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エイミーと旦那さま  作者: トウリン
『伯爵とメイドの日常』
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お使い◇サイドC

 目の前にあるのは、膝ほどまでの高さの石碑。

 僕はひざまずき、手にしたウイスキーをそこに注ぐ。

 鏡のように磨き上げたその石に刻まれているのは、一つの名前だけだ。そして、その下に眠るのは、ひと房の髪だけ。

 正式な墓は、ちゃんと別の場所にある――彼の妻が眠るその横に。


 これは、僕が『彼』を偲ぶ為のよすがだ。


 屋敷から遠く離れた森の奥、ここにこの石碑があることを知っているのは、多分、僕よりもこの森のことに詳しいアドルフくらいだろう。彼は、僕の森を護る者だ。この森の中のことで、彼の知らないことはない。

 髪の主の唯一の遺族にすら、この石碑のことは教えていなかった。


 黒々と輝くそれを見つめる僕の頭は、いつしか過去に跳ぶ。


 別れる間際に僕の手を握った彼のその力。「一つだけ頼みがある」と僕に懇願した、あの声。

 血と硝煙の臭いが辺りに立ち込め、いくつもの銃弾がこの身のすぐ横を飛び行き地面を穿つその中で、そう、僕は『彼』と確かに約束した筈だ。『彼』が誰よりも何よりも慈しんでいたあの子を、代わりに育み、見守っていくことを。


 あれから六年。

 ずっとそれは成し遂げられてきた。少なくとも、僕はそう思っていた。

 僕の中にあったのは、父親のような、兄のような、そんな気持ちで――


 けれども、最近の自分の思考は明らかにおかしいし、その自覚がある。


 僕は彼女を守ってきた。大事に想っている。

 だが――そこに独占欲のようなものが入り込んでしまってはならない。

 彼女が他の男と距離を縮めることに眉をしかめてはならないし、僕に向けて、僕に対して笑って欲しいなどと思うべきではないのだ。

 いずれあの子は生涯を共にする相手を見つけて、僕の元から羽ばたいていく。それが当然の成り行きだ。いつまでも屋敷のメイドをさせておくつもりなど、なかった。


 彼女には、最高の幸せを掴んで欲しいし、そうさせる為には僕も持てる力の限りを尽くそうと思っている。

 だから、『彼』――エイミーの父親以上にあの子を愛し、大事にしてくれる者を、早く見つけてやらなければならない。


 けれど、そう思うだけで、僕は胸の辺りがひり付くような感触を覚える。いったい、いつからそんなふうになったのか。


 僕は濡れた石碑に触れ、誓いを新たにする。


「大丈夫、必ず約束は守る。絶対に」

 そう呟くと、まるで何かがそれに応えたかのように、さわりと冷たい風が吹き抜けていった。


 僕は立ち上がり、梢の揺れる音だけが響く中、もう一度石碑を見つめる。


 そうして踵を返し、鞍上の者となった。


   *


 屋敷に向けて馬を走らせる。


 少し前から急にキンと冷えてきた風は、恐らく天気が崩れる予兆だろう。まだ雲はそれほど出てきていないが、もしかしたら荒れるかもしれない。

 そんなふうに空気を読みながら手綱を握っていた僕の視界で、森では見られぬ色彩が動く。

 馬を止めて目を凝らすと、確かに赤い何かが木々の間に見え隠れした。


 あれは――エイミーか?

 ……間違いない。僕が彼女を見間違える筈がない。


 あの辺りは一応道になっている辺りだ。そして、その先にはアドルフの小屋がある。エイミーの業務の中に、彼絡みのことはなかったと思うのだが。

 そんなふうに疑問に思いながらも、そちらに馬首を向けた。

 近付いて、僕が馬を止めるかどうか、というところで彼女が振り返る。こちらを見上げてきた栗色の目は、丸く見開かれていた。


 森の中を歩く、赤いマントにバスケットの少女。そんな童話がなかっただろうか?


