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会社からの帰宅途中、突然、弟が言った。
「俺、今から稲本の家に行こうと思うんだけど」
「え?」
俺は驚いて、背後を歩く弟を振り返る。
「今からか?」
「ああ」
弟はうなずいた。
「ああ……って。もう夜だぞ。っていうか、お前、あいつの家知ってるのか?」
「知ってるさ。この近所だよ」
そう言うと、弟は川沿いに並ぶ家々の灯を見つめた。2月下旬。多少、日が長くなったとはいえ辺りはすっかり闇に包まれている。
「もう、遅くないか?」
「まだ、6時じゃないか」
「飯の時間だろう」
「そんなに長居しないさ」
「けど、なんでまた急に……」
「なんか、気になるんだよ。あいつ、俺とケンカしたせいで面接落ちたとか言ってたし」
「気持ちは分からないでもないけどさ……」
と、俺は苦々しい顔をした。
「半分以上はあいつの自業自得だぞ。大体、先にケンカを売ってのはあいつじゃないか。仮にもそんな大切な日に挑発する事自体、自覚が足りなさ過ぎる」
「けど、俺が手を出さなければ、こんな事にならなかったのは確かだし……仮にも元親友が、自分のせいでチャンスを奪われたってのにさ、このまま放っておけるか?」
「そりゃ、気持ちは分からないでもないけど……お前が会いに行ったって何も解決しないだろう? むしろ神経逆なでするだけじゃないのか?」
「かもしれないけど、このままじゃ、自分の気が収まらない。俺自身もも前に進めないよ」
前に進むっていうのは、おそらく介護福士師の道を目指す事だろう。
「分ったよ」
俺はしぶしぶうなずいた。
「ただし、俺も着いて行くからな」
「ええ?」
弟が嫌そうな顔をする。
「なんでアニキが?」
「万一、お前らがケンカになった時、とめる人間がいないとヤバいだろう」
「ケンカなんかしないよ」
「そんな事断言できないだろう? お前がケンカする気なくても向こうが売ってくるかもしれないぞ。何しろ、向こうは恨みたっぷりだろうからな。殴りかかられても、お前は我慢できるのか?」
「……分ったよ」
今度は弟がしぶしぶうなずく番だ。
こうして、俺らは2人で歩き始めた。
川沿いの道を右に折れるとゴミゴミとした住宅街に入る。いつ、袋小路になるとも分からないような狭い小道を歩きながら、俺は弟に尋ねた。
「で、稲本の家はどこなの?」
弟は振り向きもせずに答える。
「ラビットハイツって覚えてる?」
「ラビットハイツ?」
俺は首を傾げた。どこかで聞いたような、聞かないような……。しばらく考え、やがてはっと思い出す。
「ああ、あの虹の絵の書いてある……」
それは、この住宅街の中の公園のすぐ側にあるアパートの名前だ。その側面に描かれているでっかい虹の絵のおかげで、この界隈では一番目立っている。子供の頃、公園に遊びに行くたびにその虹を見ては『なぜ、ウサギじゃなくて虹なんだ?』首を傾げていたもんだ。
「あそこに住んでいるのか?」
「いいや。その横の朝顔荘」
「朝顔荘?」
まったく記憶にない。
「行けば分かるよ」
言うと、弟はすたすたと先を急いだ。
くねくねと曲がる露地をしばらく歩くといきなり視界がひらけ、小さな公園に辿り着く。真正面に浮かぶ灰色のアパートの上で小さな月が輝いている。弟は、アパートから若干ずれた位置を指さし「あれが、朝顔荘だ」と言った。そこには、隣の大きな建物に寄り掛かるがごとく、ひっそりと小さな家が建っていた。アパートというよりはむしろ民家のようだ。公園を突っ切り、俺達はアパートを目指す。
さびたボロい階段をカンカンと昇って行く。この、2階が稲本の部屋らしい。それにしても、不思議だ。よく、弟は稲本なんかの住処を知っていたもんだ。だって、どう見ても実家じゃないだろう。と、いうことは弟との関係が切れた後にここに移り住んだってことになる。
「お前、なんで稲本の住所なんか知ってたんだ?」
と、たずねたところ、「年末にもらった従業員リストに載っていた。うちの近所だし、ラビットハイツ隣なんて書いてあったからすぐ分った」とのこと。ああ、そういえばそんなリストもらったよな。すっかり忘れていた。
無駄口たたいているうち、すぐに2階にたどり着いた。表札には、確かに『稲本』と書いてある。弟がノックしようとして手を止めた。そして言った。
「開いている」
「え?」
見ると、確かにドアは半開きになっていた。
「そのまま開けちゃえば?」
俺が言うと、弟が「しっ」と指を口元にもって行く。そして、
「声が聞こえる」
と耳をすませた。
「誰か来てるみたいだ」
「なんだ。来客中じゃしかたないな。今日は、帰るか?」
弟はうなずいた。
「……そうだな。その方がいいか」
と、その時だ。
ガシャーン。
と、部屋の中で何かが割れる音がした。
ぎょっとする俺達の耳に、続いて悲鳴が聞こえてくる。
「やめろ! やめろってば!」
俺と弟は顔を合わせた。
……何ごとだ?
しかし、考えているヒマはなさそうだ。
俺らは、ほぼ同時にうなずき合うと、ドアを開けて部屋に飛び込んで行った。
外見よりは広い部屋で、入ってすぐはフローリングの6畳だった。その向こうに障子を隔ててもうひと部屋あって、物音はそちら側から聞こえてくる。俺らはフローリングを突っ切ると、障子を開けて次の部屋に乱入した。
まっ先に目に飛び込んできたのは、どでかい金髪の男の背中だ。男が稲本の上に馬乗りになって、稲本の顔を何度も殴っている。稲本は哀れにも畳の上に押し付けられて「やめろ、やめろ」と半泣きになっている。机の上に割れたコップがひっくり返っていて、こぼれた液体がちょうど稲本の頭の辺りで水たまりを創っていた。
「おい! 何をしてる?」
俺は男の背中に飛びかかり、稲本から引き剥がそうとした。しかし、なにしろあまりにも体格差が有りすぎる。巨大な岩のごとくにびくともしない。
「おい! 手伝えよ!」
俺は、後ろにいるはずの弟に向かって叫んだ。しかし、待てど暮らせど弟からの援助は何も無い。
「おい! 何してるんだよ」
切れて振り返り、ぎょっとする。なぜなら弟の顔面が蒼白になっているからだ。おまけに奴は震えていた。あきらかに、怯えている。なんつー意気地なしだよ。情けないやら、悲しいやらで、俺は、頭に来てもう一度叫んだ。
「おい! どうしたんだよ! びびってる場合かよ!」
と、弟が小さな声でつぶやいた。
「松浦……」
「松浦ぁ?」
誰の事だよ?
一瞬首をひねるが、とりあえず、今はそれどころじゃ無かった。