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エイミーと旦那さま  作者: トウリン
『伯爵とメイドの日常』
18/60

還らぬ人◇サイドC

 ……どうにも落ち着かない。


 夜が更けても睡魔は訪れず、時間潰しに開いてみた本の上も、僕の目はただ素通りするばかりだった。

 密猟者騒ぎも収拾がついて、久し振りの柔らかなベッドだ。身体はそれなりに疲れているし、横になればすぐに眠れる筈だった。

 にも拘らず、目は冴えている。眠気はさっぱりない。

 横になっていられず書斎に来てみたものの、やっぱり落ち着かないままだ。

 その理由は自分自身でよく解かっていた。僕は目を閉じ、疼く眉間を揉む。


 エイミーの涙。


 目が本の文字を追っていても、気付けば脳裏にあの子の泣き顔が浮かんでしまう。自分が泣いていることにも気付いていないように涙を流す、あの顔が。

 僕は、エイミーの笑顔を見たことが無い。だが、思い返せば、泣き顔も見たことがなかったのだ。喜怒哀楽、彼女のいかなる感情の発露も目にしたことがなかったことを今更実感し、愕然とする。


 まだ幼い頃からかんしゃくを起こすこともなく、わがままを言うこともなく。


 それが不自然なことだと、僕は思っていなかったのだ。

 あんなふうに泣く彼女を目の前にして初めてその異常さに気付かされた。


 あの子が感情を見せないのは、僕の所為なのだろうか。僕が、彼女の一番大事なものを奪ってしまったからなのだろうか。


 エイミーと出会ったのは、今から六年前のこと。彼女が十歳の時で、その頃からしっかりした子だった。


 初めて視線を交わした時の、エイミー――僕の心は、『今』の彼女の涙に濡れる顔から、過去のあの日へと跳んでいた。


   *


 ――六年前の、あの日。


 霧雨が音もなく降り注ぐ中、父親の墓石の前に佇むその少女の後姿を見つめながら、彼女は何て小さいのだろうと僕は思ったのだ。隣に立つふくよかな中年女性は何かを語りかけていたけれど、少女はピクリとも動かない。随分長いこと立っているだろうに、ふら付きもしなかった。


 いつまでも背中を見ているわけにもいかない。


 僕は意を決して足を踏み出し、少女に近付く。


「エイミー? エイミー・メイヤー?」

 声をかけた僕に振り返ったのは、少女ではなく、隣の中年女性だ。

「――どちら様でしょうか?」

 人の良さそうな彼女の丸い頬には訝しげな色が浮かぶ。身なりは良いが見かけたことのない男の登場に、不信感を隠そうともせず、女性は少女を守るようにその肩を引き寄せた。

「ああ……失礼しました。私はセドリック・ボールドウィン、クレイグ・メイヤー氏と同じ部隊にいた者です。彼は私の部下でした」

「この子の父親の……それは失礼しました」

 女性の顔が、ホッとしたように緩む。そうして彼女は腕の中の少女を見下ろして、微かな笑みを浮かべた。


「エイミー? この方はお父さんを知ってる人だよ」

 彼女に促されて、少女は――エイミーは、その小鹿のような大きな栗色の目で僕を見上げてくる。

「はじめまして」

 小さな、けれども、しっかりと芯のある声。

 僕は彼女の前に膝をつき、目の高さを合わせる。

「初めまして、エイミー。僕はセドリック。君のお父さんに、助けてもらったんだよ。君のお父さんは僕だけじゃなくて、たくさんの人を守ってくれたんだ」


 それは、真実だった。エイミーの父であるクレイグ・メイヤーがいなければ、僕と三十余名の部下たちは今頃海の向こうの遠い地で土に還っていただろう。だが、戦いが終わった後、そうなっていたのはクレイグ唯一人だったのだ。


 彼は、英雄だった。命を賭して、皆を守った。誇っていい父親だった。


 けれども。


「そうですか」

 ポツリと返されたのは、その一言。ツ、と下げられた視線。

 静かなその声に、僕は歯噛みする思いになる。僕は、なんと愚かなのだろう。

 どんなに素晴らしく勇気ある行動を取ったとしても、彼女にとっては、ただ、『父は戻って来なかった』という、その事実だけなのだ。

 彼の娘は、御大層に祭り上げられた英雄ではなく、彼女を抱き締めてくれる父親を待ち望んでいたに違いない。


 心の内で奥歯を噛み締め、僕は立ち上がって中年女性に微笑みかける。

「エイミーの面倒を見てくれる人はいるのですか? 母親は早くに亡くなったと聞いていますが、親戚か何かは?」

「それが、誰もいないんですよ。どちらの親も天涯孤独で……あたしたちにも引き取る余裕はないし、孤児院に入れるしかないかもですねぇ」

 痛ましそうな目で女性がエイミーを見下ろしても、彼女は瞬き一つしなかった。


 この子を、孤児院へ……?


