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「ケーサツ呼べ!」
俺が叫ぶと、松浦と呼ばれた男は、うなり声をあげて俺を突き飛ばし、脇目もふらずに逃げ出した。追いかけようとするが、稲本が気になって思いとどまる。俺は稲本に駆け寄ると「大丈夫か」と助け起した。よほど執拗に殴られたんだろう。稲本の顔は赤黒く腫上がり、血と涙でぐしょ濡れになっている。俺は救急箱を持ってくるよう弟に言い付けた。
「誰なんだ? あいつは?」
ガーゼで血を拭き取りながら俺は稲本に尋ねる。しかし、稲本は何も答えない。
「知り合いなんだろう?」
そう言って弟を見ると、弟は小さく頷いた。
「松浦っていって、俺らの高校時代のクラスメートだよ」
「そして、あんたの弟を引きこもらせた直接の原因になった奴さ」
手元から声がするので見ると、腫れたまぶたの下から稲本がこちらをじっと見上げていた。
「弟を引きもらせた原因? つまり、弟をいじめた奴ってことか」
「そうだよ」
稲本が頷く。
「ああ。なるほどね」
それで俺は納得した。どうりで、弟が怯えていたわけだ。
「けど、お前、あいつのターゲット外れたんじゃなかったのか?」
弟が言う。
「外れたさ」
答えると、稲本は緩慢な動作で起き上がった。
「お前がいなくなった後のマトは、清水って奴だよ」
「ああ。あのアニ研の。けど。ターゲット外れたなら、どうして殴られてたんだよ?」
「別に。ただのくだらないケンカだよ。それより、お前、何しに来たんだよ? アニキまでつれて」
「話があって」
「話?」
「……風の噂で聞いたんたけど、俺と喧嘩したせいで大事な就職の面接に行けなかったって本当か?」
「ああ。そのことか。それなら、本当だよ」
稲本の言葉に、弟は言葉を失ったようだ。そんな弟をしれっとした目で見上げて稲本が言う。
「で、本当なら何なんだよ? 責任でも取るって言うのか? 賠償金でも払ってくれるのか?」
「おい」
俺は眉をひそめた。
「そういう言い方はないだろう。確かに弟も悪いが、元はといえば、お前がくだらないいちゃもんつけてきたから……」
「冗談ですよ」
稲本が言った。
「何も気にしてませんよ。どうせ、面接行ってたって落ちてたし」
「……なんの……なんの仕事の面接だったんだ?」
弟が言う。
「別に。たいした仕事じゃねえよ。それより、帰ってくれないか? 少し眠りたいんだ」
「けど、大丈夫なのか? 怪我」
俺が言うと、
「大丈夫ですから」
と、稲本はそっけなく答えた。
「このぐらい、馴れてますから。それより、弟さん、二度と来させないでくれませんか? 迷惑ですから」
「……」
正直、辛かった。「迷惑」と言われたのが辛いんじゃない。トゲトゲしい言葉とは裏腹に寂しさみたいなのを感じたからだ。
「そこまで言うなら今日は帰るけど……」
俺はそう言うと、自宅の電話番号をサラサラとメモり、
「何かあったら、電話してくれ。いつでも助けになるから」
と、稲本に手渡そうとする。しかし、稲本が受け取ろうとしないので、仕方なくその足元に置いた。それから、ひっくり返ったテーブルと、こぼれたウーロン茶の後始末だけすると、俺と弟はアパートを後にした。
そして、また、平穏な日が戻る。
弟は仕事のかたわらボランティアに励み、俺は少しづつ絵を書きためていった。
ある土曜日の朝。
休みだというのに、めずらしく早く目覚めた。
二度寝しようと思うが、妙な胸騒ぎを感じて眠れない。
仕方なく飯を食いに階下に降りると、驚いた事に、既に弟も起きていて朝食を食べていた。
「なんだよ。休みに早起きなんて。今日は台風か?」
軽口をたたくと、
「休日出勤だよ」
と、弟が渋い顔をする。
「そうなのか?」
「ああ。なんでも溶鉱炉のメンテをやるから現場に来て欲しいって」
「全員か?」
「らしいよ」
「大変だな」
「ま、いいよ。休日は時給割り増しだし」
「なるほどね」
それから、しばらくたって弟は出かけていった。その足音を聞きながら俺はスケッチブックに線を走らせた。
紙の中には一人の作業着を着た男がいた。男は額に汗を流して働いている。その顔には、喜びや、悲しみや、失望や、希望など、色々な思いが刻み込まれている。
昔は、こんな絵は苦手だったんだ。
人間なんて、見れば見るほど嫌なところばかり分ってくる気がして、だから、俺の描く人の顔はひどく汚かった。
しかし、今、目の前の男は、人の持つ汚さを飲み込み、苦しさを穏やかな光に変え、ひたすら汗を流して働いている。何が俺にこんな絵を描かせるのか分からない。弟をモデルにしたら、こんな絵になっただけだ。それでも一つ、思う事がある。人の愚かさや醜さは時として救いようのない苦しみを招くが、苦しみは人を磨き、やがて大きく開花させる。そこまでの長い道のりを、優しさと希望のともしびを携え、人は一人で歩いていくのだろう。
ふと、気付くと、遠くでサイレンが鳴っていた。なんだろう? けたたましい。どっかで事故でもあったのか?
時計を見ると1時を回っていた。
慌てて昼飯にしようとしたその時、突然携帯が鳴った。
誰かと思えばみーさんだ。
「どうしたんです? 珍しい」
尋ねる俺にむかい、やけに低い声でみーさんは言った。
『優ちゃん、落ち着いて聞いてよね』
「はい? なんですか?」
『今、工場内で爆発があってね』
「え?」
『それで、鋳造工場が火事になってね。その中に正ちゃんが取り残されてて……』
その後の言葉は覚えていない。