還らぬ人◇サイドA
夜も更けて、お屋敷の中はシンと静まり返っています。
昼の騒ぎはすぐに落ち着いて、みなさんはあっという間にいつも通りの生活に戻っていかれましたが、わたしは胸のざわざわがまだ消えません。
何でしょう、わたしのお腹の中に仔猫が入り込んでいて、それがグルグル動き回っているような感じです。
泣いたせいで頭も痛いし、目も腫れぼったいし、鼻も詰まっているし、どうにも寝苦しくてそっとベッドの上で起き上がりました。
同じ部屋にはドロシーさんもいらっしゃいますから、わたしがごそごそしていると起こしてしまいます。少し考えて、ショールを取って、部屋から抜け出しました。
部屋を出ても、家の中でうろついていたら、今度はカルロさんやデニスさんを起こしてしまいます。たまに夜に喉が渇いてキッチンに行ったりすると、必ずと言っていいほど誰かしらが起きてきてしまうのです。もしかして、あの人たちにしか聞こえない鈴でも張り巡らされているのかもしれないと思うほどに。
どうしましょう?
灯りを点けるのももったいないし……
そう思ってふと廊下の窓から外を見ると、月はないのですが、代わりに星がたくさん輝いていました。
お庭ならいいかもしれない。
きっと、外なら誰も気付かない筈。
そう思って、一階に下りて中庭に出るガラス戸のカギを開けました。そっとやったつもりだったのに、静かな廊下に思ったよりも大きな音が響いてしまって、思わず後ろを振り返りました。
でも、だいじょうぶだったようです。耳を澄ませても足音はしませんし、誰も起こさずに済んだようでした。
星灯りだけだというのに外は意外に明るくて、でも、空気が澄み渡っている分、寒いです。真冬と違ってすぐに凍えてくるような寒さではありませんが、涼しいという言葉よりも、もう少し身体に染み入ります。
きつくショールを身体に巻き付けて何となく歩いていると、いつの間にか噴水のところにまで来ていました。涼しげな水の音が、いっそう寒いです。でも、座るにはちょうどいいので、縁に腰を下ろしてホッと息をつきました。
聞こえるのは、噴水の立てる水音と、虫の声。
そんな中にいると、また昼のことが思い出されてきました――いいえ、もっと前のことも。
わたしが旦那さまに連れられてお屋敷に来る、前のことを。
ひとは、色々な事を『約束』します。
けれど、必ずしもそれらが守られるとは限らないのです。
どんなに守って欲しいと思っても、どうしようもなく、破られてしまうことがあるのです。
――だから、今、わたしはこのお屋敷にいるのです。
わたしがまだずっと小さかった頃、わたしは世界で一番大事なひとと、一生の中で一番守って欲しかった約束を交わしました。それさえ守ってもらえれば、たとえばお誕生日にお人形を買ってねとか、今度のお休みの日にはピクニックに連れて行ってねとか、そんな些細な約束なんて守ってくれなくても全然構わないと思えるほどに、大事な約束でした。
どうしても、絶対に、守って欲しい約束でした。
毎日毎日、尖った山の天辺で立っているような心持ちで、それが守られることを待っていたものでした。毎日毎日、今日こそは、と思いながら。
……今日、笑いながら帰ってきた旦那さまを見て、なぜかわたしは腹が立ちました――腹が立ったんだと思います。あれは、今まで、あんまり感じたことのないような気持ちでしたから。
二日経っても三日経っても旦那さまたちが戻られなかった時、わたしの頭の中は一日ごとに真っ黒に塗り潰されていくような感じでした。
旦那さまが何日かお留守にされることなんて、別に珍しいことではありません。
お友達のラザフォード様やソーントン様と一緒に遊びに行かれると、三日どころか一週間も戻って来なかったりします。
そんな時は、早く戻られればいいのに、と思いながらも、のんびりと待つものです。
けれど、今回は、そんなのとは全然違いました。
わたしの中に何か意地悪なモノがいて、「旦那さまはもう戻って来ないんだよ」と四六時中囁いてくるような感じでした。それが、一日ごとに大きくなっていったのです。
それになぜか、遥か昔に守ってもらえなかったあの約束のことが無性に思い出されて、仕方がありませんでした。
――旦那さまはもう帰ってこないのかもしれない……あのひとのように。
そんなふうに思いたくないのに、そんな考えを消し切れなくなってきたところに何だか能天気に姿を現されて、わたしの中で何かがプチッと切れたような気がしたのです。
わたしの中で張りつめていた何かがプチッと切れて、そうして、ゆるゆるとほぐれてしまったような気がしたのです。
ああ、もう。
あの瞬間のことを思い出すと、何だかまた目の奥が熱くなってきました。
冷たい空気のお陰でせっかく通りが良くなった鼻の奥も、ツンとします。
何回かきつく瞬きをして、わたしは揺らいだ視界を元に戻しました。
わたしの目には、また澄み渡った夜空に浮かぶ、たくさんの星が入ってきます。
腹を立てていたわたしをなだめる為でしょうか、あの時旦那さまは「傍に居る」とおっしゃいました。小さな子どもにでもするように、抱き締めて、揺らしながら。
とても心地よくて、それは『約束』ですかと訊きそうになってしまいました。
でも、あれを『約束』だとは思いたくありません。『約束』しなければ、破られることはありませんから。『約束』が破られることほど、悲しいことはありませんから。
大事な『約束』が破られた時のあの気持ちは、二度と味わいたくありません。
無意識に手の甲で頬を拭うと、ひんやりとしました。
ふと空を見上げると、やっぱりたくさんの星が瞬いています。
昔、あのひとが帰ってこなかった時、幼いわたしの世話を焼いてくださっていた近所のおばさんは、いや、ちゃんと約束は守ってくれたよ、ちゃんと帰って来てるんだよとおっしゃいました。
この地上に住めなくなったから、代わりに空に住むようになったのだよ、と。
夜空の星を指差して、ほらご覧、お父さんはあの星の一つになって、ちゃんと、あなたの真上に帰ってきたのだよ、と。
その時のわたしは、どれがあのひとなのか、懸命に探したものでした。
――けれど、今のわたしには、あれはわたしを慰める為のお話に過ぎなかったのだということが判っています。
地上に住めなくなったら――死んでしまったら、もう二度と戻っては来ないのだということを。もう二度と声を聴くことも、顔を見ることもできないのです。
もしかしたら、旦那さまもそうなっていたかも……
そんな考えがチラリと頭をよぎり、わたしの身体は勝手にブルリと震えました。その震えで、現実に引き戻されたような感じです。
やっぱり、寒いのかもしれません。
風邪を引いてはみなさんに迷惑をかけますから、そろそろベッドに戻らないと……
そう思って立ち上がった時でした。
ガサリと茂みが揺れる音がして、そこから現れた方に、思わず目を丸くしてしまいます。
「……旦那さま?」
そう呼びかけると、空に輝く星のような金髪を揺らして、旦那さまは微かに首をかしげました。