得難きモノ◇サイドC
二人のフットマンに、書斎の模様替えをさせている時だった。
女性崇拝主義で知られるカルロ・バンクスの口から発せられた台詞に、僕は思わず手にしていた書類を握り潰してしまう。今朝方届いた、領地の収益についての報告書だ。
くしゃくしゃになったそれを見下ろし、僕はテーブルの上に放り投げる。そしてごく小さな咳払いをして、何気ないふりで椅子の背に寄り掛かった。
先ほど耳に入ってきた、カルロの台詞。しっかりと僕の耳に届いていたが――いや、きっと聞き間違いだ。
そうに決まっている。
が、念のため、問い返してみた。
「……何だって?」
「いや、だから、エイミーは笑うと可愛いですよね……って」
そう言いながら、窓際に運んだ書き物机を、カルロとゲイリーが息を合わせてもう一度持ち上げて、下ろす。
聞き間違いでは、なかった。
確かに、『エイミー』という名と、『笑う』という動詞が並んで出てきたのだ。
が、そんなことに同意を求められても頷けない……僕は彼女に笑顔を向けられたことなどないのだから。
何だか面白くない気持ちを押し隠しつつ、彼らを横目で見やった。
「何をやって、あの子を笑わせたんだ?」
さりげない口調で、訊く。多分、さりげない口調になっていた筈。
カルロは手を握ったり開いたりしながら、まるでその時のことを反芻しているかのように視線を中空に向けた。そして、ミルクを貰った猫のようににんまりと笑う。
フットマンは容姿も重要視されるので、カルロもいわゆる色男だ。甘い顔に甘い声。
女性をうっとりさせるその声で、何かエイミーを笑わせるようなことを言ったのだろうか。
カルロはまごうことなき女たらしで、それは間違いない。
だが、その反面、女性絡みで揉めたという噂は聞かない。浮名は流れまくりだが、にも拘らず、彼と関わって涙を流した女性の話は、全くないのだ。
単純に、ただ、女性を称賛するのが好きなのだ、彼は。意外に、良い恋人、良い夫になるのかもしれない。
――だが、そうは言っても、エイミーの相手としては、断じて認められない。
ムッと唇を引き結んだ僕の元へ、ゲイリーとカルロの二人がやってくる。
「いや、笑わせたっていうか……」
「愛想笑いですよね、あれは」
カルロの台詞をゲイリーが奪った。
「お願いね、ニコッなんて、効果テキメンですね。特にカルロには」
「そうそう、笑顔は女の子の最強の武器ってヤツで! まあでも、作り笑いだろうが愛想笑いだろうが、俺の心を潤してくれるなら、もう何でも構いませんよ」
ご満悦なカルロに、何故だろう、何だかイラッとする。
ごまかすように、再び書類を手に取り、目を落とす。
別に、腹を立てるようなことではないじゃないか。そうだろう?
笑顔を見せてあの子が皆に愛されるのなら、その方がいい――いや、今のままでも充分に愛されているが。しかし、あんまり無差別に愛想を振りまくっているとやはり変なムシが付くかもしれない。それは好ましくないな。ヒトを見てそうするように言い含めておかなければ。見ず知らずの男やカルロのような軽いヤツはダメだ。ああ、ブライアンやエリック辺りも言語道断だな。親友とは言え、彼らの女性との付き合い方はイマイチだ……となると、僕も駄目だということか? いやいや、僕は主人なのだから、あの子の笑顔を見る権利がある筈だ。
――と、つらつらとそんなことを考えていた僕は、投げかけられたゲイリーの声を聞き逃した。
「何だって?」
今度は本当の聞き逃しで問い返した僕に、ゲイリーがにっこりと笑った。
彼は好青年の代表のような男なのだが、時折、何か裏があるのではなかろうか、と思わせることがある。
今の笑顔もそんな感じだった。
ゲイリーは、多分僕が聞き損ねたのと同じセリフを繰り返す。
「だから、エイミーはいったい誰からあんな技を教わったんでしょうねぇ? もしかして、常日頃彼女の笑顔を目にしている輩がいるのでしょうか?」
「そんな気配はこれっぽっちもないけどなぁ。エイミー、僕に見せるその笑顔を皆にも見せてあげてごらん、とか? うぅわ、羨まし過ぎる」
頭を振ったカルロに、まさか、言った当人は未だ一度も見せてもらったことがないのだ、とは言えず、僕は無言で次の書類に手を伸ばした。
「で、セドリック様?」
「なんだ?」
「後はどういたしましょうか?」
そう言えば、模様替えをしていたのだった。
僕はおざなりに部屋の中を見回す。
「ああ、これでいい。ご苦労だったね。下がっていいよ」
「では、我々はこれで。行くか、カルロ」
ゲイリーとカルロは一礼すると、連れ立って書斎を出て行った。去り際に、クスクスとゲイリーの忍び笑いが聞こえたような気がしたのは、気の所為ではない気がする。
まったく、たかが笑顔一つのことで何でこんなにモヤモヤするんだ?