「エイミー? こんなところで何をしているんだい?」

 キョトンとしているエイミーに、馬から降りてそう訊く。よほど驚かせてしまったのか、彼女は大きく一つ瞬きをして、それから答えた。

「アドルフさんにお届け物です」

「それを? 重かっただろうに。カルロか誰かはいなかったのかい?」

「お忙しかったみたいです」

「そうか……」

 空を見上げれば、薄い雲があるばかりだ。けれども、その雲の動きは早い。木々の枝を揺らす風も、少し強まりつつある。やはり、嵐が近づいてきているのだろう。

 彼女の足で小屋を目指しても、辿り着く前に雨になるのは確実だ。その後の荒れ具合によっては、屋敷に帰れなくなるかもしれない。


 アドルフはいい男だし信用に足る人間だ。三十半ばの彼と年頃のエイミーが二人きりで一晩過ごすということになっても、僕の屋敷の中にそれについて妙な噂を立てるような者もいない。

 だが、それでも、エイミー一人をこのまま行かせるのは気が進まなかった。


「ちょっと失礼」

 一応一言断って、彼女のウェストを両手で掴む。持ち上げて――その軽さに一瞬怯んだ。

 ウェストの細さといい、体重といい、食事は充分に出ていると思うのだが。もしかして足りないのだろうか? 一度、マーゴに確認しておかないといけないな。いや、あるいは動き過ぎなのかもしれない。この子はコマネズミのように働くから――


「旦那さま、何を……」

 少し咎めるような響きを含んだ声に顔を上げると、馬の上から僕を見下ろしてくるその眼差しも、やはり少し怒っているようだった。僕の何がいけなかったのだろうと振り返っても、思い当たることがない。


 ――勝手に馬に乗せたことだろうか? あるいは、課された仕事を一人では全うできないと言われたように感じたのか?


 どちらも、有り得そうだ。

 しかし、僕がそうしたのには、正当な理由がある。

 鞍の上へと身を躍らせながら、僕はそれを彼女に告げた。


「天気が崩れそうだからね、急いだ方がいい」

「だったら、わたしを降ろして、旦那さまは先にお屋敷にお戻りください」

 当たり前のことのように、エイミーがそう答える。


 まさか、そんなことができるわけがなかろうに。


 エイミーの頑なさと、僕がその提案を受け入れる筈と言わんばかりの彼女の口調に、少し――ほんの少しの苛立ちを覚える。確かに主従という僕と彼女の関係からすれば、当然為されて然るべきな発言ではあるのだが。

 そんな心の乱れを押し潰すように、僕は少し笑って見せた。


「君の足では間に合わないよ」

 そう断言して、彼女にこれ以上口を開かせないように、さっさと馬を走らせてしまう。

 エイミーがまた何か言い出すのを聞きたくなくて、僕は少し荒く手綱を繰った。


 馬が弾むと共に、エイミーの身体も跳ねる。強張った肩に片手を回して、彼女の耳元に囁いた。

「すぐに着くから僕に掴まっておいで」


 僕の言葉に応じてしがみ付いてきた、その感触。


 エイミーと初めて会った時――彼女を迎えに行ったあの時も、僕はその小さな身体を抱き締めた。華奢な身体、そして抱き付き返してきたその腕の力の儚さに、僕は彼女を守るのだということを実感したのだ。


 六年経って、この子もずいぶん大きくなった。

 ……中身はあまり変わっていないような気がするけれども、きっと、そうではないのだろう。多分、六年前とは違う――いつまでも同じままでいて欲しいと思うのは、僕のわがままだ。


 自嘲の笑みを口元に刻んだ僕を戒めるように、パタリパタリと雨滴が顔を打つ。


「降ってきたな」

 ――頭を冷やせと、彼が言っているのかもしれないな。

 強まってきた雨足に、そんなふうに思った。


 僕はマントを引っ張り、エイミーの身体をしっかりと包み込む。胸の中にすっぽりと納まってしまうことに、妙に胸がざわついた。


 他意はない。

 ただ、嵐から彼女を守る為、ただそれだけだ。


 雨風に打たれるのに慣れた僕と違って、こんなに華奢なエイミーを濡れるがままにしていてはすぐに病気になってしまうだろうから。


 この腕の中に彼女の身体を閉じ込めたことに、何も感じてはいないし、何も掻き立てられてはいない。


 もしも僕の中で何かが揺らいだとしても、それは気の迷いだ。


「もう少し急ぐぞ? しっかり口を閉じておきなさい」

 そう告げて手綱を振るい、速足(はやあし)襲歩(しゅうほ)に変える。


 次第に強まる雨と風の中、僕はエイミーを抱えたままアドルフの住む小屋を目指した。


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