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とりあえず田辺由紀恵は弟の勇気を評価してくれたが、現実は想像をこえて厳しかった。
数日後の午後、俺と弟は、仕事中に小金井さんに呼び出しを受け、唐突にいわれたのだ。
「悪いが、河井弟を、あのフロアに置いておく事はもうできない」
と。
「なんでですか?」
俺は思わず椅子から立ち上がり机を叩いて叫んでいた。弟のリストラの危機は何度かあったが、小金井さんが出てくるなんて、よっぽどの事だ。
聞けば、ショップでの一件が会社にまで伝わっていて、
「それで、フロア内の一部の連中が、河井弟とはこれ以上一緒に働けないって言っているからだ」
小金井さんは渋い顔で言う。
「なんで、そんな事みんなが知ってるんですか?」
俺は小金井さんに詰め寄った。すると、小金井さんは淡々と言った。
「どうして、と言われれば、狭い地域内の事だから、こんな話は誰からというわけでもなく伝わってくるという事だ」
「だからって、なんで弟が辞めなきゃいけないんですか?」
「まだ、辞めさせるとは言っていない。ひとまず、会社としては詳しい事情を知りたいだけだ。一体、何があったんだ? 河井弟、説明してくれ」
すると、弟は立ち上がり、極めて事務的に答えた。
「はい。あの日、僕は、ボランティアで、みさきさんや障害者の子達と買い物をしたんですが、そこで偶然に稲本君と出会い、それで……些細な事から口論になって、僕が稲本君に殴りかかったんです」
「君がボランティアをやっているのか?」
「はい」
「なるほど。で、その、口論というのは、どういう内容だったんだ?」
「稲本君が障害者の子を馬鹿にしたような事を言ったんです」
「具体的には?」
「僕が、みさきさんや、車椅子の子と仲良くしているのを見て『類は友を呼ぶ』って」
「なるほど……」
小金井さんが腕を組む。
「それが、河井弟にとっては『馬鹿にされた』ように感じられたわけだ」
「あの言い方は、明らかに馬鹿にしてましたよ」
俺は助け舟を出す。
「まあ、その場にいないと分からないが……」
と、小金井さんは首をひねった。
「とりあえず重大な事は、あのケンカが原因で、稲本が面接に行けなくなったという事だ」
「……!」
その言葉に、さすがの俺もショックを受けた。弟も驚いている。確かに、あいつは、あの日、面接に行く途中だと言っていた。心配はしていたが、やっぱり駄目だったのか。
「それが、どうやらただの面接ではなくて、稲本にとっては人生を変えるか変えないかぐらいの大切な面接だったらしい」
小金井さんの言葉に、俺と弟は顔を見合わせた。
「人生を変えるか変えないかぐらいって……一体、稲本君は、どこの会社に勤めるつもりだったんですか?」
「詳しくは知らないが、弁護士事務所らしい」
「ああ」
その言葉に弟が頷く。
「あいつ、昔から弁護士か教師になりたいっていってた。なのに、大学にも行かないで、こんなところにいるから、何やってるんだろうとは思っていたんだ」
「大学も出ないで、弁護士なんて」
俺はあきれかえる。
「そんなの、無理に決まってるじゃないか」
「そう。普通は無理だ」
小金井さんが頷く。
「それが、どういう奇跡でか、稲本はチャンスをつかんだんだ。ところが、そのせっかくのチャンスを、河井弟と喧嘩をしたために失ってしまった」
「……」
「それで、解体フロアの人員の9割が稲本に同情している。と、そういうわけだ」
「確かに、いくら事情を知らなかったとはいえ、稲本君には気の毒な事をしたと思います。でも、だからって弟が解雇される原因にはならないんじゃないでしょうか?」
俺は食い下がった。
「そもそも、そんな大事な日に絡んでくる稲本君も悪いんじゃないですか? せっかくのチャンスをつかんだって自覚が、あまりにもなさ過ぎます」
「まあ、おちつけよ、兄貴」
小金井さんはしかめっつらした。そして言った。
「お前の顔に免じて、こちらとしても忍耐強く弟を雇い続けて来たんだ。こちらとしても事情は分っているから……」
その言葉に弟が「え?」って顔で俺を見た。
「しかし、もう、これ以上こちらもかばいきれないんだよ。みんなが言い出してるんだ。『会社は河井弟をひいきしすぎだ』って。これ以上、河井を置いておくなら自分達は辞めるって10人以上の人間が言い出してるんだ。それだけの人間に一度に辞められると、会社としても困るんだよ」
「……確かに」
俺はうなずいた。
「確かに、弟はいままでも色々問題を起して来ました。でも、本人も自覚して、努力して、仕事の成績もあきらかに上げたじゃないですか」
「それは、会社側も認めているよ」
「なのに、クビですか?」
「だからクビにするとは言っていない。クビにするのはあんまりだと、原口さんも言っている」
「原口さんが?」
俺はちょっと驚いた。
「しかし、このままあのラインに置いておくのは無理だ。それで、原口さんとも話し合った結果、河井弟には部署を移動してもらう事にした。ちょうど、今、欠員があるから」
「ああ。部署替えですか」
その言葉に、こころもちホッとする。ここで、クビにならずに済んだという事は、弟の努力も少なからず認められたって事だ。
「で、どこに移動なんですか?」
すると小金井さんは、一瞬の沈黙の後に言った。
「鋳造工房だ」
「え?」
その言葉に俺はふたたびショックを受けた。
「それって……」
遠回しのリストラ勧告じゃないんですか? という言葉を飲み込む。
それほどに、きつくて危険な部署らしい。生半可なバイトが続けられるとこではないと聞いている。が、弟はさらりと答えた。
「僕は、どこでもいいっすよ。置いてもらえるなら」
ここまで読んで下さっってありがとうございます。
さて、ご連絡です諸々の事情のためしばらくお休みをいただきたと思います。
次回の更新は6月になると思います。6月に週2回更新して一気に完結まで持っていきます。
最後までおつき合いいただければ幸いです。
橘 明