 大勢の子どもの中でポツンと佇むエイミーが脳裏に浮かび、僕はそれを振り払った。

 彼女の父親と、僕は約束したのだ――彼の代わりに娘を守る、と。


「エイミーは私が世話をしましょう」

「え?」

 中年女性が目を丸くする。

 僕は構わずエイミーの手を取った。それは小さく、冷たくて、微かに震えていた。

 見ているだけでは判らなかったが、彼女の身体は小刻みに震えていたのだ。


 ――この子を守って、幸せにしてやらなければ。


 そんな決意が僕の中に満ち溢れる。

 確かにクレイグとの約束もあるのだけれど、それとはまた別のところで、強くそう思った。

 僕はすくい取るようにして彼女を抱き上げる。僕よりも高い位置になったその栗色の目を覗き込んで、微笑みかけた。


「ねえ、エイミー。僕と一緒に来てくれるかい? 皆大人ばかりだけれど、きっと可愛がってくれるよ」

 エイミーには、父親が与えてくれた筈の――いや、それ以上の愛情を与えられなければならない。屋敷の者は皆、そうしてくれるだろう。もちろん、僕を筆頭に。

 僕の腕の中でエイミーの身体の震えが止まる。そうして彼女は、僕をジッと見つめ、消え入りそうな声で確かに答えてくれたのだ。


 たった一言、「はい」と。


   *


 あれからエイミーはどんどん大きくなって、もう幼い少女ではなくなった。


 けれど、と僕は思う。


 背は伸び、身体つきは丸みを帯びた娘のものになったけれども、彼女の中の時間はあの時のままで止まってしまったのではないだろうか、と。

 僕の屋敷に来て何日も経たないうちに、彼女はクルクルと働き出した。父親と二人きりの生活で、きっとあの子が家の中のことをやっていたのだろう。その延長なのか、誰かが何かを言い付けたわけでもないのに、自分から仕事を見つけては黙々とこなしていく。


 使用人にしようと思って連れてきた訳ではなかった。

 だが、裏を返せば、彼女を育てることに明らかなヴィジョンがあった訳でもない。エイミーを引き取ろうと思ったのは、あの子を見た途端に湧き起った衝動だったから。


 幼い頃からエイミーは聡くて器用で、じきにハウスメイドのお仕着せを身に着けるようになったのだ。そして淡々と働く優秀なハウスメイドに、成長した。

 毎日その姿を目にし、言葉を交わし、感情を露わにしないあの子に気付きながらも、「真面目な子だ」と受け流し、そこに漂う違和感を無視してしまった。


 子どもの頃、僕はパブリックスクールに入れられていたから、同年代の少年たちが育っていくのを間近で見ていた。振り返ってみると、感情溢れる彼らとエイミーとの違いは歴然としている。

