お使い◇サイドA
担当分のお掃除を終えて、午後のお休みをいただこうと食堂を覗いた時でした。
戸口に立ったわたしに、ハウスキーパーのマーゴさんが手招きしています。
急な用事でしょうか。ほら、旦那さまが何かこぼしたとか……
でも、旦那さまの生活習慣にはちょっと首をかしげてしまうところがありますが、そそっかしくはありません。あんまり、余分な仕事を作ったりはしない方なのですが。
「何かご用ですか?」
そちらへ行って首をかしげたわたしに、マーゴさんはバスケットを差し出しておっしゃいました。
「ちょっとアドルフにこれを届けてきてやってくれないかい? そろそろ切れる頃なんだよ。本当なら男手に任せたいところなんだけど、カルロとゲイリーはもう少し手が空かなそうでね。あんまり遅くなると、日が暮れちゃうからさ」
バスケットの中にはチーズやらワインやらが入っています。
アドルフさんはゲームキーパーをなさってらっしゃる方で、大きな犬のジャックと一緒に森の中の小さな小屋に住んでいます。その方が領地内を見回るのにちょうどいいらしいのですが、もしかすると、あまり人といるのがお好きではないのかもしれません。お屋敷の他の人と『雑談』している姿を、見たことがない気がしますので。
「判りました」
「結構重いんだけどね、大丈夫?」
マーゴさんが少し心配そうに訊いてきました。試しに、ちょっと持ち上げてみます。
……確かに、重いですが――いけないことはなさそうです。
「だいじょうぶだと思います」
「本当に大丈夫かい? 無理だったら、カルロが終わるのを待って走ってもらうけど……」
「だいじょうぶです」
「そう?」
「だいじょうぶです」
力強く、頷いて見せました。なのに、何故、マーゴさんは眉をひそめているのでしょうか。
ここで押し問答をしていても、時間が過ぎるばかりですから、結局カルロさんたちを待つのと同じことになってしまいます。
「では、行ってまいります」
わたしはバスケットを取り、マーゴさんに頭を下げて部屋を出ました。
*
もうじき十月になろうとしている森の中は、少しひんやりしています。
把手を握っていた手が痛くなってきて、わたしはバスケットを両腕に抱え直しました。
歩きながら両手を握ったり開いたりしてみます。ジンジンしていた指先が、少しマシになりました。
アドルフさんがいる小屋までは道ができているので間違えようがないのですが、だんだん足の進みが遅くなってきて、予想外に時間がかかってしまっています。
少し、ペースアップしなければ。
そう思った時でした。
耳に馬の蹄の音が届いて、振り返った時にはすぐそこに栗毛の大きな身体がありました。
「エイミー? こんなところで何をしているんだい?」
見上げれば、馬の上には旦那さま、です。旦那さまはヒラリと鞍から降りると、眉をひそめて訊いてこられました。
「アドルフさんにお届け物です」
「それを? 重かっただろうに。カルロか誰かはいなかったのかい?」
「お忙しかったみたいです」
「そうか……」
旦那さまは呟き、目を空に向けました。グルリと見回して、何やら少し考えているようです。
そして。
「ちょっと失礼」
そう言うと、旦那さまは突然わたしの胴を両手で掴みました。危うくバスケットを取り落しそうになって、慌ててそれを抱え直します。
女性のお腹を何の前触れもなく触るだなんて、失礼ではないですか?
けれど、わたしが抗議の声をあげるより先に、まるで子どもにするように持ち上げられて、馬の背に乗せられてしまいました。
「旦那さま、何を……」
馬の上からでは、普段見上げている旦那さまの目がずいぶん下にありました。
というより、地面が遠いです。身体が氷漬けになったように固まってしまって、降りようにも、降りられません。
わたしが動けずにいると、旦那さまは鐙に足をかけて、後ろに跨りました。
「天気が崩れそうだからね、急いだ方がいい」
そう言われると、確かに少し黒い雲が増えている気もします。
「だったら、わたしを降ろして、旦那さまは先にお屋敷にお戻りください」
こんなお使いで、旦那さまを煩わせるわけにはいきません。首を捻って目を合わせ、そうお願いしましたが、ニッコリと笑顔を返されました。
「君の足では間に合わないよ」
そう言って、旦那さまは手綱を振るってしまいます。馬は短く一ついなないて、わたしが何か言う暇もなく、勢いよく走り出しました。
ずいぶん、揺れます。
思わずバスケットを抱き締めましたが、もちろん、何の効果もありません。
旦那さまの両腕に挟まれているので落ちることはないと思っていても、やっぱり、ちょっと、怖いです。
馬が弾むのと一緒に身体がピョンピョンと跳び上がる気がして、わたしは全身に力を込めてみたのですが。
……口からお腹の中身が飛び出しそうです。
と、旦那さまが手綱から片手を放して、わたしの肩に回してきました。それだけで、ずいぶんホッとします。そのまま旦那さまは少し身を屈めて、わたしの耳元に口を寄せました。
「すぐに着くから僕に掴まっておいで」
言われたように、間にバスケットを挟んでしがみついてみます。お腹がごつごつして少し痛いですが、揺れはだいぶマシになりました。
そうしていると、わたしは耳を旦那さまの胸に押し当てる形になって、規則正しく打つ鼓動の音が聞こえてきます。わたしのものとは速さが全然違って――半分くらいしかないのではないでしょうか。
目を閉じてそれに耳を澄ましていると、不意に、何だかとても懐かしい気持ちになってきました。お腹の底がキュッと痛くなって、喉の奥に何かが込み上げていっぱいになるような、そんな気持ち。少し苦しくて、でもイヤな感じではないのです。
わたしのお父さんは、あまりしゃべらない人でした。けれど、その分、よく頭を撫でて、抱き締めてくれました。声はあまり覚えていませんが、温かさや聞こえてくるリズムは、よく似ている気がします。
そう、よく似ているのですが――何かが違います。
だけど……何が?
ハタと目蓋を上げたら、風を受けていた方の頬に、ポタンと冷たいものを感じました。
「降ってきたな」
旦那さまが呟いた声が、低く耳に響きます。と思ったら、旦那さまはマントを掴んでわたしをすっぽりと包み込んでくださいました。
「もう少し急ぐぞ? しっかり口を閉じておきなさい」
そうおっしゃると同時に、わたしの肩に回された旦那さまの腕に力が籠められました。と、グン、と馬が速度を上げて、わたしの身体は旦那さまの胸に強く押し付けられます。
それは先ほどまでよりもずっとずっと速くて揺れて、目が回りそうになったわたしは思わず目蓋を閉じてしまいました。




