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リアルババ抜き 1
しかし、実のところ、僕はイジメなんて怖れていなかった。
それどころか、いじめる奴らを哀れんでさえいた。こいつらは、人をいじめる事でしか、自分の自尊心を満たせない空っぽな連中なんだと。
それに比べて、僕には圧倒的な知性がある。その気になれば、こいつらとは違う世界に飛び出す事だってできる。そうさ、元々こいつらとは住む世界が違うんだ。
殴られ、蹴られる毎日でも、僕の魂は高くから連中を見下ろしていた、両手に余るほどの哀れみと、優越感を持って。
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弟の勇気ある一歩は、必ずしも成功とは言えなかった。
稲本からは期待した言葉は引きだせなかったし、割り込んで来た原口さのジャッジは100歩譲っても公平さを欠いているようにしか思えない。
おまけに、朝、グループの一員が無駄な後片付けなんぞやっていたせいで、弟のグループは1日のノルマを達成する事ができず、2時間の残業をさせられるハメになし、冷ややかな視線が弟に注がれた。
「まあ、そう落ち込むなよ」
帰る道すがら、弟に言う。
「よく、あれだけの事が言えたなって感心してるよ」
すると、弟はぼそりとつぶやいた。
「田辺センセーが、自分は悪くないって事をみんなに知ってもらえと言うから、やったまでのことだ」
「ああ、やっぱりな。そんな事だろうと思った」
「でも、やっぱりあの人の言う事は理想なんだな」
「だから、そう言っただろう」
「ああ。そうだな」
「で、どうする? これでもまだ続ける気か?」
「……そうだな。もう少しだけ頑張ってみるよ。まだ、試したい事があるんだ」
「試したい事?」
「ああ」
「試したい事ってなんだよ?」
尋ねてみたが、弟は何も答えない。それで、その質問はそこで切り上げ、それきり黙りこくって家路を急いだ。
次の日。
昨日のひとことがきいてか、さすがに弟のスペース上には何も置かれていなかったようだ。
しかし、相変わらず周りの視線は冷たかった。
「おい、今日は早く帰れそうか?」
「無理に決まってるだろう?」
などと、聞こえるように言うものもある。弟はそれらのノイズを黙殺してB4のマニュアルをばさりと開いた。何をする気かと見ていると、それを横に置いて熱心に読みふけっている。
「何、今さらマニュアル見てんだよ?」
という罵声がどこからか飛ぶ。しかし、弟はそれらも右から左に聞き流し、マニュアルを見ながら作業に取りかかりはじめた。作業に没頭する事でこの場を乗り切ろうと言う事か? 俺はそんな弟を遠目に見ながら俺は心の中でエールをた。「頑張れよ」と。
こんな具合に、状況は何も良くならないまま日々が過ぎていく。ずっとこのままエンドレスで不毛な戦いが続くのかとうんざりしはじめた頃、やっと一つの変化が起きた。それは、まず、弟の仕事っぷりに現れてきた。ずっと、1日の解体数が最下位だった弟の成績がいきなり上位10位に食い込むようになったのだ。
これには、誰もが驚いた。兄貴である自分がもっとも驚いていたかもしれない。
「おい。どうしちゃったんだよ? 急に仕事できるようになっちゃって」
と、弟に尋ねると、
「別に」
と、弟はそっけない。
「別にって事はないだろう? 何か秘けつがあるんだろう? 参考のために教えろよ」
「別にたいした事やったわけじゃないよ。単にマニュアルを読み込んだだけさ」
「マニュアルを? それだけ?」
「そうだよ」
「嘘だろう?」
「嘘じゃないよ。田辺センセイにやれる事からやれって言われたから、まずできそうな事をしたまでだよ」
「それが、マニュアルを読む事だったのか?」
「そうだよ」
「っていうか、今まで読んだ事なかったのか?」
「馬鹿馬鹿しいと思ってたからまともには読んでないよ。その後も、今さら感があって読む気にならなかったしさ。でも、読んでみたら今まで分からなかったところが分っただけじゃなくて、それ以外にも効率の良い方法を見つけて……」
「それで作業が早くなったってわけか?」
「みたいだな」
「はあ……」
俺は感心して首をひねった。
「やっぱり基礎は大事だなあ」
稲本に真実を言わせる作戦は失敗したが、どうやら仕事のレベルをあげる事には成功したようだ。しかし、弟を敵視する連中にしてみれば、それはそれで気に入らないらしい。ある朝の朝礼で、先週の解体成績優秀者発表で、3位に弟の名前が上がった時、
「そんなに頑張らなくてもいいんだよ!」
と聞こえるようにつぶやく声が聞こえてきた。できなければできないで文句を言い、できればできればるでケチをつける。坊主憎けりゃ袈裟まで憎いってとこだろう。
しかし、この頃には、既に弟は外野のノイズには関知しないようになっていた。なんでも、『言わせたい人間には、好きなように言わせておけばいい』といった田辺由紀恵の言葉に励まされているらしい。ところが、この、超然とした弟の態度が、また周りのカンに触るらしく、またまたイヤミを言われる。
「河井さん、そんなに一人で頑張らないでくれませんか? 俺らのハードルまで上がっちゃうし」
ちなみに、このセリフを言ったのは稲本だ。それを聞いた原口さんが大声でたしなめる。
「おい。稲本。ムダ口きかずに作業しろ」
先日の不公平なジャッジにキレていただけに、この時は原口さんを見直した。そして、嬉しくなった。世の中たまには良い事があるんじゃないかと。
弟が勇気をもって踏み出した一歩が、着実に道を造っていく。1つ1つ石を積み上げるように、1日1日を慎重に積み重ねていく。こうして人生は築き上げられていく。これを完遂した時を一生というのだろう。これなら、完璧に弟も更生し、今度こそ本当に東京に戻れるかもしれない……。いつしか俺もそんな期待を抱きはじめた。
しかし、やっぱり世の中そんなに甘くない。
ある日突然、稲本とそのゆかいな仲間達がつるんで仕事を休みはじめたのだ。表向きは『体調が悪い』とのことだが、その実弟と原口さんへの当てつけであることは明らかだった。