ため息に近い深呼吸を一つして、僕は埒もない考えを消し去るべく、葡萄の収穫高についての報告書に手を伸ばした。
*
数日後。
「おはようございます……まあ」
朝、いつものように僕を起こしに来たエイミーは、「まあ」というその声と共に、微かに目を丸くした。起こすどころかすでに着替えも終えていた僕に、驚いたらしい。
「お身体の具合でも悪いのですか?」
ハッと気づいたように彼女が口にしたのは、そんなセリフだった。よほど珍しいらしい――まあ、当然か。
「いや、ちょっと夢見が……」
「お悪かったのですか?」
苦笑しながらの僕の答えに、エイミーは気遣うように眉をひそめてこちらに近付いてきた。そうして、僕の顔をしげしげと覗き込む。
悪かった、のではない。
むしろ、良かったと言おうか、何というか。
僕は、真っ直ぐに見つめてくる大きな栗色の目を、見返した。そして、ついさっきまで微睡の中で見ていたエイミーを思い出そうとする。
夢の中、名前を呼んだ僕に彼女は振り返り、そして満面の笑みを浮かべた――筈だった。胸が苦しいような、温かいような、そんな感覚は覚えている。なのに、肝心の笑顔は全然覚えていない。
二度寝をしたらもう一度見られるかと思ったのだが、何故か目が冴えてしまいさっぱり眠気は訪れてくれなかった。
「……エイミー」
「はい」
名を呼ばれ、彼女が小さく首をかしげる。
「ちょっと、笑ってみてくれないか?」
しまった、つい、口が滑ってしまった。
「はい?」
今度は、滑らかな眉間に皺が寄った。
唐突な『命令』に、彼女が戸惑うのももっともだ。僕は冗談めかして言い繕う。
「いや、早く起きたのだから、ご褒美をくれてもいいだろう?」
「笑顔がご褒美ですか?」
「少し前にも言ったじゃないか。女性の笑顔は男をやる気にさせる、と」
「……そうですね。その通りでした」
その答えの前には、少し間があった。誰のことを思い浮かべたのだろう?
しばし、無言。何となく、エイミーが頑張っているのが伝わってくる。
が。
「……できません」
「え?」
「笑えません」
「カルロには笑ってみせたと聞いたけど?」
「はい、その時はできました」
「では、何故僕には笑えないんだ? 別に、心の底から笑えというわけじゃないんだけどな」
「判りません」
彼女自身戸惑っているように見えた。
主に対して緊張している?
――いや、普段の彼女を見る限り、そんなことはないだろう。
もしかして、作り笑いもできないほど僕が嫌いだったりする?
――まさか、そんな。
胸中で慌ててその考えを打ち消したが、完全に否定しきれない自分がいる。主としてはそれほど悪くないと自負しているが、大人としては……
「旦那さま?」
少し、申し訳なさそうな彼女の声。
僕は無理やり笑顔を作り、首を振る。
「できないのなら、仕方がないな。朝食の準備をしておくれ。午前中に出かけるところがあるから」
「承知しました」
ホッとしたようにペコリと頭を下げると、エイミーはそそくさと部屋を出て行った。
その姿が消えるのを待って、近くの椅子を引き寄せる。そして力なく腰を落とした。
何故、エイミーは僕には愛想笑いも見せてくれないのだろう?
僕以外には、見せるというのに。
何だか妙に、そのことがショックだった。