 だが、隣で共に大きくなっていくのと、少し離れたところから大きくなっていくのを見守るのとでは、全く違う。

 だから、エイミーの不自然さに気付かなかったのかもしれない。怒ることすらしない彼女のことを、そういうものだと受け止めてしまったのだ。


 それが、今日の彼女の姿で打ち崩された。


 昼間の彼女は声も出さずにただ涙を溢れさせ、まるで壊れた人形のようで。

 あんなふうに涙を流すエイミーを前にして初めて思い知るのではなく、もっと以前から、泣いて、笑って、怒る、そんな彼女を見ているべきだったのだ。


 ――クレイグがエイミーを『置いていく』ことになった、その決断を下したのは、この僕だったというのに。僕はちゃんと彼女を見てやれていなかった。


 自分に対する苛立ちに追いやられ、僕はため息と共に立ち上がる。落ち着きなく書斎の中を行き来した。と、窓際を通った時、階下に白いものがチラつくのが視界の隅に入る。

 立ち止まり、目を細めて中庭を見つめた。

 そうして、思わず声に出る。


「エイミー?」

 確かに、彼女だった。夜着にショールをまとい、中庭を歩いている。

 慌てて僕はガウンを掴み、書斎を飛び出した。足音を忍ばせて廊下を急ぐ。やがて中庭に通じるドアへ辿り着いた時、そこにはすでに先客がいた。


「デニス」

「旦那様」

 几帳面なヴァレットは、真夜中だというのに一つの乱れもない佇まいで僕に向けて一礼する。そうして身体を起こすと、中庭の方へ目を向けながら言った。

「エイミーが、中庭に」

「ああ、わかっている。上から見えたよ。僕が行くから、君は下がっていい」

「ですが――」

「いいんだ」

「……承知いたしました。では、これを彼女にお渡しください」

 そう言うと、デニスは腕にかけていた布の塊を僕に差し出してくる。どうやらハーフケットのようだ。

「ありがとう」

 礼を言ってそれを受け取り、僕はデニスの横を通り抜けて庭へ出た。


 新月の夜空には星が目立つ。

 暗い中、ガーデナーが綺麗に整えてくれている庭をエイミーの姿を求めてうろつくうちに、噴水が立てる密やかな水音が耳に忍び込んできた。

 結構来たなと思いつつ音の源へと目を向けて、そこにようやく捜しものを見出した。近寄ろうとして腕が近くの茂みをかすめ、微かな音を立てる。


 と、その音を聞き付けたのか、彼女が振り返った。


「……旦那さま?」

 訝しげにそう問い掛けてきたエイミーの頬が、キラリと光を弾く。


 ――また、泣いていたのか。


 そう思った瞬間、胸が痛くなった。それなのに、当の本人は、泣いていることに気付いたふうもないのだ。

 僕は胸の疼きを抑え込み、何とか笑顔を作る。そうしてエイミーに歩み寄り、その肩にデニスから受け取ったケットをかけてやった。かすめた指先に感じた彼女の肩はひんやりと冷たく、僕は胸の内でもう一度デニスに感謝の言葉を送る。


「こんな時間に何をしていたんだい?」

 エイミーの隣に腰を下ろしつつ尋ねると、彼女はわずかに首をかしげた。

「眠れなかったので、少し散歩に。旦那さまはどうされたのですか?」

「僕も眠れなかったから、書斎にいたんだよ。そうしたら、君の姿が見えてね」

「そうですか」

 それきり、途切れる言葉。

 代わりに虫の音がさざめき始める。

 横目でエイミーの様子を窺うと、彼女はぼんやりと中空に目を向けていた。


 眠いのではなかろうか、そう思って僕が声をかけようとした、その時。

「わたしがこのお屋敷に来てすぐの頃にも、こうやって旦那さまと星を見ていたことがありました」

 ポツリとこぼれたエイミーの声に、僕は全身を耳にして聴き入った。彼女は相変わらず宙を――その先に輝く星々を見つめながら、続ける。


「わたしのお母さんは、わたしが小さい頃に亡くなりました。わたしがお母さんのことを訊くと、お父さんは黙って頭を撫でてくれました。お父さんが亡くなった時、近所のおばさんは、お父さんは星になったと言いました。その当時のわたしは、だったらお母さんも星になって、二人で空にいるのかと一生懸命探しましたが、結局判りませんでした。お母さんのことは覚えていないので、星を見てもどれがそうなのか判らないのかな、と思ったのですが、お父さんのことも判らなくて……だから、やっぱり人は星にはならないのだと、思いました」


 そのことは僕も覚えている。

 当時のエイミーは、毎晩のようにベッドを抜け出して夜空を見つめていた。

 僕は小さな彼女を膝にのせて、一緒に過ごしたものだった。抱き締めて、頭にキスをして、やがて僕の腕の中で眠りに落ちたエイミーを、何度も彼女のベッドに運んだ。


 ――誰かを慈しむという感情を覚えたのは、あの時だったと思う。


 過去を振り返る僕の横で、エイミーは呟き続ける。

「星がお父さんに見えないと言ったわたしに、旦那さまは頷かれました。確かに、ヒトは星にはなれない、と」

「僕が? そんなことを?」

 幼い子どもに、そんな酷いことを言ってしまったのか。

 固まった僕に、エイミーは頭を一つ上下した。

「はい、おっしゃいました。そして、わたしのお父さんはわたしの中にいる――わたしの中にはお父さんの思い出がたくさん詰まっている筈だ、とも。ヒトは星にはなれないけれど、いつまでも変わらず空に在り続けるから、それを見ることでお父さんを思い出すよすがにするのだと」


