那さまの顔が近付いて、次いでわたしの唇に触れた温かくて柔らかなもの。それは一度離れ、またすぐに戻ってきて、二度、三度とわたしの唇をくすぐりました
それが幾度繰り返されたことでしょう。
判りませんが、不意に旦那さまの手から力が抜けて、唐突にわたしは解放されました。
ハッと我に返ってベッドを見下ろすと、旦那さまはすやすやお休みではないですか。
……きっと、熱のせいです。
クラクラする頭を振って、わたしは一歩後ずさりました。
……でも、熱のせいでも、誰かと間違えてキスするなんて。
何だか、ムカムカしてきました。
もう一度ベッドの上の旦那さまに目を戻すと、やけに満足そうで気持ち良さそうです。
きっと、良い夢をご覧なのでしょう。
楽になったようなのは何よりですが――そのお顔を見ていると、何だか、もっとムカムカしてきました。
一瞬、ボウルの水を旦那さまの上にぶちまけたくなってしまいました。こんな気持ちになったのは、生まれて初めてです。それをこらえてムッと唇を引き結んで、旦那さまの寝顔をにらみ付けましたが、当の旦那さまはもちろん全然気付いていません。
と、そっと扉がノックされ、お医者様をお連れになったジェシーさんが中に入ってきました。他に看護婦さんとデニスさんもいます。
危ないところでした。
ジェシーさんたちがもう少し遅ければ、もしかしたら、本当にボウルをひっくり返していたかもしれません。
「エイミー、何かあったのかね?」
わたしの顔を見て、ジェシーさんが驚いたような顔をしています。
「何故ですか?」
問い返すとジェシーさんは眉を片方持ち上げて、それから頭を振りました。
「いや……ご苦労だったね、後はデニスと看護婦が世話をするから大丈夫だよ。仕事にお戻り」
「はい」
わたしはジェシーさんとお医者様に頭を下げ、扉に向かいました。
その前にもう一度チラリと旦那さまに目を走らせましたが、やっぱり良くお休みです。わたしはムカムカと安堵と、それ以外にもよく解からない気持ちを胸にお部屋を後にしました。