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「大地君。本当に誰も嘘なんて言ってないよ。……ねえ」
田辺由紀恵が俺に同意を求める。
「ああ。そうだよ。大地君。俺、本当に良かったっと思ってるよ。……なあ」
弟に同意を求める。しかし、弟は何も答えなかった。
「なあ」
再び同意を求めるが、何も答えない。この馬鹿。少しは周りに合わせるということを覚えろよと、少しイラっと来た時、大地が言った。
「いいよ。分かってるんだ。僕が悪いんだよ。無理言ってダンスに出してくれなんて言ったからさ」
その言葉に、弟が反応する。
「お前、自分からダンスに出たいって言ったの?」
「そうだよ。でも、やっぱり無理だった。みんなに迷惑かけちゃったよ」
「誰も迷惑なんて思ってないよ。それに、本当に上手だったと思ってるよ。嘘なんてついてないよ」
「いいってば。無理しなくて。それに、嘘ってその事じゃないし……」
「じゃあ、何のことだい?」
尋ねても、大地は黙ってる。
しばらくして、俺は「あっ」と気付いた。
……もしかして、彼の言ってるのは自分の病気の事じゃないのか? ……
彼の患っている『筋ジストロフィー』という病は、現代の医学では治せない難病だ。今は歩行困難なだけだが、いずれは全身動けなくなる。それが、大地を待つ運命であり、未来である。いずれは、本人に告げなくてはいけない日も来るだろうが、少なくとも今じゃないだろう。わずか10才の子供に知らせるには、あまりにも過酷で残酷な真実だもの。
だが、いくら周りの大人が隠したところで、これだけ情報のあふれた世の中だ。何かのはずみで知ってしまう可能性は、十分過ぎるほどにある。もしかして、大地は知ってしまったんじゃ……?
大地の母親も、同じ事を思ったのだろう。こころなし、青ざめて見える。そんな大人達の様子を探るように大地は見ていた。
「あのさ……大地君」
田辺由紀恵が何か言おうとするのを、弟が遮る。
「でも、俺は大地はえらいと思うから、自信持っていいよ」
大地は疑り深げな視線を、弟を見た。
「いいよ。なぐさめてくれなくても」
「別に、なぐさめてない」
「うそばっかり。お兄ちゃんだって、本当は僕が可哀相な子だと思ってるだけでしょ?」
「違うね。俺、そんなにいい人じゃないもん。だから、気を使った慰めなんて口が腐っても言えないね。でも、お前の事は心からうらやましく思うよ」
「僕のどこがうらやましいの? まともに歩けもしないのに。お兄ちゃんは変だよ」
「心の自由さだよ」
「心の自由さ?」
「そうだよ。世の中にはまともに歩けたって、近所のコンビニにすら行く事のできない奴がいっぱいいるのさ。そういう奴にくらべれば、お前は100倍も自由で、強いよ」
俺は驚いて弟を見た。こいつ、自分の事言ってやがると。
「だから、お前は『俺はスゲー奴』って威張ってもいいぞ。モグラみたいな奴に比べれば十分立派だって」
「モグラみたいな奴って誰?」
大地はまっすぐな瞳を弟に向けて言った。弟は、無言で自分を指さす。
「お兄ちゃんが、モグラ?」
「そうだよ。俺はモグラ」
「お兄ちゃんは人間だろ?」
「モグラみたいに穴の中に隠れてるって事だよ」
「でも、ここにいるじゃん」
「やっと、ここまで出られたんだ。普段は穴の中にいるよ」
しかし、大地はきょとんとしている。無理もない。子供には少し難しいだろう。
「お兄ちゃんは、穴の中が好きなの?」
「いいや、好きじゃない」
「じゃあ、どうして穴の中にいるの?」
「恐いからだよ」
「何が恐いの?」
「人間さ」
子供相手に思わぬ告白である。
「人間? 友達とか?」
「まあ、そんなとこかな」
「だったら、僕だってそうだよ」
「え?」
弟は意外な顔つきをした。
「僕、こんな体になってから、学校でも、町でも色んな人に見られたり、笑われたりして恐かったよ。それだけじゃないよ。夜も恐いんだ。いつか、このまま動けなくなるんじゃないかって。昼でも、ひとりぼっちでいると恐くなる時があるよ」
その言葉を聞いて大地の母親が泣き出した。そして、大地を抱き締めひたすら謝る。「ごめんね、ごめんね」と。大地は、悲しそうな目でそれを見ている。やはり、何もかも知ってるんじゃないだろうか? この子は? と、思う。
「でも、僕、負けたくないんだ」
大地は言う。そして、母親をなぐさめた。「お母さん泣かなくてもいいよ」って。
しばらくして、弟が口を開いた。
「それなら、お前は俺の1000倍も偉いな。逃げ出さずにいる」
「……お兄ちゃんも逃げなければいいだけだよ」
「簡単に言うなよ。俺にはいろいろハードルが高すぎるの」
「ハードル?」
大地がまた首をかしげた。やっぱり子供には難しいんだろう。と、さっきから黙って2人のやりとりを見ていた田辺由紀恵が口を開いた。
「……あのさあ、弟君」
「なんだよ、センセイ」
「最初から、全部やろうとしなくていいんだよ。やれるだけの事をやれば十分なんだよ」
「なるほどね。でも、それじゃ、周りが納得しないのが現実だろ?」
「人がどう思うがいいんだよ。自分に恥ずかしくなければ」
その言葉に、一瞬弟が打たれたような顔をする。が、すぐに元の仏頂面に戻り、
「ありがと、センセイ」
とだけ、言った。
「だからね」
由紀恵が続ける。
「今日の大地君も、できるだけの事をやったんだから、それで十分なんだよ」
「……そっか」
「納得した?」
「……うん。ちょっとは」
「よし。じゃあ、もう、今日は帰って休みな。疲れたでしょう?」
そう言うと、大地は母親と共に去って行った。
その後ろ姿を複雑な思いで俺らは見送る。どんな慰めの言葉でも変えられない、彼の未来に思いを馳せつつ……。