 エイミーが僕を見る。穏やかで、澄み切って、輝く瞳で。


「そうやって、時々その思い出を取り出して眺めながら、新しく出会う人たちと新しい想いをつないで、新しい思い出を作っていくんだよ、と、そうおっしゃいました。このお屋敷で、確かにわたしには新しいつながりがたくさんできました――たくさんの思い出も。どれもみんな、大事です。でも……」

 彼女はそこで言葉を切り、今度は地面に視線を落とした。口ごもるエイミーなんて、滅多に見ない。僕は彼女の頬に伸ばしたくなる手を膝の上で握り締め、静かに呼びかける。


「エイミー?」

「……今日のような『思い出』は、イヤです」

 囁き声は苦しげで、僕の喉にも何かが詰まったような心持ちになる。

 エイミーは膝の上に置いた小さな両手に目を落としたまま、更に言葉を重ねた。

「お父さんは……約束を守ってくれませんでした。わたしのところに帰ってきてくれると言っていたのに、そうしてくれなかったのです。旦那さまも同じことをおっしゃって出発されて……もしかしたら、お父さんと同じようにもう戻って来られないのかもと、思ってしまいました。こんな気持ちは、もうイヤです。こんな思い出は、もう欲しくありません……」


 いつになく言葉数が多いのは、彼女の中の不安を反映している為だろうか。

「エイミー、でも、僕はちゃんと戻ってきただろう?」

 つい、彼女の手を取ってしまった。それは、まるで氷のように冷え切っている。


 ――温める為に抱き寄せるのは、別に構わないだろう?

 自分自身にそう言い訳しながらエイミーを引き寄せ、羽織ったガウンの中に包み込んだ。頬を覆い隠した栗色の髪をそっと掻き上げ、唇にこめかみで触れる。そうして顎を彼女の頭にのせて、抱き締めた身体を静かに揺らした。


「ねえ、エイミー。僕は君と何かを約束したら、必ず守るよ。君の傍にいると言ったら、君が望む限り傍にいるし、君の元へ帰るよと言ったら、どんなことをしても帰ってみせる」

「約束は、いりません……怖いんです」

 エイミーの答えが少し舌足らずになったのは、眠気があるせいだろうか。

 僕はもう一度、今度は彼女の額にそっとキスをした。そうしてゆっくりと、告げる。

「だったら、誓うよ。僕が何かをすると言ったら、必ず成し遂げる。エイミー、君は僕の大事な子だ。僕は君を幸せにする」

 彼女に向けて囁くうちに、胸にもたれてくる温もりが重みを増した。


「……エイミー?」

 呼びかけに(いら)えはない。代わりに答えたのは、深く穏やかな呼吸だ。僕はエイミーを起こさないように抱え直し、静かに立ち上がった。


 彼女に目を覚ます気配はない。

 エイミーがこんなふうに僕の腕の中で眠り込んでしまうのは、何年ぶりのことだろう。あの頃よりもずいぶん大きくなったと思っていたが、それでもまだ、羽のように軽い。

 屋内への扉の前には、まだデニスが控えていた。彼は僕の腕の中にいるエイミーに眉をひそめ、両手を差し出す。


「私がお連れしましょうか?」

「いや、いい。このまま彼女の部屋に連れて行く」

 デニスは何か言いたそうにしていたが、結局、黙ったままで一歩下がった。

 彼の前を抜け、静かな廊下を歩きながら、僕はエイミーの寝顔を覗き込む。無防備なそれは出会った頃の彼女のようで、自ずと僕の笑みを誘う。


 そうしながら、僕はふと思った。

 エイミーがいつまでも幼い少女のままでいてくれた良かったのに、と。

 もしもそうなら、父親として兄として、いつまでも彼女の傍にいられただろうに。


 多分、僕が純粋な『保護者』としてエイミーに触れていられる時間は、そう残されていない。いや、もしかしたら、すでにそこから逸脱しているのかもしれない。


 多分、僕が彼女に注ぐものは、無私の愛とはかけ離れている。


 いつからなのかは判らないが、明らかに六年前とは違ってしまった。


 彼女を支える僕の腕には、意図せず力がこもる。

 エイミーを傍にとどめておきたいと思う気持ち、そして彼女に触れる時の気持ちに保護欲以外の何かがあることを、僕は否定できなかった。


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